
日本では梅が咲き誇っている時期だと思いますが、もうすぐす
ると桜の季節になりますね。寒いのもあと僅か・・・

「バターン半島死の行軍について思ふ」
まず初めにこれが起きたのは戦時下であったと言うことを頭に
入れてから話しを進めたい。
多くの方が想像するに戦時下と言うのはまま常識では考えられ
ない異常なことが起こり易いと言うことである。
最近ではアフガンに行かれた米兵が精神異常をきたすものが多
くいたという話を耳にした事がある。
そういう状況だと言うことをくれぐれも頭に置いていただきたい。
以下はWikipediaを参考としたものである。
”守備隊の降伏”
1941年(昭和16年)12月23日、台湾から派遣されたフィリピン攻略
の主力部隊である、本間雅晴中将率いる第十四軍が、ルソン島リン
ガエン湾に上陸した。フィリピン防衛の任に当たっていたのは、ダ
グラス・マッカーサー率いるアメリカ極東陸軍(米比軍)であった。
の主力部隊である、本間雅晴中将率いる第十四軍が、ルソン島リン
ガエン湾に上陸した。フィリピン防衛の任に当たっていたのは、ダ
グラス・マッカーサー率いるアメリカ極東陸軍(米比軍)であった。
マッカーサーは12月24日、マニラの無防備都市宣言を行った後マニラ
から撤退、バターン半島とコレヒドール要塞に立てこもった(米軍は
撤退途中、人影があれば撃ち殺し、村があれば機銃掃射して皆殺しに
した)。
日本軍は翌1月2日に、マニラの無血占領に成功した。その後、
日本軍はコレヒドール要塞を攻撃し、3月12日、マッカーサーはコレヒ
ドール島を脱出した。
日本軍はコレヒドール要塞を攻撃し、3月12日、マッカーサーはコレヒ
ドール島を脱出した。
(米軍は食料も充分ではないようであったのに、部下を見捨てて
自分達家族で逃げ出したのである。これがそもそもバターン死の行軍と
されるものの遠因である。)
4月9日、日本軍はバターン半島を死者130名、負傷者6808名を出して
占領した。降伏したエドワード・P・キング少将率いるバターン半島
の米比軍は、約7万6千名もの多数が捕虜となった。これは、日本側の
2万5千名との捕虜数予想を大きく上回るものであった。なお、コレヒ
ドール要塞はその後も籠城戦を続けていた。
占領した。降伏したエドワード・P・キング少将率いるバターン半島
の米比軍は、約7万6千名もの多数が捕虜となった。これは、日本側の
2万5千名との捕虜数予想を大きく上回るものであった。なお、コレヒ
ドール要塞はその後も籠城戦を続けていた。

捕虜になる前から食糧不足やマラリアで痩せこけていた。
なお、米軍部隊は、日本兵に使われるのは業腹だからと、多くのトラ
ックを破壊した。壊さなかった部隊は、死の行進を歩むことなく、それ
ックを破壊した。壊さなかった部隊は、死の行進を歩むことなく、それ
で収容所まで行った。
「辻政信による捕虜殺害の偽大本営命令」

辻政信
2013年に刊行された『蒋介石の密使 辻政信』(渡辺望 祥伝社新書)
によれば、大本営参謀であった辻政信が、このバターン戦終了時に大
本営からの出張でバターンにあらわれ、全くの独断で捕虜への集団虐
殺を企てたが未遂に終わるという事件があった。
によれば、大本営参謀であった辻政信が、このバターン戦終了時に大
本営からの出張でバターンにあらわれ、全くの独断で捕虜への集団虐
殺を企てたが未遂に終わるという事件があった。
辻政信はこの戦争は人種間戦争であるとして、アメリカ人は白人植民
地主義者であるから、フィリピン人は同胞であるアジア人を裏切った
のだから処刑しろと扇動しており、独断で「大本営から」のものとす
る偽の捕虜処刑命令を出していた。
地主義者であるから、フィリピン人は同胞であるアジア人を裏切った
のだから処刑しろと扇動しており、独断で「大本営から」のものとす
る偽の捕虜処刑命令を出していた。
今井武夫大佐は4月10日午前11時ごろ、第65旅団司令部の高級参謀松永梅一中佐から直通電話で、「バターン半島の米比軍高級指揮官キング
少将は、昨日九日正午、部下部隊を挙げて降伏を申し出たけれども、
日本軍は未だこれを全面的に承諾していない。
したがって、米比軍の投降者は未だ正式に捕虜として容認されていない
から、各部隊は手元にいる米比軍投降者を一律に射殺すべしという大本
営命令を伝達する。貴部隊もこれを実行せよ。」と伝えられた。
