見知らぬ友への贈る言葉 | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

 真剣に悩みを打ち明けられてと考えて、「名も知らぬ友へ」と題して、記事を書こうとしたけれども、ん~そうかぁ~コピペだったか。

 しかも超有名な。

 無知でしたね、私。

 今回の記事から、私のブログに訪問された方には、何のことだかさっぱり分からないでしょうから、まず簡単に経緯を説明させて頂きます。

 先日の日曜日、私が「日曜でも今日も仕事です」といった内容の記事を、ブログでアップしたわけです。

 そうしたら、以下のようなコメントが掲載されました。

 与国さんも大変そうですね

 僕もノイローゼになりそうです…。

 火曜日に正社員の面接行ったのね。

 もうこれで20数社目。

 今まで全部駄目だった。

 それで、その日は車でしか行けないところだったんで、母親が仕事を休んで付き添ってくれた。

 駐車場の車内に母を待たせて面接してもらった。

 出てきたのは社長と人事課長。

 社長が絵に書いたような悪人顔でさ。

 鼻くそほじりながら履歴書見て「職歴なし?あんたもう30だろ?」

 「バイトなら経験あるっていったって職歴なしは職歴なしだろう?」

 「うちでそんなの雇うわけないだろ?もう帰ってくれ。用はないだろ。終わり終わり」

 車に戻ると母は面接には触れず、「また寒くなるんだって、今ラジオで行ってた」

 「ごはん食べて帰ろうか」って。

 無言のままうどん屋に入ってカツ丼食べた。

 そしたら母親が「受かるといいねー」って言うからさ、俺答えに困っちゃってさ。

 で、いろんな言い訳考えた末に正直に「いや、駄目だったんだ、今日も」といった。

 母親、「また次も送っていくよ、カツ丼、あんまりおいしくなかったね」だってさ。

 今頃になって泣けてきたよ。

 情けねーなー。

 就職してーなー。

 今まで何やってたんだろうな、俺は。


 というコメントでした。

 そして私は、「自分の胸のうちを、苦しみや悲しみを勇気をもって、明かしてくれたのだ」と思い、「明日、必ず、このコメントに対して返事を書くから。俺なりの精一杯の言葉を贈るから。必ず贈るから、待っててくれ。」という返事を、記事で書いたわけです。

 しかし実はこの文章は、どこかからコピーして、そして貼り付けたもので、昨日今日、私のブログに、新たに書かれたものではなかったのです。

 しかも「超」がつくほど、有名な文章なのだそうです。

 しかしね、私は思うのであります。

 この文章を読んだ時、私はこの文章の寒く重苦しい光景が、ありありと眼前に思い浮かびました。

 そして行き場の無い苦しみと悲しみが、胸の中をほとばしり、目頭が熱くなると共に、拳は硬く硬く握り締められていたのです。

 ですから、おそらくこれを最初に書かれた方は、真剣な思いで書かれたのであろうし、またたとえ誰かの完全な創作物であったとしても、これを書かれた方は、人の心をよく知っている方であろうと、私は思うのであります。

 そして、そしてです。

 おそらく日本中に、こうしたことで苦しみ、悲しまれている方は、大勢おられると思うのです。

 実際に、ニートで苦しまれておられる方は、たくさんおられます。

 そして、現実に「死にたい」と口にしている方も、たくさんおられます。

 それどころか、日本では一年間に三万以上もの人間が自ら命を絶ち、そんな時代がすでに十二年も続いております。

 私は「国難」、「国難」と、国についてばかり語る者でありますが、しかし私はあくまでも、たとえ微力ながらも、天下国家に尽くそうと、心に誓ったものであり、天下国家とは紛れもなく、「人間の住処」でもある以上、私は「人に尽くそう」と心に誓ったものであります。

 私は人に尽くそうと立ち上がった者であり、そしていつしか国難の事実を知ることで、国難の事実を訴え続けているのであります。

 ですからマザー・テレサという方は、人に直接的に尽くされた方でありますが、私は国を通して、間接的に人に尽くそうとしている者であり、たとえマザーと私とでは、その心に宿る愛の量が異なり、その心に宿る愛の性質が異なれども、どちらも真実の愛であることには、何ら違いはありません。

