キリスト教にはこんな話がある。
ある人に二人の息子があった。
弟は、畑を耕し、牛や羊の世話をする生活にもうんざりして、遠い町の華やかさに心をひかれた。
弟は父に向かって言った。
『お父さん、私が貴方からもらうべき財産をください』
そこで、父は資産を弟に分けてやった。
幾日も経たないうちに、弟は自分の全財産をまとめて、遠い国に旅立った。
そして、そこで放蕩に身を持ちくずし、財産を無駄使いした。
昔も今も、お金を振り撒く人の回りに、人は大勢集まって来るが、しかしお金を目当てに集まって来た人の中には、真の友人はいなかった。
お金が無くなると共に、周囲に人もいなくなり、息子はその日食べる物も無い状態になってしまった。
財産を全部使い果たしてしまったとき、その地方にひどい飢饉が起こって、食べる物にも困り出した。
そこで、その地方のある地主のところに行って、そしてすがりつくと、その地主は、彼を畑にやって豚を飼わせてあげた。
彼は、豚の餌で、空腹を満たしたいほどであったが、食べ物を与えてくれる人は、他にだれも居なかった。
そしてどん底の中で、彼は我に返ったとき、こう言った。
『父のところには、パンのあり余っている。
それに雇い人も大ぜいいるではないか。
それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
立って、父のところに行って、こう言おう。
「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。
雇い人のひとりにしてください。」と』
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに帰っていった。
ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
息子は言った。
『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
ところが父親は、しもべたちに言った。
『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。
それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。
食べて祝おうではないか。
この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』
そして彼らは祝宴を始めた。
ところで兄は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。
それで兄は、しもべの一人を呼んで、「これはいったい何事か?」と尋ねた。
しもべは言った。
『弟さんがお帰りになったのです。
無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。
それで父が家から出て来て、兄をなだめた。
しかしそれでも兄は、父にこう言った。
『考えて下さい。
長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。
その私に対して貴方は、「友だちと楽しめ」と言って、子山羊一匹下さったことがありません。
それなのに父は、遊女に溺れて財産を食いつぶして帰って来た弟のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
父は兄に言った。
『おまえはいつも私といっしょにいる。
私のものは、全部おまえのものだ。
だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。
いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
この自分勝手で、そして無力な放蕩息子こそ、道を間違えやすい我々人間の姿であり、
そしてこの偉大な愛に溢れた父親こそ、神仏の姿と言えるだろう。
さて、さて、放蕩息子はどこに消えたのやら。
さてさて、放蕩息子はどこに消えたのやら。