今井は命令を拒否することを決意し、書面による命令を要求した後、万
一書面による命令が交付された場合に備え、直ちに千人以上の捕虜を全
て釈放してしまった。当時聯隊本部附中尉であった三好秀男によると、
歩兵第百四十三聯隊長渡辺祐之助大佐は同様の命令を松永参謀から受け、重大な命令であるからと第65旅団長の奈良晃中将に電話で確認を取り付けた後、米比人捕虜約五百人を下士官に命じ、刺殺、銃殺させた。従軍中の台湾高砂族を指揮して、米比軍将校多数を殺害した者もいた。第十独立守備隊を指揮する生田寅雄少将の元にも第65旅団の高級参謀から電話で同様の命令が伝達された。驚いた生田は部下四名を招集し、一万名を超える捕虜の処遇を協議したが、結論が出ず、数日が経過した。その間に第十独立守備隊司令部高級副官の神保信彦中佐が自ら第十四軍司令部に出向き、この軍命令が司令官である本間雅晴中将の与り知らない物であることを探知し、危うく命令の実行を取り止めることができた。
一書面による命令が交付された場合に備え、直ちに千人以上の捕虜を全
て釈放してしまった。当時聯隊本部附中尉であった三好秀男によると、
歩兵第百四十三聯隊長渡辺祐之助大佐は同様の命令を松永参謀から受け、重大な命令であるからと第65旅団長の奈良晃中将に電話で確認を取り付けた後、米比人捕虜約五百人を下士官に命じ、刺殺、銃殺させた。従軍中の台湾高砂族を指揮して、米比軍将校多数を殺害した者もいた。第十独立守備隊を指揮する生田寅雄少将の元にも第65旅団の高級参謀から電話で同様の命令が伝達された。驚いた生田は部下四名を招集し、一万名を超える捕虜の処遇を協議したが、結論が出ず、数日が経過した。その間に第十独立守備隊司令部高級副官の神保信彦中佐が自ら第十四軍司令部に出向き、この軍命令が司令官である本間雅晴中将の与り知らない物であることを探知し、危うく命令の実行を取り止めることができた。
命令の遂行を拒んだのは今井や生田だけではなかったが、完全にあるい
は部分的に実行した者もいた。本間中将はこうした命令について死ぬま
で知らず、彼の参謀長も戦後になり初めてその事実を知った。
は部分的に実行した者もいた。本間中将はこうした命令について死ぬま
で知らず、彼の参謀長も戦後になり初めてその事実を知った。
辻のこの偽命令の策謀がもし成功していた場合、大東亜戦争戦域で最大級のジェノサイド事件になる恐れがあったが、このようにして幸いにもこの
策謀は全体的にみて未遂に終ることになった。
策謀は全体的にみて未遂に終ることになった。
* 山下奉文中将はマレー作戦中の日記において、「この男、矢張り我意
強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人
なり。使用上注意すべき男也」と辻を厳しく批判している。
強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人
なり。使用上注意すべき男也」と辻を厳しく批判している。
2005年(平成17年)に公開された、米中央情報局(CIA)極秘文書には
『服部卓四郎ファイル』や『辻政信ファイル』が存在する。
『服部卓四郎ファイル』や『辻政信ファイル』が存在する。
「日本軍の捕虜後送計画と実態」
死の行進のルート
日本軍の捕虜後送計画は総攻撃の10日前に提出されたものであり、捕虜の状態や人数が想定と大きく異なっていた。捕虜は一日分の食料を携行しており、経由地のバランガまでは一日の行程で食料の支給は必要ないはずであった。

実際には最長で三日かかっている。バランガからサンフェルナンドの鉄道駅までの区間では200台のトラックしか使用できなかったが、全捕虜がトラックで輸送されるはずであった。しかし、トラックの大部分が修理中であり、米軍から鹵獲したトラックも、継戦中のコレヒドール要塞攻略のための物資輸送に当てねばならなかった。
結局、マリベレスからサンフェルナンドの区間88kmを、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で行進することになった。この区間の行軍が『死の行進』と呼ばれた。