 ならばこそ、日本で同じように、ニートとして苦しまれている方に、この国難に立ち向かう一人の男として、やはり何らの言葉を贈りたいと思うのであります。

 つまりはこのコメントに書かれた文章は、私に向けられた真実の言葉ではありませんが、しかしそれでも、ニートとして苦しまれている方が大勢いらっしゃる以上、微力ながらも言葉を贈らせて頂きたいのです。

 まず最初に、ニートとして苦しむ方に言いたいこと、それは私のブログには、「国難」とか、「天下国家」とか、そうした単語がたくさん出てきますが、国難や天下国家のことは、今は忘れてしまえ、ということです。

 そして今、考えるべきは自分の人生であり、人生戦略であり、さらにはご両親などのご家族のことです。

 この文章の主人公の男性は、ニートとして苦しみながらも、母親に対して、とても感謝しております。

 しかしニートとして生きている人のすべてが、そうだとは限りません。

 ニートとして生活している人の中には、自分の人生の不幸せを、すべて親に責任転嫁して、「自分がニートなのは、親がきちんと教育して来なかったからだ。そして今、ニートとして生きている私を、その状態で続けさせている両親は憎たらしい」と、そう考えている者も、大勢おります。

 しかし自分の人生の責任は、自分で背負うものであり、自分の努力の至らなさを他人に押し付けていては、人はいつまで経っても、幸せに向かいだして生きることはできない、というのは一つの真実です。

 いや、それよりも、世の中のすべての責任を自分が背負う必要など、とうていありませんが、しかし「自己責任を原則」として、たとえ相手が少々悪くとも、「自分の未熟であり、自分の至らなさである」、と考えたほうが、人は幸せに向かって歩み始めることができると、私は仏よりそう教わり、今日まで生きてきました。

 ですからもしもニートとして生きておられる方で、ご両親に責任転嫁して、そして憎んでいる方がおられるのならば、その考え方は、自分を不幸せにする考え方であり、「責任転嫁より自己責任が大切である」と考えることが、幸せに向かって歩み始める、ということを知って頂きたいのです。

 そしてやはり感謝を忘れてはならいと、そう思うのです。

 人は感謝の心が芽生えた時、自ずと心の中に、「ありがとう」という思いが沸き起こってきます。

 この「ありがとう」という言葉は、漢字にすると「有難う」です。

 これは「有る事だけれども、難しい事である」という言葉が、語源となっております。
 お釈迦様と同時に生まれてくること、これは難しいことです。

 それは目の見えない亀が、大海原の中から顔を出した際に、木切れの間から顔を出すような確率、と云われております。

 これは全く無い出来事ではなく、有り得る出来事ですが、しかしやはり起こることは難しい出来事です。

 ここから、お釈迦様と同時代に生まれ合わせることは、感謝すべきことであり、難しいことである、という意味から「ありがとう」という感謝の言葉が生まれてきたわけです。

 予断ですが、2500年前のお釈迦様が生まれる前の感謝の言葉とは、何だったのでしょうか?謎ですね。

 それはさておき、私は、世の人々に言いたいのです。

 有り得ることだけれども、起こることが難しいことに、感謝の思いを持つことは、実は易しいことであると。

 前にも書きましたが、日々、当たり前に起きていることに、感謝することのほうが難しいことであると。

 見ず知らずの人が、突然、一億円くれたら、誰もが「ありがとう」と、感謝するでうしょう。

 見ず知らずの人が、傘を貸してくれたり、バスで席を譲ってくれたり、道を教えてくれたら、誰もが感謝の心を持てるのではないでしょうか。

 しかし毎日、両親がご飯を造ってくれる、毎日、妻がYシャツにアイロンをかけてくれる、毎日、夫が仕事して家族を養ってくれる、こうした当然起こっている事に、感謝を忘れてしまうのが、私たち人間の愚かさではないでしょうか。

 つまり有り易いことに、私たちは感謝を忘れてしまうことがあるわけです。

 すなわち、有り易いことに対して、感謝を持つ事が難しのならば、これは「もう一つの有難うである」と、私はそのように思うわけです。

 両親が自分を産んでくれたこと、妻が元気でいてくれること、夫が存在してくれていること、こうした当たり前になってしまいがちなことに、私たちは「もう一つのありがとう」が言えるわけです。

