「自分が、自分が・・・」という執着の想いばかりで、
グルメ、ファッション、芸能、スポーツなど、
こうした自分が面白いこと、
自分にとって楽しいことに興味や関心はあっても、
天下国家のことを何も考えない無関心な日本国民、
こうした日本国民の心の退廃ぶりが、
中国共産党につけこまれて、
やがて日本は滅んでいくわけなのだから、
日本国民の心の革命が必要不可欠である、
ということを述べさせて頂いてきた。
では心の革命とは何かといえば、
それは仏教でいうところの「反省」であり、
あるいはキリスト教で言うところの「懺悔」、「悔い改め」に他ならない。
「想念」という言葉がある。
「想念」とは、読んで字のごとく「想い」のことであり、
「念(おも)い」のことである。
我々人間は、己の心より生み出される、
この想念というものを管理、支配していくところに、
人生勝利の鍵があると言えるのではないだろうか。
暴走する自動車のように、
想念というアクセルとハンドルを操作し間違えば、
人間関係を壊し、仕事には失敗し、財産を失うことにもなりかねない。
しかし安全運転する自動車のように、
想念というアクセルとハンドルをきちんと操作できれば、
人間関係は喜びに変わり、
仕事には個性と能力を発揮し、
財産を蓄積することもできる。
この想念というものを管理・支配していくことが、
幸せな人生を生き抜いていく上で、
とても大切であり、
そしてこの想念というものを管理・支配していくためには、
反省こそ最も有効であるわけだ。
近頃は、永遠の愛を誓いあったはずの二人が、
日々の生活の中で、夫婦仲に亀裂を生じさせて、
離婚してしまうことがとても増えているようだ。
「結婚する二組に一組の夫婦が離婚している」
ということも耳にするが、
もちろん様々な諸事情もあるだろうが、
しかし「夫婦が互いに想念のコントロールができておらず、
互いの心が暴走して、やがて口論になり、それが喧嘩へと発展し、
そしていつの日か心が離れ離れになっている」
ということも、たくさんあるだろう。
簡単に言ってしまえば、夫婦の互いの心が幼いために、
結婚しても離婚してしまう、ということが、
この日本のみならず、全世界にあるわけだ。
もっと厳密に言えば、
きちんと反省できていないために、
夫婦関係が壊れる、ということもあるわけだ。
ちなみに憎しみ、妬み、恐れといった暗い想念を持ち続けていると、
我々人間は肉体に病さえ誘発させてしまう。
実は健康な人であっても、
毎日100万個ほどのガン細胞が生まれている。
しかし「ナチュラルキラー細胞」という細胞が、
我々人間の肉体の中にはあり、
このNK細胞は、独自に体内をパトロールしていて、
ガン細胞やウイルス感染細胞などを発見すると、
たとえ脳からの攻撃指令がなくても自然に戦闘態勢に入り、
強大なパワーで敵を殺してくれるのだ。
この細胞は特に、抗腫瘍効果には抜群の威力を発揮する。
だから、たとえ毎日100万個ほどのガン細胞が、
我々の体内で生み出されても、
この細胞が正常に働いていれさえすれば、
すぐにやっつけられてガンになることはないのだ。
しかし年老いると共に、このナチュラルキラー細胞のパワーも衰えていく。
つまり高齢になればなるほど、
ガンの発生率、生活習慣病にかかる割合が高くなるのは、
このナチュラルキラー細胞の衰えに関係があるわけだ。
すなわち、NK細胞が我々人間の健康の大きな鍵を握っているのである。
このNK細胞は発見されてまだ月日が浅いために、
未だ多くの謎が残されているが、
しかし現代の激しい競争社会、
あるいはストレス社会においては、
難しいことかもしれないが、
暗い想念に支配されることなく、
心を明るく伸びやかにサッパリとして生きることが、
NK細胞を活性化させて、肉体を健康にさせていくことが分かっている。
たとえば、一匹のマウスは「安らぎ」のある穏やかな環境で過ごさせて、
もう一匹のマウスは「安らぎ」のない重苦しい、
暗い想念が生まれ易い環境で過ごさせる実験を行うと、
