*この文章については、万博のことをゾーン別に分けて述べているけれども、一応の目安であって、シグネイチャーや国内や海外などゾーンのことは特に気にせず読んでいただきたい。
*電力館 驚愕大阪万国博覧会のすべて ダイヤモンド社
*他写真のクレジットは全て著者による
問題提起…都市とは本来的に時代時代の建築が混在することでその記憶が積み重ねられる場所である。恒久的なものを臨時に使えばいいのであって、場所も大阪市内に点在していていい。その方がこの度の万博開催期間中だけのものにより正確に本来のメタボリズムである。かつては広場という公共空間が盛んにいわれたが一神教の下でのものだった。今はどうかといって家族の価値観の多様化によりとても一神教では説明できず、建築がサービスなのかインフラなのかを問われる現在、加えて想定外のことも平気で起こる。板茂氏のいう有名な建築家の建てた建築が保存されるべきだとの一方で、使っている市民から愛される建築が恒久的になるのだということであるが、万博は恒久的な建設ではないため、社会との間である秩序や関係性から、仮の建設行為とは、建築をどのように見たらいいのかについて常識やコモンセンスが問われることとなる。雄弁術/修辞学が試されるのであって、マスコミ流のスクラップアンドビルドの発想ではなくて、建築は社会の秩序や関係性と関係があるので、世の中をよくしようという動きの最先端がこの大阪万博2025にはあるはずだ。
建築にどう落とし込むか…55年前万博の坂倉準三設計の「電力館」と今回の万博の海外パビリオンの「フランス館」はよく似ている。あれからどれだけ万博はアップデー
トされたのか。この万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」。近代建築の保存改修とサスティナブルが同じにとらえられればもっと万博もスムーズだった。たが、人間とは物事を良い方向に導くばかりではなくて目先の利益が原因でこれらには壁がある。つまりサスティナブルと近代建築の保存改修が同等になればよいのだけれどもこの二つには壁がある。いわゆる万博のごたごた騒ぎについては、本質のことが言いたいのだろうが、戦わずして勝つやり方に建築が犠牲になっていいはずはない。ニューヨ-クヤンキースは野球のチ-ムであって、サンフランシスコ49′s(フォーテイナイナ-ズ)はアメフトのチ-ムである。競技の異なるこの2つのチームが、それでも闘ってしまったら49’sが勝つだろう。こうした雑学にはなっても、家政学にはならないところがEXPOのミソだ。競技の特性を全く無視して危険な解釈へと導いていくほどまだ人間は廃れてないと信じたい。こういうのっぴきならない背景の中で、真を偽から区別するような、作られる建築がどのようなプロセスを見せるのかに興味があるのである。
シグネチャーゾ-ン…3時間待ちのイタリア館とか、人少ないけど予約ないと入れないシグネイチャーパビリオンとかには、予約してない人こみで待ち時間どれくらいかわかるようしてほしかった。この度の万博で社会に対する良識の態度を示したのはシグネイチャーゾーンである。少子高齢化や不遇な家庭環境での不幸な生い立ち、世界各地での紛争は、命の尊さを考えるにはふさわしい。共鳴/命の可能性/共創/身体/命の意味/守り育てる/食/心としての命などが展開される。建築の内外の関係が、開いた形でこれらのパビリオンは未来社会での命のあり方を様々なアーティストたちがプロセスを提出している。
海外パビリオン…海外パビリオンのシンガポール館は、青海波に見える表面の鉄板が印象的。内部はシンガポールの作家による鳥や葉っぱの彫刻という、一見普通のアートは、旧態依然としたものではなく、シームレスに展開して、ゆめ、つなぐ、みらい
を印象付ける。このパビリオンは上下の連結はスロープによる。集落にはふたつの見方があって、その一つは個々の集落に注目する見方であり、もう一つは集落相互を比較しながら同時に見るというものである。範型として客体化され、取り出されたもの、それが、あるいは<型>といわれ、あるいは<様式>と呼ばれるものにほかならない。生き生きとしている。あるいは機能主義批判するものである。マンフレッド・タフーリのモダンデザインは建築の歴史上何も貢献しなかったといわれるように戦争は生んでもルネサンスやバロックのように時代精神として人々の精神的支柱ではなく、CIAMのギーデオン コルビュジェ ミース グロピウス の連中の「こいつら、なにした!?」永久に問われるところ、今ではハラスメントと呼ばれようとしている。事実確認を取る方法は以後増えていくだろうし、この万博では現象的なものはそのままに、本質を掘り下げるような悲観的なもの、質問のための質問というものはあえて見いだされない。
