「もう少しだけ性欲について質問させて下さい。
『中道』については、
日本最大の国難や与国さんのブログでのスジャータのお話で、
少しは理解しています。
しかしキリスト教やユダヤ教では、
『生殖を目的としない性行為は罪に当たる』と、
そう言われているらしいのですが、
執着をしない『中道』では罪ではないと、
そのように理解して間違いないでしょうか?
『そうするとどっちの教えに従うべきなのか?』
という迷いが生じてしまっています。
こういう答えのない場合は、
自分の選んだ宗教の教えが答えになるのでしょうか?
なんか意味不明な質問ですみません(;^_^A」
誰でも食事をすれば、
いずれトイレにいくものであり、
これは生理現象である。
しかしそのトイレに行く生理現象について、
事細かに公の場で語ることは、
何とも恥ずかしいものである。
これと同様に、
性について公の場で語るということは、
何とも恥ずかしいものである。
なぜなら食事時にトイレの話を事細かにしたら、
それはマナー違反であるように、
性の話は、あまり公の場でするものではないからだ。
食事、睡眠、トイレ、性、
これらは人間の生理現象であって、
どれも誰もが関わっているものだ。
しかし食事は一人でしても、大勢でしても良いものだ。
それは睡眠も言えることであって、
修学旅行に行ったり、
友人同士で泊まりに行ったりして、
皆で睡眠を取ることもあるだろう。
しかしトイレは一人でするものであり、
また性は自分と誰かでするものであるために、
自然とこれらは、秘め事となっている。
つまり食事、睡眠、トイレ、性、
これらはどれも人間の生理現象だが、
しかしトイレと性は、
食事や睡眠とは違って、
個人の秘め事であるわけだ。
そしてその秘め事について、
人前で語る時、
我々は自然と「恥ずかしい」と感じるものである。
しかし質問者が、
とても悩まれているようなので、
私ごとき未熟者だが、
その「恥かしさ」に耐えながら、
質問に答えさせて頂く。
さて、
「罪か?罪でないか?」
ということを悩まれているようだが、
そのように考えるのではなく、
大切なのは心である。
その人間の心が、
性のことばかりに向いていれば、
たとえ子を授かるための生殖を目的にした性行為であろうとも、
それは執着による性行為であり、その心は間違っている。
それは性のみならず、
お金でも、地位でも、名誉でも、
想いの針が、何か一方向に向き続けているのならば、
その心は間違っていると言えるだろう。
しかしながらその人間の心が、
性のことばかり向いていなければ、
たとえ子を授かるための生殖を目的にしない性行為であろうとも、
それは人間の持つ肉体本能による仕方のない性行為であり、
その心は悪とは言い切れない。
質問されている方は、
今回の人生か、あるいは過去の人生か、
それは私ごときには定かではないが、
ユダヤ教やキリスト教と馴染みが深いのか、
どうも「罪」ということを気にされているようだ。
たしかにイエスはこう言った。
「金持ちが天の国に入ることは、
ラクダは針の穴を通ることより難しい」
ラクダが針の穴を通ることなど不可能である以上、
つまりイエスは、
「金持ちは天国には入れない」
と言ったにも等しいわけだ。
では本当にそうだろうか?
松下幸之助という方は、
まぎれもなく金持ちであった。
そして彼は、
家の外に備え付けてある水道を、
他人が使っている姿を見て、
「水道哲学」というものを考えられたらしい。
「水道というものは、
決して無料の代物ではない。
しかし他人が水道を使っても、
皆、それほど目くじら立てて怒らないのは、
それは水が極めて安いからだ。
水と同様に、電化製品もそれくらいに安かったら、
世の中はもっと生き易くなることだろう」
そう松下幸之助氏は考えられたという。
そして彼は、
10億円の収入を得ていたが、
しかし9億円を累進課税制度によって税金でとられ、
残りの一億円も、
彼くらいの大企業のトップとなると、
冠婚葬祭などの付き合いなどで、
自然と消えてしまったという。
こうした彼の生き様から見る限り、
松下氏の心には、愛があり、執着は薄かった。
では、ラクダが針の穴を通ることなど不可能なのだから、
金持ちであった松下氏は、
天の門をくぐれないのだろうか?