 当然と思えるかもしれませんが、自分が今を生きていることに、神仏に生かされていることに、私たちは「もう一つのありがとう」が言えるわけなのです。

 そして当然と思えしことに、感謝の心を思い出した時、やはりその感謝を言葉として伝えていくのみならず、やはり行動として、その感謝の想いが形になっていくはずなのです。

 妻ならば夫にさらに愛情を注ぐことでしょうし、夫ならば妻にさらに愛情を注いでいくことでしょうし、互いが互いが幸せにしていくことはずです。

 感謝の想いが、言葉や行動として形にならないのは、やはり感謝の想いが浅いと言えるのではないでしょうか。

 最近は、家庭不和で悩んでいる人、あるいは離婚してしまう夫婦が多いようですが、そうした人々に共通しているのは、やはり私は感謝が足りないことだと思うのです。

 結婚記念日や誕生日といった、一年に一度の特別な日に、深い愛情を注いで、そしてその「有る事だけれども、なかなか起こらない難しい事」に、感謝することはあっても、Yシャツにアイロンをかけるとか、働いて家族を養うとか、あるいは互いに健康に存在してくれているとか、そうした当たり前の事に感謝を忘れている夫婦が多いのだと、私は思うのです。

 この「もう一つの有難う」の大切さを忘れているために、家庭不和を招き、そして家庭が壊れていくことが、やはり多いと私は思うわけです。

 そして、私自身も昔は両親への感謝を忘れていることがあった身であるために、なかなか人に言えた義理ではないのですが、しかしそれでも、恥を承知であえて言うならば、やはり「両親への感謝」というものも、あると思うのです。

 ニートとして生き続けていれば、苦しい日々がさらに苦しくなり、己の人生が苦しみの人生となっていくことは、やはり目に見えております。

 ですからまず、自分のためにも努力することが大切です。

 しかし私たち人間は、両親に感謝し、両親を喜ばせるためにも、努力することができるのです。

 己を大切に思い、己の人生を真剣に考えても、人は努力していくことができますが、私たち人間は、妻のために、夫のために、そして両親のために、愛でもって努力していくことができる生き物であり、この愛の力が努力を支えてくれるのです。

 なぜ仕事という苦しい戦場に、夫が耐えられるのか、それは妻や子を愛しているからではないでしょうか。

 なぜ育児、家事に悩み苦しみながらも、妻は老いていく肉体に鞭打って働けるのか、それは夫や妻を愛しているからではないでしょうか。

 なぜ人は苦しい学業に励んだり、冷たくあしらわれながらも、就職の面接を何度も受けることができるのか、それは自分の人生を大切に思い、そして両親を愛するからではないでしょうか。

 愛の力は偉大である、私はそう教わり、これまで生きてきましたが、「自分は駄目な人間だ」と思い込んでいる人が、もしもいるのならば、自分が愛している人のことを真剣に、真剣に考えてみれば良いと私は思うのです。

 妻、夫、そしてご両親、あるいは兄弟や友人、恩師など、そうした人に愛を注ごう、そうした人を幸せにしよう、そう思い立った時、人はこれまで自分に無かった力が、勇気が、知恵が沸いてくるのだと、私は思うのです。

 か弱い草食動物が、時に愛する我が子を守るために、ライオンにさえ立ち向かっていくように、愛の中にこそ真なる勇気が潜んでいる以上、愛する人ほど強いと私は思うわけです。

 ですからニートとして苦しまれていて、そして今一つ、力が沸き起こらないのならば、自分を大切に想って、自分の人生を真剣に考えるのみならず、誰かを愛する力を利用することが大切であると、私はそう考えます。

 簡単に述べてしまえば、有り易い日々の出来事に感謝し、そして愛によって勇気を引き出す、これがまず第一段階だと私は思います。

 そして、たとえ少しでも精神的に強くなり、そして「頑張るぞ!」という想いが出きたのならば、次は実社会のことを学んでいくことが、大切だと私は思います。

 つまり、いきなり面接に行くことも当然大切かもしれませんが、時には資格などを取得するために、勉強することも一つの手段だと、私は思います。

 たとえば、仕事には様々なものがあり、中には資格が何も無くとも就ける仕事もあれば、介護のように資格を必要とする仕事もあれば、医者や弁護士のようにその資格の取得がとても難しい仕事もありますが、やはり現実を見つめれば分かるように、資格の取得が難しければ難しいほど、やはり待遇が良く、職場の環境も全体的に良い、ということは歴然です。

