東京に行ってきました。
杉並建築展2026
渋谷スクランブル交差点
葛西臨海水族園
浜離宮周辺ジョギング
詞男さんと知り合いになれたことで、東京に行くきっかけが思いもよらず出た。
よく本に東京の地形って出てくるので、経験ないと、という旅でもある。
プロセスとは、努力といっても構わない。杉並の建築家が集まるよりも与えられたテーマを自己の活動に取り込むことをしたほうが本来の理にかなっている。渋谷建築展とか、赤坂建築展とか、あっていいけどないが、杉並では倉庫が借りられた。役所などの協力も得て、7年この倉庫で展示会を開いているらしい。
メディアに注目される建築家であろうとするより、自分が面白いと思えることをやってしまえるところが渡邊詞男さんのいいところ。著書日本人のよいところに出てくる取り上げた作家すべてが、僕のヒーローなのです。どうつなげていくのか…ここでは共通感覚は、たとえ無理な計画でも生活の工夫に通じた手法(良識)が、見張っていなければどうなる。
可部の古民家改修カフェでのボンエルフ計画の展示、設計事務所での猫ハウス。変わったプロジェクト以外は多くドローイングに時間をさいた。箱庭の住宅と公共空間でのバッファーゾーン。建築家=富裕層とは、いつものことだが、アフォーダブル(中低所得者向け)なものを作れたらいいね。しかしよっぽど有名じゃないとそんな仕事ない。
旧態依然としたスター建築家もいるけれど、美しい建築っていうそういうタイプではない。建築がサービスかインフラかとして、例えば濃縮ウラン、レアアースみたいな最先端の環境破壊。つまり国から補助金が出て、ばらまかれた金に群がって地域の政治家、地域の年寄り、接待が仕事の人たちが、日本の富裕層のことなのである。BIMについて行ってないけど、情報圧縮は、それってほんとにやりたいことなの。
勝手に確認申請出すくらいの図面作っておいて、つきましては契約がと言ってくる、自分の金で建築作品建てる建築家っていて、まさに建築家の失敗例だ。学歴C、実務C、入賞歴Cなんて言ってないで、もっと自信もっていい。
鼻山/吉野。建築の建ち方が、周辺を含んだその場所に対してどんな影響があるか。光や風を検討

山田/犬童。駅舎自由通路 デッキの四周に視線がひらけて目の前にまちの風景が広がる。


日大古澤大輔研。東京都のシンボル 東京タワーを基壇を構築

小沼計画/萩原。公園のよりどころ 円形トイレ

香月真大。住宅併用の運動施設 地域に開かれた公共性

西沢大良。江戸川区のランドスケープ 災害時の利用用途が印象的
(写真なし)
なのであるが、こうして見てみると、心豊かなデザインから、人の命を守る建築士まで、建築を始めるまでのかなりの実績、学業成績だったり、スポーツの名誉だったりが基本的な底流がないと、建築って難しいなと改めて思った。永山 常坂など等氏らのほか、スター建築家など放っておいて、自分のやりたいことを客観性でなく、イメージ、イメージ=概念、概念として具体化している。災害や戦争や物価高、時代の悪い空気が強気な高級志向を打ち出す一方で助けられる人は助けようと救済に向かう。横のつながりあるいは出身校だけで身を固めた保守的な人間関係がある。説明の外側とは、そこで活動的でいるには、中間的とは真逆の、両犠牲のことで留めておいて、本業には触れない方がいい。
ただ自由なアイデアを実務にするのは難しいなと思う。計画的、経済的、力学的、環境配慮など。
山手線 京葉線 都営地下鉄 地方の太い幹線が通るのとちがい、東京の交通網は入り組んでいるので迷わないか心配だったが、「乗り換えナビ 」のアプリはすごく役立った。
渋谷の交差点といえば人が多いが、東京の哲学的な性質とは思うに目の前にある建物の柱、木などを我々は感覚的に区別するけれども、自明なものの内面には、それをそれとして信じている意識がある。目の前の対象の観念だけでなく、その存在を信じ、そのかたち、遠さおよび大きさを信じることである。そしてこの判断あるいは信が得られるのは観念の比較からではない。それは知覚の本性そのもののうちに含まれているのである。常識と呼ばれる感覚である。常識というものが、自明なものではなく、論理と呼ばれる故だ。

葛西臨海水族園 こうした商業思考の中に、景観の補完として距離を離してまちのあちこちに広場(公園)があればという解決策を打つのが、谷口吉生設計の葛西臨海水族園である。シンボルの水辺のドームのほか、イエローバトンエンゼルフィッシュなど、シークエンスの形のなさを美術コレクションでなく水辺の生物で表現されている。

東京汐留の方の6キロのジョグ ビルのスカイスクレイパーはまちを谷の景色にするけど、豊洲市場の方のマンションの乱立は成金主義で心なかった。建築という共通項を通じての作家間の交流は、「酒に酔わず友に酔う」的なことに感謝したい。泊まったホテルの近くで見かけた咲きかけの桜に春を感じた。