明らかに「安らぎ」のある環境にいるマウスの方が、
ガンの発生率は低くく、健康でいられる。
宗教家が祈りや瞑想において出している脳波を、
「アルファー派」と言うが、
そうした暗い想念から遠い、安らぎある状態こそが、
人間の健康において、とても大切なのだ。
現実に、激しい競争社会の中で必死に闘ってきたサラリーマンが、
医者からガンで、余命幾年と宣告されたので、
残りの人生は好きなことをやろうと決意して、
定年を待たずに会社を退職して、
自分の思い出の地に旅行に赴いたり、
好きなことをやって「安らぎ」ある穏やかな生活を繰り返しているうちに、
知らぬ間にガンが、跡形もなく直っていたという事例さえもある。
この様に、憎しみ、妬み、恐れといった
暗い想念に心を支配されるということは、
結果的には、
我々人間にとってとても大切な「健康」というものを手放すことにもなりかねないのだ。
もちろん、ガンなどの病にかかる人が、
いつも「暗い壮年」をため込んでいるというわけではない。
心安らかに毎日を生きている人であろうとも、
先天性のことや、その他のことが原因で、
ガンなどの病にかかることなどいくらでもあるからだ。
しかし、暗い想念とは遠い「安らぎの心」が、
NK細胞を活性化させるのに対して、
「憎くしみ」とか、「妬み」とか、「恐れ」とか、
もしくは「自己卑下的な心」であるとか、
こうした「暗い想念」がNK細胞を弱体化させることは事実だ。
この様に「想念」とは、
結婚、仕事、人間関係など人生の大きな鍵を握っているばかりか、
我々人間の「健康」さえ奪い去る可能性があり、
この想念というものを管理・支配していくために、
反省というものが大切なのである。
しかしこの反省にも、実は「自我の目」から見た反省と、
「神仏の目」から見た反省の二種類がある。
言葉を変えれば、
偽物の反省と本物の反省の二種類があるとも言えるだろう。
つまり我々人間は、神仏の目に立って己の心を見つめ、
そして己の心の過ちを反省して、
人間として成長していくこともできれば、
我々人間は、自我の目に立っての己の心を見つめ、
自分にとって都合の良い反省ばかり行って、
そして反省を行っている気分に酔いしれて、
己の心の過ちを、そのまま放置し続けていることもあるわけだ。
しかし「過去はすでに過ぎ去れども、心の過ちは残るなり」と、
仏の教えにもあるように、自我の目に立った偽者の反省は、
無意味であり、無価値であると、そう言えるだろう。
この想念というものを大きく分けると、
主に「喜」・「怒」・「哀」・「楽」の四つになるが、
これらの四つは共に、
前なる想念と悪なる想念の2パターンに分けることもできる。
たとえば「喜び」という感情は、
天国にも溢れているし、
真理に則った幸福な人生を生きている人にも喜びは溢れている。
しかし「喜び」も度を過ぎれば、
「躁鬱(そううつ)」の躁にもなり、
また喜び過ぎて調子に乗れば、
言葉や行動でもって他の人々を傷つけかねず、
人間関係を壊しかねない。
あるいはピエロのように度を越えた喜びは、
浮き足立って足元をすくわれて失敗を犯しかねない。
喜びにも善なるものと、悪なるものがあるのだ。
「怒り」は、
私憤という名の己ためだけの間違った怒りもあれば、
公憤という名の天下国家の間違いに対する正当な怒りもある。
つまりギリシャ神話のゼウスという神が、
石造として描かれると、よくその手に槍のような雷を握り締めているように、
怒りという想念にも、
悪の怒りもあれば、
悪の増長を食い止める正義の怒りというものも確かにあるわけだ。
しかしたとえ相手の側に悪があり、
自分の側に正義がある正しい怒りであっても、
その怒りが度が過ぎれば、
そこに憎しみが紛れ込み、
ミイラ取りがミイラになるように、
いつしか正義の怒りが悪の怒りに変わり、
自分の心が間違っていることもあり、
そしてその事実に気づけないことなどたくさんある。
すなわち最初は、自分が正義の側に立っていたのだが、