いや、そうではない。
金持ちになる人間の多くが、
金に執着している人々なのかもしれない。
松下氏のように、
世のため、人々のために役立とうと、
愛の心で努力していたら、
自然と富が山のように積まれていた、
という人は少ないことだろう。
つまりイエスの言葉を、
仏教的に説明し、
しかも私なりに解釈するならば、
次のようになることだろう。
「人が金持ちになるためには、
愛の心でも、執着心でも、どちらでも成れるが、
しかし『世のため、人のため』と口にして、
愛の心で富を得る者は少ない。
いや、それよりも、
『金、金、金』と口にして、
執着心で富を求める者こそ多いことだろう。
そしてそうした富に執着を続けている者は、
残念ながら天の門をくぐることはできない。
幼子のような汚れなき心を持ち、
愛によって、神仏や人々に尽くして、
自然に富を得た者だけが、
金持ちであろうとも天の門をくぐれる。
この地上の物質世界においては、
金を持たない奉仕する給仕と、
金持ちの奉仕を受ける主人では
主人が偉く、給仕が下の立場にいるものである。
しかし天上の精神世界においては、
奉仕する給仕こそが尊い」
性について話をしているわけだが、
あえて富をたとえに説明した。
このように一つの物事は、
人、時、場所によって、
善にも悪にもなりうる。
人を殺める行為は、
どんな状況下でも悪であると考えがちだが、
しかし独裁者が、
今にも核兵器のボタンを押そうとしていて、
仕方なしに人類を救うために引き金をひくことは、
やはり悪ではない。
前回でも述べたように、
残念ながら人間には必ず、
食欲、睡眠欲、性欲が備わっているのだ。
これは肉体を持っているがゆえの、
我々人間の一つの苦しみであり、
これを仏教では、
「五陰盛苦(ごおんじょうく)」
と言う。
だから子を授かるための
生殖を目的にしない性行為でなかったとしても、
性欲というものを、
ただ一途に否定し切って生きることなど、
我々人間には、悲しいことにできるわけもないのだ。
人間がもし「子を授かろう」と思う時にのみ、
性欲が掻き立てられる生き物であれば、
それは一見すると便利にも見えるが、
しかしそれはそれで、
とても人口を少なくさせていたことだろう。
いや、もしかしたら人類は、
戦争や災害や疫病などによって、
とっくに絶滅していたかもしれない。
最近では、
「できちゃった結婚」とは言わず、
子を授かったことが、
結婚への一つの機会になったということで、
「授かり結婚」と言うこともあるらしいが、
では「授かり結婚」によって結ばれた夫婦が、
本当に生殖を目的としていたかどうかは、疑問が残る。
そしてもし、
子を授かろうとせず、
生殖を目的をしない性行為が罪、悪であるならば、
生まれてきた子どもこそ可愛そうではないか。
あるいは、世の中には、
男性であろうと、女性であろうと、
子を産むことのできない方々というのもおられる。
では彼らは、
食事をし、睡眠と取り、
健康的な生活を送っていれば、
生理現象によって、
自然と性欲が沸くこともあるのに、
それを一生我慢し続けなければ悪であるのかと言えば、
そうではないはずだ。
ただしかし、
「子を授かる生殖を目的にしなくても、
性欲は人間の生理現象によって仕方がないのだから・・・」
と、それを言い訳にして
性の方向へ想いの針を向け続ければ、
やはりその心は間違いであり、
ここにこそ中道の難しさがあるのだと、
私は思う。
「仕方がない」と、
自分に言い訳を始めると、
我々人間は、どんな時でも、
いつしか堕落していき、
心を間違えていくものである。
だから、自分に言い訳はしないよう、
我々は気をつけねばならない。
このように、
子を授かることを目的にしなくとも、
それは決して悪ではないが、
しかし「仕方がない」と自分に言い訳して、
そうやって自分を甘やかしていくことは、
紛れも無く悪と言える。
つまり多少はストイックさは大切なのではないか。
また食欲、睡眠欲、性欲、
これは別個の存在では実はない。
肉や豆といった高タンパクな食事、
あるいは精力が栄えさせる食事、
こうしたものを知っておくことも大切だし、
睡眠もやはり性欲に様々な影響を及ぼす。
だから健康的で、
自分の環境に見合った食生活、睡眠が重要だと私は思う。
自分が選ぶ宗教に善悪があるのではない。
人、時、場によって善悪が移り変わる以上、
真理に善悪の秘密があり、
悟りが善悪を見抜くのである。
しかしユダヤ教においても、
キリスト教においても、
正しく真理を理解していないことがある。
あるいは、善悪というものは、
「これが善」「これは悪」と、
二元論的に峻別することができず、
人、時、場によって移り変わっていくにも関わらず、
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は、
善悪を二元論的に捉えている傾向が、
実はかなり強い。
それは
「師は弟子を見て教えを説く」
という仏教の言葉にもあるように、
人々を善に導いていくための一つの方便でもあった。
誰でも幼子に善悪を教える時、
「これはダメです」とか、
「親切にしてもらったらありがとうって言いなさい」と、
そのように善悪を、二元論的に教えるものだ。
幼子に対して、
「人、時、場によって善悪は移り変わるのだよ」
と、難しいことを教えれば、
必ず幼子は混乱することだろう。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の方々を、
幼子にたとえてしまうのは、
かなり彼らに失礼であるが、
しかし多くの人が文字も読めず、
字も書けない時代であれば、
善悪を二元論的に教えるのも、一つの方便なのだ。
だから冒頭でも述べたように、一つの物事を、
「罪か?罪ではないか?」
と考えるのではなく、
「己の心はどうであったか?
どちらに善がるか?」
ということを考えるべきである。
そしてだからこそ、
どうか真理を学び、
善悪を見抜いていく悟りの力を得て、
そして少しでも迷いの少ない、
幸せな人生を生き抜いていって頂きたい。
ちなみに決して意味不明な質問などではなく、
誰でも一度は悩むことかもしれないが、
あえて読み易いように、
質問の文章を書き換えたことを、
どうかお許し頂きたい。