国内企業パビリオン…企業パビリオンの飯田グループと大阪共立大学による高松伸設計のパビリオンは、高松さんらしい形の想像、モダニズムとは異なる路線でデザインされている。内部は最先端の未来型スマートシティーが示される。光合成は二酸化炭
素を使う。そして有用な物質を作る。スマートシティーには住宅と広場にはソーラーパネル、食べ物の自給自足を光合成でまかなうのだという。他様々インフラを備える。展示に関わった建築家が言っていた、最先端ができれば、今の最先端は時代遅れになる、その繰り返しであるが、しかし未来思考には未来があるし、スマートシティーは優しい。一方自然の叡智は失われ、あやしい。だが自然と水の満ちたこのような都市イメージはいいと思った。万博施設であるトイレは、外見トタンの作りだが、内部は金属パネルが貼られているので、プライバシーは保たれる。その方が万博開催期間中だけのものにより正確に本来のメタボリズムである。トポス論とは、古代ギリシャ以来の修辞学の一形態あるいは一部分で、一定の問題に関する一群の論点(論拠)
が隠されている場所を想定し、説明に役立ついくつかの論点をそこに探す、問題の検討及び説明の方法のことである。この度の万博でのパビリオンは、美しいデザインの建物が多い。だが一部では漫画チックで、万博への企業参加が、世界の最先端を継承するとして、そんな本質のことが言いたいのだろうが、質問のための質問になっている。マスメディアを気にするようでは、最初から万国共通の建築があれば良かったが、ロ-カルのみで使用させようとして、後手に回ったことから、こうした報道というかゴタゴタ騒ぎが起こった。ひいてはハラスメントを引き起こしていく。バチカンのサンピエトロ広場のような空間ではなくフォルム。弱い人助けるのに女はいつも失敗し、男はいつも叩かれる。真ん中がないのである。内的・精神的秩序を規範とし範型として客体化し、すなわち世界を統一する様式などない。社会的にこれらパビリオンが秩序付けることができればそれはすなわち「範」であり、「様式」と呼ばれるものとなる。全体的な統一感はないけれど、全体的な観念よりも部分(めいめいの建築単体)が主張している。それにより万博のリングに疾走感を生み出たせている。リングは海に張り出しているのではなく、人工の湖を囲む。焦点となる場所が曖昧な一方で、どのパビリオンでも万博の意図とは、トポス論はここではそのまま良識ある建築なのである。現実的には建築が維持管理の時代の管轄におかれマスターピースに走るか、こうした機能的/メタボリズムの今に走るかは、いずれも良識的な建築のあり方である。
どうつなげていくか···未来だと言ってデジタルとかバーチャル(デジタルワレットパーク)でこの万博は終わらないでいて、未来社会の姿の提案をしっかりと示していて良かった。強い者に味方してよわいものをいじめるのでは、空振りということである。ヒット性の当たりとは弱いものに味方して助けることである。近代建築の保存をうたうのではなく建て替えを、イケイケなのでは、空振りに悔やむのではなく役所や施主にあたるのでは、空振りばかりで不満ばかりなのでは、それでもめるよりこの万博のように時代の最先端を示すなり、今日的なメタボリズムを考えるのも良い。本質といって、人のことなのに踏み込んだ批判は議論のための議論で終わる。もっと他に考えることがあるということである。
およそ、日常とはかけ離れた催しであるからこそ万博は成り立つのである。こうして世の中に向かって思うのは、もっと自分のためになることがあるのではないのか。命という難しい問題は日常の生活に役立つようわかりやすいものでなければならない。大屋根リングの下で水を配る、無料の水サーバーがあるが、そんな例を挙げておいて全くのでたらめでもない話、この万博の体験を通じて世の中をよくしようという気持ちに少しでもなれたり、お金を扱うことに少しあたたかい気持ちになれたりすればと思った。





