湘南乃風の「札束」と坂本竜馬の「志」 | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

私はかつて、

「渋谷不良少年20年史」

などという恥ずかしい雑誌に、

写真と原稿で掲載されたことがあるが、

(世に仕事を成していくために、
 あえて自分の考えにそぐわない雑誌に出た)

どうやら、

その雑誌は絶版になってしまっているようだ。

ならば、

その雑誌に掲載された原稿の一部を、

ブログでアップしても、

何ら問題は無いだろう。

おそらく・・・。



あの原稿を書いた時より、

私の悟りも少しは上がっているので、

何点か手を加えさせて頂くが。



私が生まれる四十年ほど昔、

渋谷で、

ある一人の若者が

ケンカに明け暮れていたそうだ。

勉強や運動もできた若者は、

周りから「神童」と呼ばれ、

進学校として有名な

麻布中学に通っていたという。

彼の同級生には

橋本竜太郎元首相がいたそうだ。

その若者は

ケンカで相手を次々と倒していき、

渋谷界隈(かいわい)で一躍有名となったそうだ。

すると当時、

その街でヤクザをしていた一人の男が、

その若者の前に現れて、こう言った。

「つまらないケンカばかりしていないで、
 男を売る稼業についてみないか?」

その男の名前を、

安藤昇といい、

愚連隊から安藤組を興し、

後に映画監督から、

俳優まで勤めた人物であり、

現在は渋谷に拠点を持つ、

住吉一家系列の右翼団体の相談役でもある。


「俺の子分にならないか?」とか、

「ヤクザにならないか?」とか言われたのならば、

若者は絶対に拒んだそうだが、

〝男を売る〟という文句で心を惹かれ、

その誘いに乗ってしまった。

当然ながら若者は、

せっかく麻布中学したにも関わらず、

麻布高校への進学が認められず、

慶應高校へ進学することになるが、

暴力団との関係のため、

慶應高校も辞めざるを得なくなる。

その若者とは、

後に作家となる安部譲二という人物だ。

後年、安部氏は、

「年幼い俺に『男を売る』という文句は、
 何とも卑怯だ」

と、そう述べている。

それからおよそ四十年後、

私の先輩であり、

友でもある一人の男が、

やはり渋谷界隈で徒党を組み、

やはり愚連隊と化し、

ケンカに明け暮れていた。

そしてその男は、

抗争の末に命を落とした。

それが金村剛弘という男である。

我々『男』という生き物は、

「男として生きる」

ということに対して、

何かこだわりを持っているものなのかもしれない。

しかしながら、

「どう生きれば男であるのか?」

この何よりも難しい問題の答えを、

誰も教えてはくれないために、

時に我々男は、

その問題の答えを

間違えることもあるものだ。

その結果、

「喧嘩」

というものを

「男と男の闘い」

と錯覚して、

「喧嘩に勝つか負けるか」

ということに、

価値観を見出してしまうことも

あるのかもしれない。

そしてある男は、

監獄に行き、

ある男は墓場に行く。

最近では、

『クローズ』という不良漫画が、

映画化されたりもしていて、

いかにも格闘家のごとく

不良少年たちの世界を描くために、

世の中全体が、

喧嘩と格闘技の区別が

つかなくなっているのかもしれない。

あの漫画を見て私が感じたことは、

「ケンカを知らない者が描いている」、

あるいは

「不良の世界を脚色し、
 格闘技にして描いている」

ということだ。


だから漫画家や映画監督は、

ケンカと格闘技の区別が

つかなくなった流れに乗っかって、

ケンカという愚かで悲しきものを

美化して考えることだけは、

どうかやめて頂きたい。


なぜなら、

人間はケンカするために

生まれてきたわけではないからだ。

坂本竜馬も言っているように、

男とは本来、

志を持って、

天下国家に、

ことを成すために生まれてきたからだ。


どうかこの下の動画を見て頂きたい。

『お~い!竜馬』というアニメの動画だが、

この中で語る竜馬の言葉に、

男として真の生き方があるのではないか。


人は天下国家に

ことを成すために生まれてくるために、

だから天は、

我々人間に、

それほど頑丈(がんじょう)な

肉体など与えてはいない。

打ちどころが悪ければ、

子供の拳(こぶし)でも人は死んでしまう。

そのために、

自分の子供を失って

悲しむ両親や兄弟や仲間もいる。

あるいは「人殺し」という十字架を

背負って苦しんでいる者も実際にいる。

何年も塀の中で

暮らさなければならなくなることもある。

民事訴訟を起こされて、

両親が必死に建てた

マイホームを売り払うことだってある。

漫画や映画では、

「殺人」ということが

取り上げられたとしても、

警察に逮捕されたときの不自由さ、

惨めさ、

手錠の重さ、

あるいは家族や友人の落胆、

民事賠償、

そして犠牲者や遺族の悲しみなどが、

事細かに描かれることはあまりない。

いや、時には漫画や映画などでは、

不良の世界での死が、

