
シルクジャスミン

さあ、前回の続きといきますか!

前回始めに登場したのがこれです。
タイトルとも何も関係なくて恐縮なのですが、その道のプロの
ような鉄宅さんに叱られそうですが、浅く趣味の範囲でお届け
します。
特急ア〇ア号の〇の中には、”ジ”が入って”アジア”号となり
ます。
この列車は日本の本土を走っていた物ではなく、遠く満州と
いう所があった時代の物です。

そして、その満州には南満州鉄道(株)という物を作り、広い地域に
鉄道網を延ばしていたようです。

これが、南満州鉄道の本社の建物です。
場所は、満州・大連という所です。

この方が、初代満州鉄道総裁『後藤新平』氏です。
東京の町が関東大震災で殆ど焼け野原になった時、先を
見据えた復興計画をやろうとなさった方です。
残念ながら氏の思い通りにはいかず、実現したのは東京を
ご存知の方は判ると思いますが、昭和通り1本だけです。
マクロのものの見方から緻密な計画を建てるのが、指導者達
ですが、残念ながら今こういう方はいません。
出来る事なら、今の日本こそこういう方が必要だと思うのですが。

このかっこいい列車も、満州の大地を走っていました。
私事ですが、私の父も若い時この満州という所へ渡り
叔父の建築土木会社で、3000人のクリを使って仕事をして
いたと、私が子供の頃に懐かしそうに話していました。
腰にはモーゼルピストルと、サーベル、足にはピカピカな
チョウカを履き、いかにも意気軒昂とした当時の満州の写真と
あと一枚の同じ満州の写真が隠して持って帰れた僅かな物だ
とも言っておりました。

当時の長距離列車の食堂車でしょうか?
今より豪勢に見えるのは私だけ?

最後尾には展望車もあり、優雅な風景が伝わって来ます。

当時は列車を走らせるだけでなく、同時に都市整備も行
っていたようです。

大連の駅前の整備された所には、同じ経営のヤマトホテル
があったそうです。

こちらが満州の鉄道地図。
ひょっとして今より整備されていたかも。
話はそれますが、ここフィリピンでも戦前の方が鉄道網が充実
していたとか。
大きな島、ミンダナオ、パナイ、セブ、ネグロス他に線路があった
とか言う事で、マニラには縦横に市電が走っていたようです。

これは南満州鉄道が、営業キロ1万キロを超えた記念に発行
された記念切手です。
一時は良い時代だったようですね。
(鉄道関係写真はウィキぺディアより)

さて、話はいよいよ本題に入っていきます。
この方のお名前は『大城孝蔵』氏
フィリピンと日本は16~17世紀ぐらいにも頻繁な行き来があり
このフィリピンに当時でも1000人を超す日本人が住んでいたとか。
それが江戸時代の鎖国令のせいで縮小してしまったようです。
この画像の大城さんは1904年に、帝国大学農業科の席を捨て
2月20日に神戸から出航しフィリピンに渡っています。
その年の4月、沖縄からフィリピンに渡る労働移民100名を遥か
に超える人たちの監督者としてです。
移民の日本人達の仕事は、あの有名なベンゲット道路建設の為
です。
この道路の建設は1901年にスタートをし、6ヶ月程で完了する
当初の予定だったようです。
当時アメリカの植民地であったこの国では、首都マニラの暑さに
アメリカ人達は耐えられず、体調不良を起こす者が続出したよう
です。そこで植民地政策の責任者達は快適な気候のバギオに
目を向けたようです。
マニラ、バギオに直通道路を作り夏の間だけそちらで執務を執
ろうと言う事です。

フィリピン人を中心に、アメリカ人、その他の多くの外国人が
工事に従事しましたが、難所の山岳部にかかると工事は滞り
進まなくなったそうです。
そこで、当時のアメリカの変わったばかりの責任者ケノンは、
アメリカで優秀な日本人を目の当たりにしていた事もあり、労働
移民として破格の給料で日本人労働者を募ったそうです。
日本人労働者2300~2600名前後(諸説あり、不確実)の
労働者のうち完成までに700名ぐらいの方が亡くなっている
そうです。

こちらはそのバギオの北の棚田の画像です。
こんな所に人間の手作業だけで道路を作るなんて・・・・

これは動力応用麻挽機”ハゴタン”。大城さんが尽力して製作にあたったそうです。
道路は1905年に完成しますが、移民労働者の仕事が無くな
ってしまいます。
そこでその移民の人たちに目をつけた方がいたのです。
それまで日本人労働者相手に商売をしていた方です。
大城孝蔵さんにダバオで仕事をやろうと声をかけ、仕事の無い
移民労働者100名以上とダバオに渡り、マニラ麻の製造に
取り組みます。開拓されていないダバオの北にアバカ農園を
切り開き、マニラ麻で船舶係留用等のロープを作る事となり
ます。

おりしも第一次大戦の影響もあり、好景気に沸いたそうです。
当初の農地開墾は大変な思いをしたそうで、バギオ方面に戻った
方達もそうとういたそうですが、好景気時には日本移民の人達は
13、000人にもなったとか。
ダバオでは沖縄県人会が1916年、ダバオ日本人会が1918年
大正7年に出来ています。
このダバオ日本人会、初代会長は大城孝蔵さんです。
1935年ダバオのアンダ街の上原旅館で54歳で病死するまで
日本人移民の方たちの為に尽力されたそうです。

これが、現在も細々作られているマニラ麻・アバカです。
下の女性を縛ろうなんて思わないで下さい。
あとのお二方は次回に・・・

今日の 後ろ?横?姿
ムムッ!

(CC,by,Axel Buhrmann)
いつも 笑顔で いましょうね。
