「自分は今、27歳です。
昔、悪さしてました。
悪さをし過ぎたせいか、自分の性格が悪いせいか、
今は人間不信でニートです。
人が怖くなってしまいました。
社会に出る一歩が踏み出せません。
何かにアドバイス下さい。
宜しくお願い致します。」
あくまでも私が見、聞き、学んできた範囲の中で、語らせて頂くので、
どうか一つのアドバイスとして受け取って頂きたい。
ニートと言われる人、ひきこもりと言われる人、
そうした人々に共通して言えることが、一つあるように私は思う。
それは「傷つくことを恐れている」ということだ。
怖いのだ。
外に出て、社会に出て、人と会い、
会社の上司でも、
アルバイトの同僚でも、
偶然やって来たお客さんでも、
不用意な言葉、無神経な行動、心無い言動によって、
己自身の心が傷つくことが。
すでに過去の経験から、
幾度も誰かに心を傷つけられて、
傷つき打ちのめされることを、
恐怖しているのかもしれない。
あるいは、人によっては、
自分自身に自信が持てず、
「仕事上でミスや失敗をしたりして、
プライドが傷つけられるのではないか?」
と、そう恐れている人もいるだろう。
「傷つくことを恐れる」
それは誰でも持っている感情だろう。
しかしながらそれでも、
外に出て、社会に出て、人に会うことを、
極度に恐れる人というのは、
繊細な部分がやはり強く、、
他人の言葉や行動に傷つきやすい、
という面があるように私は思う。
しかしながら、
それは高すぎるプライドの裏返し、
ということもあるかもしれない。
ならば自ずと解決策は見えてくる。
強くなる努力することだ。
これは言うに易く、
行うに難しいように思えるかもしれないが、
実はそうでもない。
なぜなら人の心と体は確かに強くなれるからである。
ではどうすれば、
人の心は強くなるか。
それは執着を捨て、悟りを高めていくことであるが、
やはり真理の書籍や文章を読むことが大切だろう。
日々、己の悟りに関係するような、
そうした啓蒙してくれる書籍を読むことが、
人生にとっては重要不可欠である。
今まで、そういった書籍との出会いが少なかったかもしれないので、
私なりに具体的な言葉を送るとするならば、
まず、知らねばなるまい。
誰か他人に、
不用意な言葉、無神経な行動、心無い言動によって、
己自身の心が傷つくことがあろうとも、
しかしそこにこそ、
成長のチャンスが隠されている、ということを。
誰か他人から、
不用意な言葉、無神経な行動、心無い言動を受け取っても、
な~にも感じない人、というのもいるんだ。
繊細な面が強く、傷つきやすい人からすれば、
「それで、どうして傷つかないの?」と、
そう驚きたくなるかもしれないが、
そうした心がタフな人も世の中にはいる。
しかしその一方で、そうした人に限って、
人に対する思いやりや労わりにかけて、
誰か他人にして、無意識のうちに、
不用意な言葉、無神経な行動、心無い言動によって、
人を傷つけたりしているもんだ。
だから繊細で傷つきやすい人というのは、
自分が傷つきやすいために、
自分の言動によく注意を払うことができて、
人を傷つけることが少ない、
という長所を同時に持っていたりもする。
そのために、
そうした傷つきやすかった人が、
悟りという名の心の努力を行い、
心がタフになっていくことができたら、
それはそれで、
一つの大いなる道が開けていくのだろう。
他人に不用意な言葉を浴びせ、
無神経な行動と取り、
心無い言動を行える人というのは、
己の心がタフな分だけ、
実は逆に、
心が傷つきやすい人の気持ちなど理解できない。
彼らからすれば、
「はぁ?どうして今ので傷つくの?」
という感じになってしまう。
だからこれは、
決してどちらが優れているわけでもなければ、
どちらが劣っているわけでもない、
ということを知らねばなるまい。
世の中には、
鈍感な人もいれば、
繊細で鋭敏な人もいるということである。
しかし今の日本は、
誰もが「自分が、自分が、」と、
自我のおもむくままに生きて、
思いやりや労わりに欠けている世の中であるために、
繊細で心が傷つきやすい鋭敏な人というのは、
とにかく生きづらい世の中と言えるだろう。
しかし時代が変わって、
人々が他人に優しく生きようと心がけて、
日本が思いやりと労わりに満ちた世となれば、
まぁ私などは、
そうした世の中を作るために努力しているわけだが、
そうした繊細な人ほど生きやすい世となることだろう。
たとえ不用意な言葉を浴びせられても、
たとえ無神経な行動を取られても、
たとえ心無い言動を行われても、
泣くのも自由、笑うのも自由、
傷つくのも自由、開き直るのも自由、
繊細に落ち込むのも自由、鈍感で何も感じないのも自由、
一つの言葉や出来事によって、十年、二十年と落ち込むのも自由、
一つの言葉や出来事を、一秒、二秒で忘れてしまうのも自由、
人は幸せになるのも不幸せになるのも自由であり、
結局のところ己の心しだいなわけである。
ならば鋭敏で繊細な心を持ちながらも、
