遊の思想と礼の思想 | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

この日本という国は、

礼儀礼節を重んじる、

礼の国だ。

そうしたことも手伝って、

自分を育ててくれた両親に対して、

あるいは互いに支えあった仲間や友人に対して、

もしくは、お世話になった恩師に対して、

感謝の想いを胸に、

礼の心を持って生きている人は、

おそらくこの日本にも大勢いるだろう。

では、

俺たち現代日本人の中で、

自分が生まれ育ち、

自分を育み支えてくれた、

祖国に対して、感謝し、

礼を尽くそうとされている人は、

果たしてどれだけいるだろうか。

東アジアには、

中国・北朝鮮のような、

軍事独裁国家が存在していて、

すでに多くの日本人が拉致され、

大韓航空機は爆破され、

そしてダライ・ラマや

ラビア・カーディル

といったチベット人やウイグル人は、

祖国から離れて亡命しなければならなくなったというのに、

それでも平和ボケを続けて、

「国境なんて世界から無くなればいいのに」

と、そう考えるばかりが、

現代の日本人なのだろうか。


もし、

自分を育ててくれた両親が、

何らかの理由で苦しみの最中にいるならば、

感謝の心と礼の心を持つ者あれば、

おそらく何らかのカタチで、

苦しみの最中にある両親を助け出そうとするだろう。

それは、

仲間や友人、恩師であっても、

同じことであり、

私たち人間という生き物は、

感謝と礼の心を持つ相手が、

もし何らかの苦しみの最中にいるならば、

自のできる範囲の中で、

相手の人を何とかして助けようとするものだろう。

それが、俺たち赤い血の通った人間が、

ごく当たり前に持っている、

義理とか、

人情とかいった思いやりの感情であると、

そう言えるだろう。

もしも、もしもだ、

自分が多大な恩を受けた相手が、

何らかの苦しみの中にいて、

そして自分がそのことを知りながらも、

見て見ぬ素振りをして、

優しい言葉の一つさえもかけてあげられないとするならば、

そんなささやかな思いやりさ持てない者は、

はっきり言って、

薄情者であり、

そして卑怯者であると、

そう言えるだろう。

こうしたことを考えた上で、

俺たちは目覚めなければならない。

俺たち日本人を、

これまで育て支えてきた日本が今、

歴史上最大の国難を迎えているのだから。

かつての昔、

モンゴル帝国が日本を侵略しにやって来た時よりも、

大航海時代にスペインやポルトガルといった
欧米諸国が日本の侵略を企てた時よりも、

ペリーが大砲でもって開国を迫り、
不平等条約を結ばされてしまった時よりも、

大国ロシアが朝鮮半島を南下してきた時よりも、

アメリカに包囲網を作られて、
戦争に引きずり込まれた時よりも、

そしてそのアメリカによって
ありとあらゆる都市を焼け野原にされ、
二発の原爆を落とされた時よりも、

この国は今、難しい国難の時代を迎えている。

それは同胞である日本人が、
平和ボケを続けて、
中国の侵略に何ら気づくことのない、
この間にも、

一部のお金持ちの中国人は、
日本の土地を買い漁り、
そして大勢の中国人が、
出稼ぎで移民として日本にやって来ているにも関わらず、


こともあろうに日本の政治家までもが、

中国の日本侵略を手助けするような政策ばかり考え出すからだ。

こうした国難の時に、

この国で生まれ育った俺たち日本人が、

その国難に気づくことなく、

遊びにばかり夢中になっている。



なっけない限りだ。



そう、俺たち日本国民は今、

国家や政治に無関心であるがために、

知らぬ間に薄情者の卑怯者となりつつある。

「知らずに犯す罪」

というものが、確かに俺たち人間にはある。



確かに、「遊び」というものも大切だ。

車のハンドルに、

ブレーキに、

アクセルに遊びがあるように、

そしてこれらの遊びが無ければ、

かえって車は事故を起こしてしまうように、

人生においても、

ある程度は、「遊び」というものも大切だろう。

