神秘哲学が大和魂を蘇らせ、日本を護り、そしてさらに築き上げていく | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

世界は我々日本人が考えているほど、平和ではない。


人類はわずか約160年前まで、
同じ人間を「肌が黒い」という理由で奴隷として働かさせていた。


わずか約110年前には、外国にアヘンを売りつけて、
そしてアヘン中毒者を大勢ださせて、相手の国がアヘンを処分すると、
これに逆切れして戦争を開始して領土を奪い取った。


わずか約70年前には、二発の核兵器を落とすことで、
民間人を問わず数十万もの人間を虐殺した。


わずか20年前までは、ベルリンの壁を境にして世界は、
自由主義国と社会主義国とに分かれて、
血を血で洗う戦争を繰り返してきた。


そしてほんの十年前には、
世界貿易センタービルに二発の旅客機が突っ込み、
今もなお世界各国は互いに核兵器を向け合ったり、
あるいはその開発に余念が無い。


確かに、少しずつ、少しずつ、
世界は進歩しているようだが、
しかし悲しいことに、
我々日本人が、どんなに平和を愛し、戦争を憎み、軍事力を忌み嫌おうとも、
世界各国は未だに軍事力を背景にして、外交のカードを切り合っている。


かつての日本の外務大臣であった、陸奥宗光という方が言ったように、
どんなに正しい正論に則った外交であっても、
その背景に軍事力が無ければ世界には通じない、
この醜い現実がこの地球にはまだ残っているのだ。


だからこそアイザック・ゴールドバーグというアメリカの評論家は、
「最も醜いことを最も美しく見せて行う、これが外交である」
と言ったのだ。


これが世界の悲しくも醜い現実である。


いつの日か、世界からこの悲しくも醜い現実が無くなり、
正論に則った外交であれば、
たとえその国が何ら軍事力を持たなくとも、
世界各国に通じる時代が訪れることを、誰もが夢見るだろう。


しかし確かに世界はまだ完全に美しいと言い切れないのだ。


それは貧困によって、たった一欠けらのパンが無いために、
飢えて死んでいく赤ん坊が後をたえないというのに、
それでも世界各国が莫大なお金を軍事力に費やしている現実を見れば、
誰にでもご理解頂けるはずだ。


つまり我々が、「地球」と名づけて呼んでいるこの青くて美しい星は、
未だに力によって動いている、という悲しくも寂しい現実がまだあるわけであり、
表向きは優しい外交を行いながらも、
本心では恐ろしいことを考えていることさえ、現実にあるわけだ。


極めて真実を言うが、
世界は未だに、武力による侵略戦争ではなく、
武力を背景にした情報による侵略戦争を、
確かに行っているのであり、
この日本は今、確実に中国共産党から情報による侵略戦争を仕掛けられて、
そしてシロアリが大木を滅ぼすように、
今、日本は少しずつ、少しずつ滅びつつある。


では国家を他国の侵略から護るために立ち上がり、
そして闘う者を果てして何と呼ぶのだろうか?


すでに「宗教編」で述べたが、
かつて吉田松陰という方は、日本が外国に侵略される危機の時、
黙って座してはいられず倒幕のために立ち上がり、
そして幕府から処刑されることになったが、
処刑される前に彼は、辞世の句として次のように詠んでいる。


「身はたとえ 武蔵野の野辺に
     朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」
と。


つまり
「私の肉体はたたとえ関東の地で滅び去ろうとも、
 しかし私の大和魂だけは、決して滅び去ることはない」
と、そう吉田松陰は述べたわけである。


まさしく優しく勇ましい辞世の句であり、
この言葉こそ、
大和魂を表現していると言えるだろうが、
その吉田松陰に対して、弟子である高杉晋作は、
「男子とはいかなる時に死ぬべきであるのか」と、
そう吉田松陰に問うたことがあり、
そして吉田松陰はこう答えた。


「死して不朽(ふきゅう)の見込みあらばいつでも死すべし。
 生きて大業(たいぎょう)の見込みあらばいつまでも生くべし」と。


つまりは男子というものは、
いつ死ぬかを問題にするのではなく、
公のためにいつでも死ねる覚悟を決めて、
大業を為(な)す努力を全力で行って生きろと、
そう吉田松陰は教えたわけである。


しかしこうした優しく勇ましい大和魂を持っている日本国民は、
今はもうほとんどいない。


いや、それどころか多くの日本男子が、
「死ぬのだけは、まっぴらゴメンだ」、
「自分が面白おかしければ、あとはどうでも良い」、
「国のことなんて知ったことではない」
などと、
国が自分たちの人生の土台となっていることを忘れて、
そしてそんな軟弱で情けないことを考えているのかもしれない。