「悟りを高めて、あえて何も感じずに鈍感になる」
ということも幸せな人生を歩んでいく上での、
一つの道であることを知るべきである。
つまり真理の書籍を読んで、
悟りの道を歩むべきであると述べたが、
具体的な一つ目のアドバイスは、
「人間は己の心しだいで、幸せにも不幸せにも成れる」
という一つの真実を悟り、
「時にはあえて鈍感になる」
ということを悟るべきである。
そして具体的二つ目のアドバイスは、
もし高すぎるプライドをお持ちならば、
自分に対する執着を捨てて、
そのプライドを少し減らすべきである、
ということが言えると私は思う。
プライドの高い人というのは、
「人からどう見られているか?」
ということばかり気にかけているので、
「人からどう見られようが知ったこっちゃねぇ」
と開き直り、
自分に対するつまらぬこだわりを捨てるべきである。
もしつまらないプライドがあるならば、
そのつまらないプライドこそ、
実は自分自身を追い込み、追い詰め、
不幸せにする心であることを知り、
高すぎるプライドは捨ててしまうことだ。
ではどうすれば人は高すぎるプライドを捨てられるか。
唯物的な価値観をお持ちの方には、
理解できないかもしれないが、
それはやはり、
「人は何も持たずに泣きながら赤子として生まれてきて、
そして心以外には、
また何も持たずにこの世を去っていく存在である」、
ということをよく悟らねばならない。
真理を一途に学び続けて、
「人は富も、名誉も、地位も、持って帰ることはできず、
心だけを唯一の持ち物として生まれ変わりを繰り返している存在である」
こうした霊的な人生観を持てばこそ、
人は執着を捨て去ることができて、
高すぎるプライドが削られて、
あとは「誇り」だけが残っていくのである。
つまり高すぎるプライドというのも、
結局は「人からよく見られたい」という自分自身に対する執着であり、
こだわりであり、物質的な欲望に過ぎないのだ。
だから真理を学び、
「人は心だけを唯一の持ち物に生まれ変わりを繰り返している」
ということを基本に、
徐々に霊的人生観を築き上げることができれば、
その物質的執着は断ち切られていくことだろう。
そして具体的な三つ目のアドバイスは、
「悪さをし過ぎたせいか、
自分の性格が悪いせいか・・・」
とあるが、
まず自分のこれまでの人生をよく振り返り、
そして反省すべき点があるならば、
きちんと反省する必要があるだろう。
この時の注意点として、
「己の目で自分の人生を振り返るのではなく、
神仏の目で自分の人生を振り返る」
という点である。
ただししかし、「神仏の目」
というものを持つためには、
やはり真理の学習が無ければできないことを、
あえて付け足しておかねばならない。
つまりは、
真理を学習して悟りを高め、
そして「神仏の目」とは如何なるものかを少しでも学び、
その上で自分の人生を振り返って反省することが重要である、
ということだ。
なぜなら何も真理を学ばずに、
ただ反省したところで、
それは自分の都合の良い反省であれば、
心の過ちは改善されず、
何ら意味が無いということもあるからである。
「過去はすでに過ぎ去れども、
心の過ちは残るなり」
私がそう学んでいるように、
人は誰でも、過ぎ去った過去の中に、
何らかの反省点があり、そこに心の過ちがあるものだ。
ならばこそ、
その反省すべき心をきちんと悔い改めることが必要だろう。
0歳から5歳までを振り返り、
6歳から10歳まで振り返り、
11歳から15歳までと、
そう区切って自分の人生を振り返るのも、
一つの反省方法であると、私はそう学ばせて頂いている。
つまり三つ目のアドバイスは、
真理を学び、神仏の目を追求して、反省して心の過ちを悔い改める、
ということである。
そして真理を学習し、
神仏の目で自分の心を反省し、
己の心が安らかで穏やかになることができたのならば、
その時こそ、「神仏に祈りを捧げる」ということをお勧めするが、
まぁこれを説明するには、
「神仏への信仰」ということを抜きには語れないので、
申し訳ないが、ここでは書ききることができない。
つまり簡潔にまとめるならば、
「真理を学び、悟りを高めていくことが大切である」
ということが大まかなアドバイスであるが、
具体的な一つ目のアドバイスとして、
「人間は己の心しだいで、幸せにも不幸せにも成れる」
という一つの真実を悟り、
「時にはあえて鈍感になる」
ということを悟りべきであり、
具体的二つ目のアドバイスは、
もし高すぎるプライドをお持ちならば、
真理を学び、霊的人生観を築き上げ、悟りを高めて、
自分に対する執着を捨てて、そのプライドを少し減らすべきであり、
具体的な三つ目のアドバイスは、
真理を学び、神仏の目を追求して、心の過ちを反省する、
ということが言えると私は思う。
人は朝起きて、目覚めたから、
「幸せに成るか、不幸せに成るか」
という選択を常に迫られているのだ。
それは貴方だけではなく、
私もそうであり、
我々は一瞬、一瞬、
「貴方は幸せになりますか?