米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた。戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられた。日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱や赤痢が蔓延しており、また食料調達の事情などから日本軍の河根良賢少将はタルラック州カパスのオドンネル基地に収容所を建設した。
米比軍のバターン半島守備隊の食料は降伏時には尽きており、日本軍も捕虜にまわす食料の余裕は無かった。さらに炎天下で行進が行われたために、約60Kmの道のりで多くの捕虜が倒れた。このときの死亡者の多く
はマラリア感染者とも言われる。
はマラリア感染者とも言われる。
「捕虜の扱い」
トラックで運ばれた者や行進の先頭にいた者以外に対し、多くの虐待行為があったと言われる。この背景として、捕虜になることを恥ずべきものとする風潮が影響していた。また日本軍ではもともと戒告のために殴打することが日常的にあり、不服従とみると捕虜にも暴力を振るったのである。
収容所にたどり着いたのは捕虜となった約7万6千人の内、約5万4千人で、約7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労、その他殴打、処刑などで死亡したものと見られている。米軍の死亡者は2300人と記録されている。監視の日本兵は少なく、逃亡は容易だったとされる。フィリピン人の場合は、現地の民衆の間に紛れ込めばわからないので、脱走者が多かったとされている。
戦後のマニラ軍事裁判等において、本間や捕虜移送の責任者であった第14軍兵站監河根良賢少将は死の行進の責任者として有罪の判決が下り処刑された。
「兵士の証言」
吉本隆明は、フィリピンにいた日本軍元兵士の証言として、次のように紹介している。
日本軍は捕虜たちを残酷に扱ったと言われているけど、自分たちにはそんな自覚はちっともなかった。だって、炎天下であろうがなかろうが、日本軍にとっては一日10キロも20キロも歩くのは当たり前。いつも通りのことをやったら、捕虜たちがバタバタ倒れてしまっただけだ。
この証言について、吉本は「それだけ、軍隊における常識も、アメリカと
日本では違っていたということ」と主張している。
日本では違っていたということ」と主張している。
第2次バターン攻略戦に参加した日本兵士によると、次のような証言がある。
(前略)夜が明けてみると、前方の山から白旗を掲げたアメリカ兵がゾロゾロと出てくるではないか。第四分隊、こちらは総勢一三人、敵のアメリカ兵は何百、何千と雲霞のように山から下りてくる。まずこの光景を見て我々は腰を抜かさんばかりに驚いた。武装解除されているので武器は所持していなかったが、キャラメルやタバコをくれたり、チョコレートをくれたり、我々のご機嫌を取ってくる。(中略)一人の日本兵が三〇〇人近いアメリカ兵を引率しているのである。後ろからブスッとやられたらそれきりである。気味の悪いこと、この上なしである。もしこれが日本兵とアメリカ兵の立場が逆になっていたら、一三人くらいの敵ならアッと言う間に殺していたであろう。(後略)
異論
コラムニストの高山正之は、バターン死の行進はそれが真実かどうか過去一度も検証されておらず、日本側に検証の動きが少しでも出るとすぐ圧力がかかって潰されてきたと主張している。
反論
第65旅団歩兵第百四十一聯隊長(階級は大佐)としてバターン死の行進に従軍した今井武夫は次のように、当時の日本軍の状況について証言し反論している。
バターン半島の戦闘に終始したわが夏兵団は、新たに中部ルソン島の戡定作戦のため、再び北方に反転することとなったが、四ヵ月に及ぶ密林の露営生活は、食糧の補給難と相俟って、将兵の体力を全く消耗し尽くしていた。その上不幸な事には、敵陣地を占領した途端に、皮肉にも敗走した米比軍が今まで悩んでいた悪性のマラリヤやデング熱の病菌に汚染した地域を通過するため、日本軍に伝染し、まるで敗退軍の復讐かのように重症患者が続出し、大半の将兵が罹病したが、新任務は一日の猶予も許さず、休養の暇もなかった。われわれは再び四十度の炎天を冒し、南部サンフェルナンドまで、舗装道路を徒歩で六十数粁(キロメートル)行軍せねばならなかった。
窮余の一策として毎日午前二時に宿営地を出発し、二十粁の行程を遅くも午前十時頃までに、目的地に到着するよう、行軍計画を立てたが、落伍兵を激励しながら行軍するのは、全く容易でなかった。然るにわれわれと前後しながら、同じ道路を北方へ、バターンで降伏した数万の米軍捕虜が、単に着のみ着のままの軽装で、飯盒と水筒の炊事必需品だけをブラ下げて、数名の日本軍兵士に引率され、えんえんと行軍していた。