いつしか怒りに支配されて、悪の側に立っていることさえあるわけだ。
そして書いている心幼い私自身、
何とも恥ずかしいことだが、
悪の怒りを持ち出しているにも関わらず、
「これは正当な怒りであり、正しい怒りである」と、
自分に言い訳していることなど、山のようにあると言えるだろう。
またやはり、「哀しみ」という想念も、
善なるもと、悪なるものの二種類があると言えるだろう。
人生には様々な哀しみが訪れるために、
愛する人と別れたり、
学校や職場で嫌な人にイジメられたこともあるだろう。
だから仕方のない哀しみもあるだろう。
しかし自分一人だけが、毎日、喪服を着ている心境となり、
悲劇の主人公となっていて、
どうして幸せな人生を生き抜き、そして周囲の人々を幸せにし、
さらにはより多くの人々を幸せにすることができるというのだろうか。
厳しい言葉となるが、それを承知であえて言うならば、
もしも不当な批判を投げかけられて、
その不当な批判に己の心が耐えられないのなら、
それは己の弱さに他ならない。
隣の国、韓国では、
芸能人がインターネットに悪口、誹謗中傷を書き込まれて、
そしてその書き込みを、わざわざその芸能人が読んで、
そして「哀しみ」という暗い想念に心を支配されて、
自殺してしまうというケースが多発しているようだ。
この「哀しみ」という想念こそ、本当は恐ろしい。
こんな話がある。
悪魔が店じまいをしようと、
これまで使ってきた自分の道具を、売りに出したそうだ。
その道具の中で、ひときわ使い込まれていて、
そして高い値段がついていた道具があったという。
悪魔にその道具について訊ねると、悪魔はこう言ったそうだ。
「これは絶望ってやつです。
人間の心に、この絶望ってやつが入りこめば、
あとは何でも入り、人間を支配することができるんですよ」と。
人生という旅路には、いたるところに哀しみの出来事が待ち受けている。
しかしながら哀しに心を完全に支配され、絶望まで到達してしまった時、
その人間に待ち受けているのは、さらなる哀しみでしかない。
友人が自殺し、そして友のその死を哀しんでいるうちに、
その本人も自殺してしまうという、自殺の連鎖さえ時には起こるが、
それは哀しみに心を完全に支配され、
悪魔に人生を奪われていると言えるだろう。
また最後の楽しみという想念も、善なるものと、悪なるものの二種類がある。
人生には、多くの楽しみがある。
愛を誰かに与える楽しみ。
愛を誰かに与えられる楽しみ。
己の知識や智恵を磨く楽しみ。
そしてその自分の知識や智恵を、使いこなせる楽しみ。
もしくは反省することによって、
ジメジメと暗く落ち込んでいた心が、明るくさっぱりとなり、
安らぎを取り戻すという楽しみもある。
あるいは己自身が成長して、発展していく楽しみもあれば、
自分が貢献している仕事や事業が発展していく楽しみもあれば、
世界が平和に向かって発展していくという楽しみもあると言えるだろう。
こうした愛、知、反省、発展といった精神的な楽しみが、
確かに我々人間にはあるが、
その一方で、肉体的、享楽的な楽しみというものある。
それは酒、性快楽、賭博といった楽しみ、
あるいは最近ではゲームも脳の楽しみの一つだ。
人生には様々な苦難困難が訪れるばかりか、
我々人間は、それらを乗り越え、
さらには己の夢を現実のものにしていくために、
日々の努力と苦労が必要不可欠である。
ならば人生には、花を見るゆとりも大切だろう。
人生という旅路は、苦難困難の連続であり、
努力苦労の連続なのだから、
時には休息し、花を見ることも良いだろう。
しかしイソップ童話の「アリとキリギリス」に出てくるキリギリスのように、
額に汗することを忘れて、歌ばかり歌って、
努力と苦労を忘れて楽しみばかりに心を向けて、
快楽的な人生を生き抜いれば、
苦難と困難に押し潰されそうになってしまうことも十分に考えられる。
このように「喜怒哀楽」という想念の全てが、
善なるものと、悪なるものの二種類に分けることができると言えるわけであり、