それとも不幸せになりますか?」
と、そうした判断を求められているのである。
しかしそれでも、
我々人間は幸せになる選択を捨てて、
自ら不幸せな道を選んでしまうことさえある、
迷い多き生き物でもある。
だからこそ少しでも幸せな選択をしていくために、
真理を学び、悟りを高めていくことが大切なのだ。
それはあたかも、
今日、暖炉で焚き火をするのに、
未来のために、山に木を植える作業にも似ている。
今日、焚き火をして、
食事をして、暖まろうとする時、
本来ならば落ちている木を探したり、
あるいは木を切り倒すのが本筋だろう。
しかし山に木を植えず、
切り倒してばかりいたら、
いずれ苦しむのは自分自身に他ならない。
ならばこそ、
今日、木を切り倒しながらも、
明日のため、来年のため、未来の自分のために、
我々は山に木を植えなければならない。
未来の自分のためへに投資することが大切であり、
その投資の一つが真理を学び、悟りを高める、ということだ。
もちろんその他にも、
体を鍛えるとか、英語を学ぶとか、資格を取るということも、
未来の自分への投資である。
しかしこの「悟りを高める」ということこそが、
我々人間が人生を生きていく上での、
木で言うならば幹のような存在であり、
その他に体を鍛えるとか、
英語を学ぶとか、
資格を取るため勉強するといったものが、
枝葉であると言えるだろう。
人生の大木を目指すことが大切であり、
人はなかなか簡単には、
今日だけで完全な幸せにはなれないのだ。
今日、幸せに生きていくには、
「昨日までの自分がどれだけ頑張ったか」、
ということが大切であり、
今日というものは、
昨日までの結果であったりする。
だから今日は明日のために、
明日は明後日のために、
常に未来に投資していくことが我々には大切だろう。
何もしない、何も学ばない、未来に投資しない、
ということは、確かに楽なことであり、
一見すると幸せにも見えるが、
しかし実は不幸せの選択をしてしまっているとこを、
我々は悟らねばならないのである。
「今日、一体、何を学ぶか?」
朝、起きた時に、
そう心の中でつぶやいてみるのも良いかもしれない。
さてこうしたことを踏まえて、
さらにもう一つアドバイスするならば、
不用意な言葉、無神経な行動、心無い言動によって、
すでに幾度も心を傷つけられて、
傷つくことを恐れているのならば、
最初は優しい人にだけ会って、
そうした人々の中で、
人間に慣れていく、
そして人間を信じていく、
という努力をしたらいかがだろうか。
「そんなことできるのか?」
と、そう思われるかもしれないが、
しかし決して不可能なことではなく、
「悟りを求めて学んでいる人たちというのは、
優しくなろうと努力している人たちである」
とだけ、あえて言っておきたい。
貴方が少しでも幸せな日々を過ごし、
そして幸せな人生を生きて頂くことを、
私も望んでいる。
ともにこの生きづらい世の中において、
何が何でも幸せな人生を生き抜き、
そして生きやすい世の中を築いていこうではないか。
そうした繊細で鋭敏な人ほど、
苦しみを乗り越えた時、
人の心を思いやり、労わることができて、
人に優しく生きていくことができるのだから。