しかし日本を護り、
日本をさらに築き上げる使命を持っている日本男子が、
そんな軟弱なことで、
この国が護られるはずもない。


すでに、
「生命の真実を知ることは、
 心の大切さを知ることであり、
 人は心の大切を知っていくことによって、
 己の心との真剣勝負が始まって、
 やがて修身が生み出される。
 そして現代の日本男児に求められている修身とは、
 つまり善なる生き方とは、
 大和魂を持って立ち上がることである」
と、そう述べさせて頂いた。


ならばこの日本という国を、
なんとしてでも護り抜くために、
つまりは大和魂を蘇らせるために、
あくまでも心幼い私に許されている範囲の中で、
出来る限り、「生命の真実」を語って生きたいと思う。


吉田松陰を始めとするかつての日本男児が、
現代の日本男児に比べて、
優しく勇ましかった理由、
それはかつての日本男児は、
神道を始めとする宗教との関わりがあったために、
「生命の真実」を少しは知っていたことで、
「死を恐れていなかった」ということも理由の一つだろう。


しかし日本国民は宗教に触れる機会が無くなった。


しかも科学が中途半端に発達して、
一部の科学者たちが「自分は何でも知っている」と自惚れて、
霊の存在を否定しているために、
多くの日本男児が「生命の真実」を知らず、
「死こそ全ての終わり」と考えて、死を何よりも恐れている。


そのために、
「死して不朽(ふきゅう)の見込みあらばいつでも死すべし。
 生きて大業(たいぎょう)の見込みあらばいつまでも生くべし」
と、もしもこう語れる男子がいるならば、
その者はとても稀有な存在と言えるだろう。


つまりかつての日本男児と、
現代の日本男児との違い、
それは「生命の真実」について、
「知っている者」と「知らない者」との違いである。


人間は本能の中には、
知らない事柄に対して、恐怖する性質を備え持っているために、
その「知らない」ということが、
死に対する恐怖心を生み出していると言えるだろう。


ならばこそ、この国に生きる男子たちは、
一刻も早く、「生命の真実」を知り、
この国を護り、そしてさらに築き上げていくべきである。


「科学編」では、
科学的、論理的に霊魂の存在について考えてきたが、
実は霊の存在を裏付ける証人が、世界中にたくさんいるのだ。


それは世界中に散らばる前世を記憶している子供たちである。


実は世界には、その汚れの無い純粋な心に任せて、
前世を語る子供たちがたくさんいる。


しかもその証言の内容は子供だからといって、
決して無視することのできない内容だ。


そうした不思議な子供達には幾つの共通点があり、
彼らは汚れを知らない幼い頃は、
前世と思われる不思議なことを語るのだが、


大人に成ると全てを忘れてしまう。


霊に関する研究を進めている人からすると、
実は全ての人間が、
心の表面意識の奥に隠された潜在意識の中では、
自分の過去の人生を記憶しているのだという。


そして心の潜在意識の中にある過去の自分の人生の記憶が、
今回の人生に、
何らかの形で必ず影響を及ぼしているというのだ。


だから催眠術などによって、
表面意識を眠らせて、
心の潜在意識だけを目覚めさせると、
多くの人がかなり高い確率で、
自分の過去世を語りだすという。


催眠術というものは、
我々人間の目や耳や鼻といった五感などの表面意識を眠らせることで、
その下に覆い隠されている
潜在意識を目覚めさせることができる。


だから催眠術とは、
決して怪しい魔術や妖術などの類いではなく、
実は科学的実証に裏付けられているものである。


そのために催眠術に携わる方々の中には、
「催眠術はれっきとした科学であるので、
 人々から魔術や妖術のような迷信と混同されてしまうので、
 『術』という不可思議な言葉を付けないでもらいたい」
と主張する人もいるくらいである。


すなわち
「催眠術とは、一つの科学技術であり、
 人間の眠っている記憶を呼び覚ます効果をも持っている」
と、そう表現することもできるわけだ。


たとえば現在のアメリカに、
ブライアン・L・ワイスという精神科医がいらっしゃる。


その方は自分の患者に対して、催眠術を掛けることによって、
患者の心の中にあるトラウマを取り除くという治療を行っていた。


いわゆる催眠療法と呼ばれるものだ。


たとえば精神を病んだ患者に対して、
退行催眠という催眠術を掛けて、患者に様々な質問をすると、
患者自身が忘れていた過去の記憶を語り出すというものである。


そうして患者自身が、
記憶の奥底にあるトラウマの原因となった事件を思い出すことによって、
トラウマを取り除くという治療法を、その医者は行っていた。


解り易く例をあげるとするならば、
たとえば原因不明の高所恐怖症の患者が、
出産直後に看護婦さんが手を滑らせて、
床に落ちてしまった記憶を取り戻すことで、
高所恐怖症が直るというようなものだ。