士気が崩れ、節制を失っていた捕虜群は、疲れれば直ちに路傍に横たわり、争って樹陰と水を求めて飯盒炊事を始める等、その自堕落振りは目に余るものがあった。しかし背嚢を背に、小銃を肩にして、二十瓩(キログラム)の完全武装に近いわれわれから見れば、彼等の軽装と自儘な行動を、心中密かに羨む気持ちすらないとは言えなかった。
戦後、米軍から、「バターン死の行進」と聞かされ、私も横浜軍事裁判所に連日召喚されて、この時の行軍の実状を調査されたが、初めはテッキリ他方面の行軍と間違えているものと考え、まさかこの行軍を指すものとは、夢想だにしなかった。米軍は戦時中国民の敵愾心を昂揚するため、政略的に「死の行進」を宣伝し、戦闘で疲労した将兵に自動車を提供せず、徒歩行軍を強制したのは、全く日本軍の残酷性に基づく非人道行為の如く罵声を放ったものである。明かに日本軍の当時の実情に目を掩って、曲解したものと言わねばならない。しかも彼等が撒いた宣伝の結果は、無理にも刈り取ることが、政策的に必要とされた。その上比島の捕虜は、ルソン島中部のオードネル捕虜収容所に収容されてから、バターンの戦闘間流行した熱帯病或いは食糧不足のため生じた栄養失調で、病死者が多発した事も米軍が誤解する原因となったかもしれない。

バターン死の行進の証拠写真と長い間言われてきましたが、
後日、捕虜収容所内で亡くなった方の葬儀?の物であると
訂正されました。
以上Wikipediaより
つまりバターン半島の死の行軍は極度の日本軍の異常な行為
によって行われたものではなく、戦時下として当然なことをした
だけであり、一部を除いて虐殺等の行為が全体的に行われたも
のではないと言うことが言えそうである。
しかも日本軍はこのとき戦時下であったにもかかわらず冷静な
判断を下したものであるということが出来そうである。
戦中・終戦後を通して日本軍は酷い事をしたと言う印象を与える
為のプロパガンダであると言えます。
とかく感情的になり、日本軍は酷かったと言うのは間違えである。
さらに、ここでも日本人としての誇りを全うした英霊を敬いたい。
参考になるかどうかは読者の判断にお任せしますが、こいう
ブログ記事もあります。
”バターン死の行進というウソ”
プロパガンダを信じ込まされていました。
私は子供の頃、とにかく大東亜戦争中、日本は「悪」として教え込まれました。
その中でフィリピンでバターン死の行進という日本軍がアメリカ軍に対して残虐行為をしたと教えられました。実はこれはデタラメでアメリカのプロパガンダでした。
その中でフィリピンでバターン死の行進という日本軍がアメリカ軍に対して残虐行為をしたと教えられました。実はこれはデタラメでアメリカのプロパガンダでした。
アメリカの司令官はマッカーサーです。アメリカ軍はコレヒドール要塞に立て篭もっていましたが、状況は不利になり、マッカーサーは部下を置いてトンズラしています。残った部下たちは餓死するかマラリアなどの病気で死ぬしかありません。
そして日本軍に投降しました。日本側はアメリカ軍捕虜2万5千と見積もっていましたが、7万5千が投降してきたのです。捕虜に与える食糧も不足しており、捕虜収容所へ輸送するトラックも不足しており、マリベレスからサンフェルナンドの区間88キロを、捕虜の半数以上が徒歩で行進することになりました。これが死の行進というプロパガンダに使われたのです。この距離なら、だいたい3日もあれば歩けます。しかし、衰弱していた人やマラリアにかかった捕虜が途中で亡くなりました。
そして日本軍に投降しました。日本側はアメリカ軍捕虜2万5千と見積もっていましたが、7万5千が投降してきたのです。捕虜に与える食糧も不足しており、捕虜収容所へ輸送するトラックも不足しており、マリベレスからサンフェルナンドの区間88キロを、捕虜の半数以上が徒歩で行進することになりました。これが死の行進というプロパガンダに使われたのです。この距離なら、だいたい3日もあれば歩けます。しかし、衰弱していた人やマラリアにかかった捕虜が途中で亡くなりました。
当時を知るフィリピンの画家、ダニエル・H・ディソンさんはサンフェルナンドから鉄道に乗せられて移動してくる捕虜にアンヘレスというところで現地住民が食糧を与えている様子を著書に記しています。