美化して描かれることさえある。


まったくもって、

愚かなことだ。

どこかの大の大人が、

喧嘩での死を美化して描くとは・・・

しかし

「一人の人間が死ぬ」

ということは、

犠牲者側にとっても、

加害者側にとっても、

とんでもない悲しみと苦しみを伴うものであり、

決して生易しいものなどではない。


今、我々はこの地上に生きている。

竜馬を始めとする志士たちが造り上げた日本で、

我々は生きているのだ。

もしも志士たちがいなければ、

江戸幕府は倒れず、

士農工商の不平等な身分制度が

続いていただろう。

もしも志士たちがいなければ、

日本も中国やインドのように、

欧米列強国の植民地となり、

日本には不自由な時代が続いていただろう。


志を持ってことを成してくれた先人たちが

この日本にいたからこそ、

我々は今を生きていくことができるのだ。

「義を見てせざるは勇無き也(なり)」

と言うが、

つまりは、

正義を行う場面に遭遇して、

見て見ぬふりをする、

ということは、

勇気が無いということだが、

私はさらに思う。

この日本最大の国難の時代において、

先人たちが築き上げた豊かな日本に生きながら、

国難の事実に気づかず、

たとえ国難の事実に気がついて、

義を見ても、

それでも立ち上がらないのならば、

それは勇気が無いばかりか、

卑怯者であると。


私は湘南乃風が好きだ。

若旦那は素晴らしい男だ。

カラオケに行けば良く歌う。

しかし「札束」って曲の歌詞は嫌いだ。

なぜなら男は、

札束を掴むためではなく、

天下国家にことを成そうと、

生まれてくるからだ。



男として生まれたからには、

欲に負けることなく仁に生き

あえて茨の道を突き進み、

札束よりも真の志を掴む。


どうせ再び生まれ変わってくる生命、

ならば男として生まれたからには、

この身、この命、

たとえ殺してでも仁を成す。

これ陽明学の「殺身成仁」であり、

「小人は利に生き、君子は義に生きる」

と言われているように、

安っぽい男は欲を貫くために、

銭の匂いに敏感になるが、

真の男は仁を貫くために、

国難の匂いに敏感になる。


「愚者は成事(せいじ)に闇(くら)く、
 知者は未萌に見る」

と言うように、

あるいは、

「智は禍(わざわい)を
 免(まのが)るるを貴(たっと)ぶ」

と言われているように、

つまり愚か人間は、

国難がはっきりと形になってきてからも、

国難の事実に気がつかない一方で、

賢い者は、

国難が未だ萌(きざ)さずとも、

国難の匂いをいち早く察知して、

勇気を持って立ち上がる、

ということである。


男として生まれたからには、

欲に塗れ、

酒や女と戯れて、

銭の匂いに敏感になって生きるのではなく、

ストイックに生きて、

仁に溢れ、

天下国家に挑んで、

国難の匂いに敏感になり、

たとえドブの中でも死のうとも、

前のめりで死んでいく、

そういった覚悟を決めたいものだ。

ここにこそ、

「どう生きれば男であるのか?」

という難問の答えがあるのだと、

私は考える。

『男』とは売るものではなく、

ケンカなどするものではなく、

大義のために生きて、

天下国家に命を燃やしてこそ『男』であると、

私はそう考える。

なぜならケンカなどしていたら

大義のために人に優しく生きることができず、

男を売っていては

天下国家のために命を燃やすこともできず、

この日本最大の国難の時代であれば、

日本もチベットやウイグルのように、

国としては消滅してしまうからだ。

日本が自殺大国となり、

秋葉原事件のような悲惨な事件が多発し、

時代が腐敗している理由、

それは我々男たちが、

いつまでも眠っているからに他ならない。

いや、むしろ豪傑猛者たちが、

「男とはどう生きるべきか?」

という問の答えを悟り、

志を持って立ち上がったときこそ、

日本は国難を打破するばかりか、

時代は必ずや素晴らしくなっていくことだろう。


「男とはどう生きるべきか?」

私はこの答えを悟ることができたために、

こうして今も生きていて、

そして何時の日か、

ドブの中で死んでいくかもしれぬ。

逆に、

友はその答えを悟ることができなかったために、

命を落としたのだから、

どうか、どうか、

「男らしい」とは、

本当は如何(いか)なることであるのか、

そのことを考えて頂きたい。

そして豪傑猛者たちよ、

どうか立ち上がって頂きたい。

なぜなら、

豪傑猛者が目覚めないことこそ、

日本最大の国難なのだから。


もし日本最大の国難について、
未だ知らないならば、↓コチラをどうぞ。
http://ameblo.jp/masuraonokaze/


まぁ湘南乃風の「札束」の歌詞は、

「世の人々に勇気を与えたい。
 共に頑張ろうじゃねぇか」

という想いの表れから、

男たちの欲望を煽り立て、

志を忘れさせることも

時にあったのだろうから、

若さゆえの過ちだろう。

間違えることなど誰にでもあることだ。

もう一度言うが、

私は湘南乃風と若旦那が好きである。