我々人間は悪なる想念を反省によって捨て去り、
善なる想念のみを選び取っていくことで、
自分自身が幸せになるばかりか、
他の人々をも幸せにしていくと言えるだろう。
そして反省には、
神仏の目から見た本物の反省と、
自我の目から見た偽物の反省があると述べたが、
自分の心から次々と生みだされていく想念というものが、
善なのか、悪なのか、
それを見抜き、見極めることが、
我々には重要なのである。
これを仏教では、八正道という反省の中で、
「正しく見る」という意味から、
「正見(しょうけん)」と呼び、
その次に「正しい想い(想念)の支配・管理」という意味から、
「正思(しょうし)」がある。
「正見」あっての想念の管理と支配、「正思」なのである。
そしてこの「正思」という想念の管理と支配が行えてこそ、
「正しい言葉」という意味の「正語」、
「正しい行動」という意味の「正業」へと、
八正道は続いていくのである。
近頃は、離婚する夫婦が増えていて、
それには想念の管理・支配にも原因があると述べたが、
言葉によって、行動によって、
夫婦が互いの心を傷つけ合っていれば、
心が離れていくことなど当然と言えば当然であり、
その根本の原因は、
「正しい目でもって自分の心を見つめていない」
ということにあるのではないか。
さて、
「日本国民一人一人が、己の心を革命することで、
中国共産党の脅威を打ち破ることができるわけだが、
そのためには日本国民一人一人が、
己の心を反省する必要があり、
そして日本国民が偽物の反省ではなく、
真実の反省を行って、
己の想念をきちんと管理・支配し、
そして幸せな人生を生き抜いていくためには、
神仏の目を持つ努力が必要不可欠である」
と、そう言えるだろう。
大和心、大和魂によって築き上げられてきたこの国であるが、
しかし冒頭でも述べたように、
これらの大和の精神は、まぎれもなくその根底に、
神仏に対する信仰というものがある。
すなわち、天皇陛下という存在が、
まぎれもなく日本神道の最高神主であられるように、
かつて「大和」と呼ばれたこの国は、
まぎれもなく神仏に対する信仰を基に築き上げられてきたのだ。
しかし現代の日本国民は、
神仏に対する信仰というものを失い、
まるで自分たちが神仏のようなツラをぶらさげて、
傲慢に生きている。
ならば現代の日本国民は、今こそ悔い改めて、
神仏に対する信仰を取り戻し、
そして神仏の目に立って己の心を見つめ、
心より次々に生み出されている想念を、
きちんと管理・支配していく必要があると、
そう言えるだろう。
滅びの危機を迎えているこの国に、
失われた大和魂を蘇らせるためにも、
紛れもなく日本国民の心の革命が必要不可欠であるが、
しかしその心の革命とは、
己が神仏のような傲慢な顔をすることをやめて、
謙虚さを取り戻し、
神仏に対する信仰を取り戻すことに他ならないのだ。
「自分が、自分が・・・」という執着の想いばかりで、
グルメ、ファッション、芸能、スポーツなど、
こうした自分が面白いこと、
自分にとって楽しいことに興味や関心はあっても、
天下国家のことを何も考えない無関心な日本国民、
こうした日本国民の心の退廃ぶりが、
中国共産党につけこまれて、
やがて日本は滅んでいくのだから、
日本最大の国難の今、
我ら日本国民には、
やはり「悔い改め」という名の心の革命が必要不可欠である。
今から二千年前、洗礼者ヨハネも言ったではないか、
「汝ら悔い改めよ、神の国は近づけり」と。
そして当時のイスラエルの民は、
ヨハネの言葉に耳を傾けず、
悔い改めなかったために、
イスラエルという国は滅んでしまったではないか。
この大和の国も、
かつてのイスラエルと同様に、
今、民が悔い改めねば、必ず滅びにいたる。
いつの時代も、滅びにいたる門は広く、命への門は狭いのだ。
ならば私も勇気をもって言いたい。
日本国民よ、汝ら悔い改めよ。
そして大和魂を蘇らせよ。
さすればこの国は護られ、必ずやさらに発展繁栄していくことだろう。