人生には「遊び」という名の「花を見るゆとり」も、

大切だろうさ。

この世界には、

「真善美」と言って、

真理もあり、

善悪もあり、

そして美醜もあるのだから、

美という名の芸術に心躍らせ、

遊ぶことも時には良いだろうさ。



世界にはさ、

色とりどりの花が咲き、

険しい山がそびえたち、

サラサラろ川が流れ、

海が青く輝いて、

美しい景観が築き上げられいる。


とくにこの日本には、四季があるから、

そうした自然の景観は、

季節ごとに姿カタチを変えて、

個性ある美しさを演出していることだろう。


そしてそればかりか、

個性様々な方々が努力することによって、

音楽、絵画、文学、舞台や映画といった様々な芸術作品が、

世界中に散りばめられているために、

世界をより美しく彩っている。


俺も子供の頃から文学がスキだ。

音楽も好きだし、

映画だって好きだ。


だから、

そうした自然が作り上げる芸術や、

もしくは人間が作り出した芸術を楽しむ「ゆとり」も、

人生には大切だろうさ。


弦楽器においても、

ピンと張り続けた弦では音色が悪く、

弦が切れてしまうことあるように、

人は、

24時間起き続け、

24時間学び続け、

24時間働き続けることなど、できやしない。

だから、

俺たち人間は、

努力に努力を積み重ねる、

そんな激しい人生を生きようとするのであればこそ、

休むこともまた努力の一つであり、

そして時に人生には、

花を見るゆとり、

芸術を楽しむ心も、必要不可欠だろうさ。

勤勉に努力し、

公のために戦い続ける、

そんな闘いの人であればこそ、

他の人々を寄せ付けないような、

そんな殺伐とした威圧的な人間にならぬために、

芸術を楽しむ風流さが大切と言えるだろうさ。

たとえ戦いの人であろうとも、

もしも心から芸術を愛し、

花を見るゆとりが心にあれば、

自然と柔和な雰囲気をかもしだして、

周囲の人々に戦いの人であることを気取られることなく、

仲間を増やしていくことも出来るかもしれない。

だから、真面目な人であればこそ、

風流を楽しむ粋な部分が大切じゃないだろうか。


しかし、しかしだよ。

現代を生きる俺たち日本人は、

近頃、

あまりにも、あまりにも、


遊びに熱中し過ぎて、

真面目に天下国家を論じることを忘れているじゃないだろうか。

公のために命を燃やし、

勤勉に働き、

真面目に生きるためには、

時には遊びも大切だけれども、

しかしさ、

遊ぶために、

たまの休みに遊ぶためだけに生きて、

公の心を忘れてる人もいるのかもしれねぇな。


そして、

その遊びにばかり夢中の結果、

俺たち日本人は、

いつしか卑怯者になり、

そして薄情者になろうとしている。


つまりさ、

遊びにも、

「適度」

ってもんがあるんじゃないだろうか。

そして日本人が遊びの適度を超えて、

不真面目に遊んでばっかしいるために、

遊びの芸術性も、

ぶっ壊れてるよ。

遊びも下品になって、

粋じゃないし、

風流じゃあなくなってるよ、

この日本はさ。


今、この日本には、

「遊の思想」が大切なんじゃないかな。


じゃあ、天性の歌舞伎者を自称する者として、

「遊の思想の極意」ってものを、

簡単に語らせてもらうかね。


「遊びを極める」

ってことはさ、

肉体快楽を追求するなんてくっだらないことじゃあなくて、

あるいはゴルフ三昧、

ギャンブル狂い、

女や酒に溺れることなんかじゃあなくて、

真に遊びを極めるってことはさ、

勤勉に生き、

私心を捨て去って、

公のために死さえも乗り越えて、

天下国家のために命を燃やしながらも、

花を見るゆとり、

芸術を愛する心を持つことじゃあないだろか。


あのピカソでさえも、

ゲルニカといって、

戦争の悲惨さを訴えて、

平和を求めたが、

天下国家の中に生きるのが人間なんだから、

礼の心を忘れて、

何も天下国家を考えることなく、

遊んでばっかり、

芸術ばっかりのヤツぁアホだね。



「遊びに溺れる者、真の遊びを知らず」
           BY 与国秀行