あるいは水をあまりにも恐怖する人が、
産まれたばかりの頃に、
洗面器の中で自分が溺れていた記憶を、
退行催眠によって取り戻すことによって、
水を恐怖しなくなり、普通の生活を取り戻すというようなものだ。


そういった催眠術による精神治療は、
実はアメリカなどでは既に盛んに行なわれているらしく、
そうやって幾人もの心の傷を癒している内に、
ブライアン・L・ワイスというその医者は、
不思議な体験をすることになる。


心に傷を負い、普通に生活することさえも苦しそうなある女性患者に対して、
彼は催眠治療を行って、彼女の心の傷の原因を探ってみたところ、
その女性患者だけはなかなか原因となる事件を思い出せず、話すことができなかった。


そこで彼は、
普段ならば「十歳まで戻ってみて下さい」とか、
「では五歳まで記憶を遡って下さい」とか、
「生まれた時の事を思い出して下さい」とか、
そのように年齢の限定をして患者の記憶を蘇らせるのだが、
なかなかその女性患者が心の傷と成った記憶を取り戻さないので、
ついつい年齢の限定をせずに、
「では貴方の心の傷を造った時まで遡って下さい」と言ってしまったのだそうだ。


するとどうだろう。


催眠状態のその女性患者は、
自分が生まれて来る前の時代の話を、幾つも語り出した。


十八世紀のスペインの話、
三千数百年前のギリシャの話、
四千年前の中近東の話など、
本人が全く知らないはずの話を彼女はいくつも話し始めた。


催眠状態の中で、
その患者は今とは全く別の名前を語り、
時には性別まで異なり、顔や髪や服装、
そしてその土地の風土や文化などについても詳しく語り始めた。


そして大きな津波に襲われて、抱いていた赤ん坊を波にさらわれ、
自分も死んだことなどをも事細かに話した。
さらにその女性は、「自分は八十六回の生まれ変わりをしている」とも語った。


誰よりも驚いて、一番信じることのできなかったのは、
退行催眠を行ったブライアン・L・ワイス本人だった。


なぜならその女性患者は、
アルコールや薬物を一切やっておらず、精神分裂病でもなく、
またそうした「生命の真実」に対して、何らの知識が無い人であったからである。


いやむしろその女性は、「生まれ変わり」を信じていなかった。


しかし不思議なことに、そうした過去の人生を思い出すことによって、
その女性患者の心の傷は、どんどん癒えて良く成っていった。


そして遂には明るい日常生活を彼女は取り戻したのだ。


すなわち彼女の心の傷は、現在の人生、現世で受けたものではなく、
過去の人生、過去世で受けた傷であったわけである。


言葉を変えれば、彼女の心の傷は、
潜在意識の深い部分にあった、ということである。


「一人の女性が催眠状態の中で自分の過去の人生を語り、そして心を癒した」
という、こうした事件を受けて、
ブライアン・L・ワイスは、
他の人々にも同じ様に退行催眠を掛けてみた。


すると彼女と同様に、過去世の話を始める人がたくさん現れた。


ワイス氏は
「人は心だけを唯一の持ち物に何度も生まれ変わりを繰り返している」
という真理に出会い、
とても驚き、そしてとても動揺した。


なぜなら彼自身が、
実は仏教で言うところの転生輪廻(てんしょうりんね)、
つまり「生まれ変わり」というものを全く信じていなかったからである。


実は人間が催眠状態になった時の脳波を測ると、
「アルファー波」という脳波を出していると言われている。


このアルファー波というのは、
人間の精神にとって、とても良い影響を及ぼし、
仏教の僧侶が瞑想中に出す脳波とも言われている。


近頃では、ボケ防止のために、
ビジネスにも適応されているようだ。


そして実は子供と大人では、
脳波が異なっていて、
大人の脳波がベータ波という脳波が優位なのに対して、
子供の脳波はこのアルファー波が優位あのである。


つまり子供は、我々大人が催眠状態にいるような、
そうした感覚に近い状態で普段から生きている、
ということが言えるわけだ。


そのために実は世界には、
潜在意識に隠された
過去の人生の記憶を語る子どもがたくさんいる。


そして彼らは、
言葉がやっと話せるくらいの幼子であるにも関わらず、
時に大人でも知らないような、
そんな難しい知識を語ることすらある。


たとえば、
インドのカンバ村に生まれたある少女は、
1歳半の頃から前世の記憶を語り出した。


そして彼女は父親に、
「バトバラ村へ連れて行ってくれ」と頼むのだ。


バトバラ村はカンパ村から
180キロも離れた所にあるのだが、
彼女の話す内容を調べてみたところ、
その語る内容は数年前に死亡した、
バトバラ村のある男性の妻に関わるものであることが分かった。


