キリスト教徒はイエスの教えを忠実に学ぶべき 後編 | 中国に侵略されている日本を護り抜け

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〈前編からの続き〉

さて「転生輪廻」が真理であり、
そしてイエスが「転生輪廻」を否定しているのではなくて、
むしろ肯定しているのであるならば、
キリスト教の歴史そのものが根底から覆されることになる。


なぜなら確かに、
現在のクリスチャンたちが読んでいる新約聖書には、
「転生輪廻」の明確な記述などどこにも無いからだ。


ではキリスト教徒たちが、
熱心に読んでいる、その新約聖書とは果たして何なのか?


これを追求してみる必要があるだろう。


「新約聖書」というものを、宗教に馴染みの無い方に、
凄く簡単に、そして大雑把に説明するとするならば、
ユダヤ教で使われていた聖書に、イエスの言葉が加わったもの、
と、考えれば分かり易いかもしれない。

だからもちろんイエスの言葉以外にも、
様々な文章が付け足されてはいるが、
しかしユダヤ教とキリスト教の教えは、
かなり似通った部分も確かにある。


そしてもちろんイエスの愛の教えが有るか無いかによって、
内容は大きく異なるので、違う部分もかなりあるが、
しかし新約聖書と旧約聖書は、
共通している部分も実はかなり多いのだ。


つまりユダヤ教徒とキリスト教徒の違いは、
すごく簡単に述べてしまうと、
「マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ」
といった「四福音書」と呼ばれるイエスの言葉が含まれているか、
それとも含まれていないかの違いと言っても、
実は過言ではないわけだ。


そして新約聖書のこの「イエスの言葉」というものが、
実は何よりも問題である。


なぜならイエスは直接自分で言葉を文字にして、
書き記した訳ではないからだ。


イエスが十字架に掛けられた後、
イエスの弟子たちは、
記憶していたイエスの言葉や行動を編集したのだが、
それが「福音書」であり、
ユダヤ教徒の旧約聖書に福音書が合わさることで、
新約聖書となったとも言えるだろう。


「福音書」とは、
ギリシャ語で「エヴァンゲリオン」と言い、
「善い知らせ」という意味だ。


科学の無い時代であるから、弟子たちが記憶違いをしたり、
イエスの教えを聞き逃したりして、
聖書に載せられることの無かったイエスの教えが存在していたとしても、
何ら不思議ではない。


「そんな事があるのか?」、
「二千年に渡って多くの人々が信じてきた聖なる書物に、
 果たしてそんな間違いなんてあるのか?」
と、誰もがそう考えることだろう。


しかし実は新約聖書の中に、
「弟子たちがイエスの言葉を聞き取り違えた証拠」、
もしくは「イエスの言葉を弟子達が聞き逃していた証拠」が、
明確にはっきりと記されている。


それはイエスの最期の言葉だ。


イエスは十字架に掛かり、絶命する最期の時に、
「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」
と叫んだと言われている。


すなわち「我が神、我が神、なぜ我を見捨て給いし」と、
十字架に掛ったイエスは叫んだのだと言われているのだ。


しかし実はイエスの最期の言葉を聞いて、
近くで聞いていた幾人かの人々は、
全く違う聞き取り方をしている。


新約聖書のマタイの福音書やマルコ福音書には、
それぞれこう書かれている。


「この人はエリヤを呼んでいるのだ」
「見ろ、彼はエリヤを呼んでいるぞ」と。


エリヤとは既に述べた様に、イエスの前の時代の預言者のことだ。
つまり近くでイエスの最期の言葉を聞いた人々は、
「エリヤよ、エリヤよ、死ぬ時が来たから、私を向かいに来なさい」
と、そう聞き取ったというのだ。


しかし弟子たちは、
「我が神、我が神、なぜ我を見捨て給いし」
と、まったく逆の言葉を聞き取っているわけだ。


このように、キリスト教徒たちが熱心に読んでいる聖書には、
確かにイエスの最期の言葉が、実は二通り書かれているのである。


それだけではない。
現在のクリスチャンたちが使っている新聖書には、
四つの福音書が載せられているが、
しかし聖書が編纂される時代には、
実はもっとたくさんの福音書が存在していて、
一説には「30以上の福音書があった」とも伝えられている。


イエスの死後300年くらいの月日が経ってから、
新約聖書が編集されることになったのだが、
当時の人々はどの福音書をキリスト教のものにすれば良いかは分からず、
とても悩み苦しんだ。


なぜならどれが本当にイエスの教えを忠実に受け継いでいる福音書であるのか、
そして誰がそれらの福音書を製作したのか、
300年の月日と共に、
それが既に把握し切れていなくなっていたからだ。


2000年代を生きている我々が1700年代の頃のことなど、
事細かには分からないように、
聖書が編纂される西暦300年代、
実はどれがイエスの教えであるのか分からなかったのだ。


しかも当時、絶大な力を誇っていたローマ帝国から、
キリスト教は禁止され、迫害を受けていた。


すでに述べたように、
キリスト教を捨てない人間は、女性や子供や老人を問わず、
拷問に掛けられて殺されていた。


彼らキリスト教徒たちは、
トラやライオンといった野獣と戦わされることもあれば、
鉄製で出来た燃え盛る椅子に座らされることもあり、
そうした拷問を見ることが、
当時のローマ人たちの娯楽の一つになっていたのである。


そうした緊迫した時代の中で、
キリスト教徒たちは地下組織的に隠れて活動していて、
そして新約聖書を編集したのだ。


こうしたローマ帝国による激しい迫害の中で、
イエスの死から300年後に生きる当時の人間の判断によって、
「ある福音書はキリスト教の教えであり、
 ある福音書は異端であってキリスト教の教えではない」
と、そう決められたわけだ。


そして一説によれば、方位が東西南北と「四つ」であったことから、
「30以上あった福音書が、たっと4つにまで絞られた」
と言われている。


だから現在、キリスト教徒たちが熱心に読んでいる聖書の中に、
イエスの考えがきちんと入っていない可能性は確かにあるのだ。


いや、もっとはっきりとした表現を使うのであるならば、
イエスが実は「転生輪廻」、つまり「生まれ変わり」を人々に教えていた可能性は、
十分過ぎるほどにあると言えるわけだ。


なぜなら現在、キリスト教徒たちが異端として認めていない福音書の中には、
「生まれ変わり」について書かれている福音書も、
確かに存在しているからであり、
そしてキリスト教の母体であるユダヤ教には、
『ギルガル』という生まれ変わりの教えがあり、
そして仏教でも『転生輪廻』は真理として説かれているからだ。


さて、アブラハムの兄弟宗教の中でも、
キリスト教はイスラム教とユダヤ教の中間に位置し、
そして世界でもっと多くの人々から知られている世界宗教と言えるかもしれない。


ユダヤ教徒がイスラム教徒だけ迫害して、
キリスト教徒を迫害しないのは、
決してユダヤ教徒たちがイエスを救世主として認めているのではなく、
「世界の世論」とも言えるキリスト教徒に、
ユダヤ教徒が太刀打ちできなから、
という見方もできることだろう。


しかし「キリスト教」というこの世界宗教が、
イエスの教えを実は正しく伝えてはおらず、
実はイエス教でなかったとしたら、
おそらく世界はひっくり返ることだろう。


そう、
「キリスト教はイエス教ではない」
これが明らかにされた時、
世界はひっくり返るのである。


それを踏まえて私は言っておく。


キリスト教徒たちは、
正統なイエスの言葉を学び、
真理を学習するべきである。