
柿の花
今日ジプニーで隣町に移動中にいつものパレンケの果物屋
さんになんとこの国では高級果物に入る”柿”が並んでいるでは
ないですか。
用事を済ませ、暑さの凌いだころにその果物屋さんに、ボデー
ガード?の甥っ子10歳を伴って行ってきました。
なにせ12月ですから、日本人と判っているものの行動は気を
つけなければなりません。
この町は100ペソ200ペソを狙ってホールドアップのある町です。
一人でカメラを構えていれば、どうぞ盗って下さいと言うような
ものです。
くわばら・くわばらで用心することに越したことはありませんね。

果物屋さんの店先ではグリーンマンゴーのKiat-Kiatという商品名
はありますが、柿の名前は付いていません。
多分この辺の住人は見るのも初めてな人が多いかと思います。

なんと1個25ペソです。
今の円安の時に高いと思いました。
まあ実りの秋ですからいいか!
まだ周りが固めでしたのでもう少ししてから試食してみましょうか。
美味しかったら5個ぐらいは買ってみたいと思います。


柿には色々な種類があるそうですが、これは代表的な富有柿
の仲間でしょうか?
輸入物、中国産?だとするとチョット食べるのに勇気を必要と
しますがこの国でもバギオ辺りでは日本人が嘗て持ち込んだ
らしい柿がなっているそうです。
英語で柿の事をpersimmonと言うそうですが、語学に疎い私には
正解かどうかわかりません。
又は単にKAKIと言うこともあるそうです。
タガログ語では見当たりませんでしたが、
(フィリピン国際結婚・菜の花の主婦日記goo版さんによれば)
日本語で水晶ガキの事をフィリピン語?で
「カイミート」というそうです。
嘗ては柿は日本の果物の総生産量の40%以上を占めていた
ことがある日本の果物の王様だったそうです。
そう言えば、子供のころに庭になっている柿を焼酎につけて食
べたときの美味しさは格別なものだったことを、想い出しました。
お爺さんが渋柿をそうやって食べると格別美味しくなると言って
いたものです。
日刊新聞のニュースにこんなものがありました。
”戦地に残った家族と柿
(マニラ新聞より)
(マニラ新聞より)
ベンゲット州バギオ市周辺には柿(かき)の木があり、
その実は「KAKI」と呼ばれている。百年前、ベンゲット道路
その実は「KAKI」と呼ばれている。百年前、ベンゲット道路
(別名ケノン道路)建設に従事した日本人移民が持ち込んだ
とされ、最低気温が十五度を切る十月から十一月にかけて
小ぶりな実をつける。
探し求めた柿の老木は同市郊外、急斜面に沿って茂る竹林
を抜けた場所にあった。時は既に十二月中旬。食べごろの
実はもうなく、熟し柿数個だけが葉の間から見え隠れして
いる。幹回りは一番太い部分で一抱えちょっと。高さは二十
を抜けた場所にあった。時は既に十二月中旬。食べごろの
実はもうなく、熟し柿数個だけが葉の間から見え隠れして
いる。幹回りは一番太い部分で一抱えちょっと。高さは二十
メートル近くある。樹勢は衰え気味だが、数メートル離れた
地表では露出した根っこから若い幹が伸びようとしている。
「この木は父が植えました。苗木は日本から父が持ち込ん
だか、日本人の知り合いに分けてもらったのでしょう。樹齢
だか、日本人の知り合いに分けてもらったのでしょう。樹齢
は八十年ぐらいで毎年甘い実をつけます。小さいころはビワ
やミカンも植わっていましたが、今は柿の木だけになりました」。
バギオ市在住の日系二世、大久保バージニアさん(68)は幹
に手のひらをあてながら柿と父の話を始めた。
父親は広島県豊栄町出身の大久保登さん。「ベンゲット道路
建設に携わった後、バギオで大工をしていた」と言う。
しかし、同市の日系人組織「北ルソン比日基金」(カルロス
しかし、同市の日系人組織「北ルソン比日基金」(カルロス
寺岡理事長)作成の資料によると、登さんは一八九四年
(明治二十七年)一月生まれで、工事の終わった一九〇五
年三月にはまだ十一歳。実際には二〇年代に入ってからフ
ィリピンへ渡り、二五年ごろ同市で十四歳年下のイゴロット
民族の女性と結婚したようだ。
(明治二十七年)一月生まれで、工事の終わった一九〇五
年三月にはまだ十一歳。実際には二〇年代に入ってからフ
ィリピンへ渡り、二五年ごろ同市で十四歳年下のイゴロット
民族の女性と結婚したようだ。
柿の木の傍らには、登さんが結婚する際に新築したという
山小屋風の自宅が現存している。今でこそ周囲には人家が
点在しているが、戦前は竹や松の生い茂る山中の一軒家。
戦中は「ほとんど家から出ず、周囲で取れるイモを食べて
隠れるように生活していました」とバージニアさんは話す。
山小屋風の自宅が現存している。今でこそ周囲には人家が
点在しているが、戦前は竹や松の生い茂る山中の一軒家。
戦中は「ほとんど家から出ず、周囲で取れるイモを食べて
隠れるように生活していました」とバージニアさんは話す。