「それぞれの車両の屋根には銃剣を構えた日本兵が見張りに立っていたのですが、兵隊たちは食べ物が捕虜たちに与えられているのをただ見ているだけでした。
列車の周りにいる人々は、大声を上げ、あるいは悲鳴を上げながら、水の入ったビンやビスケット、玉子、サトウキビ、バナナの葉でくるんだライスなどを次々に投げ入れていました。
それを兵隊たちは何もせずに見ており、笑ってさえいたのです」
列車の周りにいる人々は、大声を上げ、あるいは悲鳴を上げながら、水の入ったビンやビスケット、玉子、サトウキビ、バナナの葉でくるんだライスなどを次々に投げ入れていました。
それを兵隊たちは何もせずに見ており、笑ってさえいたのです」
捕虜を意図的に虐殺しようとしていたのであれば、このような光景はあり得ないでしょう。
このバターン半島死の行進をジャーナリストの笹幸恵さんが実際に歩いて検証しており、ウソが暴かれています。西村知美だって24時間テレビで100Kmマラソンやっているのですよ。これには死の行進を強制されたという元アメリカ軍のレスター・テニーと言う人が抗議してきました。このテニー氏の著書「我が地獄からの兵役」を引用してジャーナリストの高山正之氏が面白い記事を書いています。
日本軍の拷問
「板に大の字に寝かせ足を十インチ高くする。それで塩水を飲ませる」
これはアメリカがフィリピン占領のときにアギナルド軍に対してもやった拷問で「水治療」というものだそうです。アメリカ軍がやったことを日本軍にすり替えたわけです。
私が読んだフィリピン人の証言にも日本軍がこの「水治療」をやったことが書かれていますが、おそらく拷問の現場を見ていないのでアメリカがやったことを想像して証言しているのでしょう。
「竹をひも状にして親指を縛られぶら下げられた」
これはゲーリー・クーパー主演の「海の魂」で海賊の拷問なのだそうです。日本人は知りません。
「指の爪の間に竹ひごを突っ込まれ、そこに火をつけられた。指が焼けた」
これもクーパーの映画「ベンガルの槍騎兵」か「ボージェスト」なのだそうです。
笑うのはテニー氏は水牛狩りを手伝わされ、日本兵が銃を貸してくれて狩をした、というものです。失敗して銃の台尻で殴られたのだそうです。捕虜に銃など渡しますかいな。それに日本軍は銃は天皇陛下からの頂き物という意識があったので平時にそのような使い方はしないのだそうです。
一方残虐な行為が至る所で行われたと言う証言をもとに書かれ
ているブログもあります。
どうでしょう、最初にも書きましたがこれは平時にあった出来事で
はなく戦時下にあった出来事です。
投降して捕虜になった米比兵は7万6千人、その90%以上の者が
既に飢えや病気で普通の状態ではなかったと言うではありません
か。
当然投降してきた場所の近くにそれだけの人数の食料の蓄えな
どあろうはずはありませんし収容施設もありません。
運ぶにしても車両がありません。
食糧、収容施設の或る場所まで移動しなければなりません。
飢えに苦しむ人たちには速く食料を上げなければなりません。
移送手段の車両もありません。
歩くしかないではありませんか?
そのままそこに留まれば餓死者が増えるばかりで、病人も死んで
しまいます。
多くの捕虜がいますので途中足手まといや、行進を遅らせる物が
いれば多くの者の事を考えれば処分される者がいても戦時下であ
ると言うことを考えれば仕方のないことです。
一人でも多くの捕虜を収容所に早く連れて行って、食糧や医療を
受けさせようとすればそうなるでしょう。
その時取れる最善の道だったのかもしれません。
2009年5月藤崎一郎駐米大使が日本政府を代表してこのとき
捕虜となった元米兵らに公式に謝罪したそうであるが、罪も無き
民間人を東京大空襲・広島原爆・長崎原爆で殺した殺人国米国
は謝罪したのでしょうか?
アメリカ各州にこれらを追悼するための記念館を作りましたか?
おまけに2010年9月13日には、岡田克也外務大臣が元 捕虜と
外務省で面会し、現職の外務大臣として初めて謝罪している。
余計な事ですがこの方が現在野党第一党の民主党の代表なので
すから日本の政治もダメなわけです。
実際に死の行進が行われた同じ道を歩く行事があるそうですが
面白半分に歩くのではなく真実を見極めてから歩いて欲しい物で
す。殆どの日本兵は真面目に軍務を遂行したようです。
先人に感謝です。

今日の 後ろ姿

いつも 笑顔で いましょうね。