 なぜなら医者や弁護士といった職業についている方々は、見方を変えれば小学生の頃から行っていた勉強の積み重ねによって、そうした職業に就くことができたわけですから、視点を変えれば、彼らはそうした職業に就くための職業訓練を、数十年かけて行い、そして努力していた、という見かたさえできてしまうからです。

 そうした一方で、資格が無くとも就ける仕事を扱っている会社経営者の中には、人間を人間とも思わず、「お前の代わりなどいくらでもいるんだ」とばかりに、傲慢な考えの持ち主もいます。

 というよりも、「人間を物扱いする人間はいつの時代もいる」、という悲しい現実が、これほど発展を遂げた先進国・日本にも、まだまだ大勢いるということです。

 ですから、こうした社会の現実を見ると、いきなり仕事に就くことも一つの手段ですが、もしも時間と金銭に余裕があれば、資格取得を目指すことも一つの手段であり、あるいは何らかの仕事を行いながら、その合間を縫って資格取得を目指すことも一つの手段であると、私は思うのです。

 すなわち、最初にまず、精神面を語りましたが、二番目は現実面を考え、そして勉強する必要があると、私は思うのであります。

 そしてね、三番目の最後は、「心の学習に努めるべきである」、ということです。

 お釈迦様、つまり仏陀と同時代に生まれ合わすことは、有り難いことですが、仏陀が地上に生まれることによって、心の法則は説き明かされて、私たち衆生は、心について学習することができるのですから、私たちはやはり、己の人間としての向上を求めて、心の学習に努めていくべきであると、私はそう考えております。

 今、たとえ人を愛する心が足りず、今一つ勇気が出ない方がいたとしても、心について学び深めて、己の心を磨いていけば、誰もが今よりも深く人を愛せるようになり、誰もが今よりも多く人を愛せるようになり、すると自ずと勇気がさらに沸いてきて、強くなっていかざるを得ないのです。

 何よりもこの私がそうです。

 今よりもさらに心未熟であり、今よりも人を深く多く愛せず、そして勇気もまた無い私でありましたが、心の学習を積み重ねたことで、少しばかり心を磨かせ、愛と勇気の総量を多少は富ましたと、私は胸を張って言えます。

 そして愛に溢れ、勇気に満たされてくると、人は「有り難いこと」に命を懸けることもできるのです。

 ですから、ニートとして苦しまれている方のみならず、どうか、どうか心について学び、そして己の心を磨いて下さい。

 以上が、ニートの方に贈る言葉ですが、これらのことをまとめると、以下の通りです。

 「両親の存在」という有り易いことに感謝し、愛を注ごうと勇気を沸き起こし、そして「やるぞ!」と、たとえ少しでも思い立ったのならば、実社会に対する学びを深め、さらには心の学習に努めて、己を磨き上げていく、ということであります。

 ニートとして苦しまれる方に贈る言葉、これに一貫して貫かれていること、それは「努力」というものでありますが、しかし努力というのは、心が変化していった時、多少の苦しみを少しは伴うものですが、しかし自然にできていくものであると、私はそのように考えております。

 どうか頑張って下さい。

 この日本にどこかで、ニートとして苦しまれている方、私は応援しております。

 なぜなら人と人は、たとえ名前など知らずとも、友になることは可能なのだから。

 今、私の説法力がこの程度しかなく、様々な事情、ブログ戦略も手伝って、この程度の言葉しか贈れないこと、どうか、どうかご勘弁ください。


 今の私は、「国難」、「国難」と口にしておりますが、もともとの私は、「世の中から苦しみを取り除きたい、この国から自殺者やニートや引きこもりやリストカットを無くしたい」という想いから立ち上がりました。

 今回の記事は、宗教的でもありますが、しかしこうした記事が書けたことに、コピペを張って下さった方に、深く、深く、感謝を申し上げます。

武田鉄也も「贈る言葉」で言ってるではないですか。

 「信じられぬと嘆くよりも~♪人を信じて傷つくほうがいい~♪」って。


 ちなみに日曜も仕事である今の私の職業は、「心の医者」であります。