妻と子供七人、誰一人失うことなく戦中を生き抜いた登さ
んだったが、敗戦直後に日本へ強制送還。戦地に残された
妻のベロニカさんは三十七歳。子供たちは、長女のハツノ
さんが十七歳、四女のバージニアさん十歳、末娘の六女ロ
サリナさんはわずか一歳四カ月だった。
んだったが、敗戦直後に日本へ強制送還。戦地に残された
妻のベロニカさんは三十七歳。子供たちは、長女のハツノ
さんが十七歳、四女のバージニアさん十歳、末娘の六女ロ
サリナさんはわずか一歳四カ月だった。
登さんは戦後二十年近くたった六四年に一度だけバギオへ
戻ったことがある。六〇年に病死した妻ベロニカさんの墓参
りをするためだったという。しかし、そのままバギオにはとど
戻ったことがある。六〇年に病死した妻ベロニカさんの墓参
りをするためだったという。しかし、そのままバギオにはとど
まらず、戦前・戦中をすごした山小屋に三カ月間ほど滞在
した後に日本へ帰国、八三年十月に八十九歳で亡くなった。
した後に日本へ帰国、八三年十月に八十九歳で亡くなった。
「父がなぜ六四年にここに残らず、その後帰ってこなかった
のか、私には分かりません。遺骨の一部はバギオに送られ、
母の墓の隣に埋葬されています」。そう言うバージニアさん
は今も独身で、両親の日本出稼ぎで比に残された日系四世ら
の世話をして暮らしている。十歳で父と生き別れた苦労は
想像に難くないが、戦後については「『日本人の子だ!』
とよく石を投げつけられましたね」と微笑するだけ。柿、
父の話のようには多くを語ろうとはしない。
のか、私には分かりません。遺骨の一部はバギオに送られ、
母の墓の隣に埋葬されています」。そう言うバージニアさん
は今も独身で、両親の日本出稼ぎで比に残された日系四世ら
の世話をして暮らしている。十歳で父と生き別れた苦労は
想像に難くないが、戦後については「『日本人の子だ!』
とよく石を投げつけられましたね」と微笑するだけ。柿、
父の話のようには多くを語ろうとはしない。
フィリピンの柿の木には戦争の想い出があったのですね。
前述したとおり、私は熟れた熟した柿がたまらなく好きですが、
こちらの熟した柿も好きです。

丁度食べ頃のようですね。
熟した柿は美味しいぞ!

こちらはこれから熟すのか?
待つ楽しみがありますね!
スケベ親父はすぐにこちらの路線に結びつけるところが、いけ
ないところと判っちゃいるが止められないようです。


朝からみだらな画像で反省してます。

今日の 後ろ姿

いつも 笑顔で いましょうね。