もちろんその少女が、
どうしてその男性の妻について、
詳しく知っていたのか現代の科学には分からない。


そして彼女が5歳の時、
遂にバトバラ村へ行くことになった。


彼女はバスを降りると、
初めて歩く村であるにも関わらず、
何の迷いもなくその男性の家までたどり着いた。


そこで彼女は多くの人と出会い、
彼女がその男性の妻の生まれ変わりであることは、
もはや誰も否定できなくなった。


夫であったその男性も、
彼女がかつての妻であることを確信して、
中年男と6歳の少女によって、
まるで夫婦であるような不思議な光景が作られたという。


その後、彼女は度々、
その男性のもとを訪れたそうだが、
やがて彼女も、表面意識がしっかりしてきたためか、
潜在意識の記憶を思い出せなくなり、
その男性のもとを訪れることは無くなったそうだ。


その他にも、
例えばある女性は、
5、6歳の頃、習ったことのない歌と踊りを、
両親の前で披露して驚かせた。


その少女の歌の言葉を詳しく調べてみると、
別の土地の言葉であったのだ。


この様に世界には、
汚れの無い純粋な心にまかせて、
表面意識の奥に隠された潜在意識の中に眠っている、
前世の記憶を語る子供がたくさんいるのだ。


イアン・スティーヴンソン博士は、
そうした子どもたちの証言を集めて、
「前世を記憶する子供達」という本を書いた。


その子どもたちの証言によると、
生まれながらに身体のどこかにアザを持っている場合、
過去世において、
同じ箇所に何らかの怪我を負っていたそうだ。


ちなみに私の妻も、
生まれつき右腕にアザがあるが、
しかし現代の科学は、
生まれつきのアザについて何も説明できない。


この程度の内容だけでは納得できないだろうが、
しかし
「人は死ぬようで本当は死なず、
 肉体が滅んでも魂だけは生き残る」、
この転生輪廻(てんしょうりんね)という名の
「生命の真実」を少しでも知っている者だからこそ、
「身はたとえ 武蔵野の野辺に 
 朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」
と、そう胸を張って言えるわけである。


生命の真実に対して何らかの知識を持つ者だからこそ、
「死して不朽(ふきゅう)の見込みあらばいつでも死すべし。
 生きて大業(たいぎょう)の見込みあらばいつまでも生くべし」
と、そう言い切ることができるのだ。


口先だけで「自分は死を覚悟している」とカッコつけて言っても、
しかし霊を知らずして、
生命の真実を知らずして、
どうして死の恐怖を克服することができようか。


己の死をしっかりと受け止めて享受するためには、
やはり死の恐怖を克服しなければならず、
そして死の恐怖を克服した者だからこそ、
吉田松陰の辞世の句を、
自分の心として生き、大和魂を持つことができる。


つまり本当に勇気がある者というのは、
粋がりやカッコつけによって、
死に対する恐怖心を他の人々に気づかれないように、
ただ強がって誤魔化すのではなく、
生命の真実を学び、そして知り、悟っている者に他ならない。


そして始めに述べたように、
世界は未だに軍事力によって動いている、
という悲しくも醜い現実があり、
日本は今、中国共産党から情報戦争を仕掛けられて、
滅びつつある。


そうしたことを踏まえて、もう一度訊ねるが、
自分が生まれた国家を他国の侵略から護るために闘う者を、
果たして何と呼ぶのだろうか?


やはり志士とか、あるいは戦士と呼ぶのが、最も相応しいのではないか?


では国を護ろうと立ち上がったその志士や戦士が、
「転生輪廻」という「生命の真実」を何も知らず、
「死んだら終わり」などと考えていたら、
それで勇ましく戦って国を護れるわけがない。


しかし時代は今、
「霊など存在しない」、「死んだら全てが終わりである」などと、
そうしたくだらない唯物的な価値観の方が遥かに強い。


だからこそ私は、
こうした過去に起こった神秘の事件、
あるいは真実と思われる神秘の出来事を、
哲学的に組み合わせて言葉を並べているのである。


私はこれを「神秘哲学」という全く新たな哲学であると考えているが、
この「神秘哲学」こそが、
この国に大和魂を蘇らせて護るばかりか、
さらにこの国を、
より発展繁栄させていくことができるだろう。


日本最大の国難 の今、
日本男児が勇気を持って立ち上がることが求められているが、
それはつまり日本男児が、
「生命の真実」を知り、
優しく勇ましく、天下国家のために生きていくことが、
最も求められているわけであり、
そしてこの唯物的価値観の強い今、
この国の大多数の人々に求められているのは、神秘哲学である。


人は死ぬようで本当は死なず、
肉体が滅んでも魂だけは生き残る以上、
我々の己の魂との対決は果てしなく続く、
その事実を神秘哲学でもって語っていきたい。