人類は科学を発展させて月にまで行ったが、
では月に行くことが果たしてどれだけ凄いことなのか、
それを我々は考えてみるべきだ。
たとえば地球は太陽の周りを365日かけて回っているが、
実は太陽も約二億年の月日をかけて銀河系の中を回っている。
そして太陽のように光り輝く恒星(こうせい)と呼ばれる星は、
銀河系の中に二千億個以上在ると言われている。
この銀河というものがどれだけ大きいかと言えば、
もしも我々が生きているこの地球を、
一ミリ以下の米粒の大きさにまで縮めてみたとしよう。
すると
太陽も野球ボールくらいの大きさにまで小さくなってしまうというのに、
それでも銀河系の大きさは、
まだ直径一億キロ以上もある。
地球を米粒以下、
太陽を野球ボールにまで小さくしても、
それでもまだ、
銀河系の大きさは直径1億以上キロもあるわけだ。
現実の銀河系の大きさは、
横の大きさが約10万光年、
縦の大きさは約1万5千光年であり、
渦巻状の円盤のような形をしている。
光年とは、
「光の速さ(秒速30万キロ)で進んでも一年かかる距離」
ということであり、
「年」という言葉で言い現されているが、
時間の単位ではなく、
メートルやキロと同様に距離の単位のことだ。
つまり光というものは矢のように、
あるいはホースから飛び出す水のように、
とんでもない速さで突き進んでいるわけだが、
その速さのことを「光速」と言うのである。
ちなみに一光年は9兆460億キロですので、
銀河系の直径の大きさはこれの10万倍ということだ。
銀河が巨大な円盤のような形をしていて、
それを地球に住む我々は真横から見ているために、
星々が川を造っているように見えるわけだ。
我々の住む銀河系から一番近い銀河を、
「アンドロメダ銀河」と呼ぶが、
地球から230万光年も離れている。
光の速さで進んでも230万年掛かってしまう、
遠い所にあるために、
今私たちの目に飛び込んでくるアンドロメダ星雲の光は、
230万年前に放たれた光だ。
だから何億光年という遠い位置にある銀河にいたっては、
何億年前に放たれた光であるために、
もしかしたら既に消滅している可能性さえあるわけだ。
そして我々がいる銀河系やアンドロメダ銀河といった、
そんな大きな星雲さえも、
この大宇宙には、
少なくとも約一千万個はあると言われている。
そして一つ一つの銀河が鎖状に連なって、
まるで泡のような形の群れを作っているのだ。
これをボイドと呼ぶが、
つまり我々人間から見れば大きな大きな銀河でさえも、
実は大宇宙から見れば、
小さな小さな泡を作っている一つの粒にしか過ぎない、
ということだ。
月は地球の周りを回ることで、
宇宙の彼方(かなた)に飛び出していこうという遠心力が働いているが、
しかし地球の持つ引力によって、
上手くバランスが取れている。
そのために我々は月を見ることができるのだ。
もしも遠心力と引力のバランスが取れていなければ、
月はどこかに行ってしまうか、
あるいは地球に落っこちていくかもしれない。
そして月が持っている引力によって、
海の干潮や満潮に影響を与えているが、
その他にも女性の生理やサンゴの産卵、
交通事故の多発、
あるいは犯罪事件など、
地球上の多くの生命に、
月は何らかの影響を与えていると言われている。
満月の日は事故や事件が多いことは、
科学的な証明が無くとも、
すでにデーターの事実としては明らかなのだから、
テレビやラジオの天気予報などで、
「今日は満月なので、少し気を引き締めましょう」
とアドバイスしたらどうかと、
私は昔から常々、思っている。
そして月は、
自らもコマのようにクルクルと回って自転しながら、
地球の周りを回って公転もしているが、
実はこの自転と公転は同時だ。
そのために月は常に地球に一面だけを向け続けて、
決してその裏側を地球にいる我々に見せることがない。
もしも自転と公転の間にズレがあれば、
やがていつかは月も、
その裏側を我々に見せるのだが、
しかし自転と公転が同時であるために、
月は常に一面しか地球に見せないわけだ。
こうした調和ある美しい光景は、
宇宙においてはごく当然であり、
実は宇宙ではどこにでも見られる自然の光景である。
たとえば太陽の周りを、
地球を初めとする多くの惑星が回っているが、
太陽の引力と、
惑星の公転による遠心力は、
美しく調和が保たれているわけだ。
またこうした調和は、
おそらく銀河という大きな単位においても言えることなのだろう。
つまり宇宙にある無数の星々は、
光り輝いたり、またその光を受け取ったり、
あるいは自身が持つ引力や、
公転することで生じる遠心力によって、
互いに影響を及ぼし合って、
そして上手く調和を保っているわけだ。
そして広大な宇宙は、
調和があるだけでなく実は進歩もしている。
たとえばアインシュタインという物理学者は、
「相対性理論」という理論を世に発表したが、
しかしまさか自分の理論が宇宙の始まりにまで話がつながっていくとは、
実はさすがの彼も考えてはいなかった。
しかも彼の理論から、
天地開闢(てんちかいびゃく)、
つまり「宇宙の始まり」について考えていくと、
どう考えても宇宙は進歩していて、
しかも今でも大きく膨張を続けていることになってしまう。
しかしそれまでアインシュタイン自身は、
キリスト教的な完全な神を、
「創造主」として思い描いていたために、
「宇宙は神が造ったものだから、
既に完成されたものであり、
常に静止した状態であり、
膨張したり、進歩することはない」
と考えていた。
つまり彼は「静的な宇宙」を思い描いていたわけだ。
そのために彼は、
「宇宙の膨張」を頑固に認めず、
自分が見つけ出した「相対性理論」に手を加えるほどだった。
しかしやがて
「遠い星々こそ、早い速度で遠ざかっている」
ということが明らかになった。
これはすなわち、
それぞれの銀河が独自に勝手に動いているのではなく、
「宇宙全体が今も膨張していて、
そして進歩していることが明らかになった」
ということだ。
宇宙の進歩が揺るぎない真実だと知った時、
彼は一言こうつぶやいたという。
「仕方ない。宇宙は膨張している」と。
そして宇宙の進歩と膨張を認めなかったことを、
彼は「生涯最大の不覚」として反省した。
では宇宙が広大無辺であり、
しかも調和を保ちながら膨張を続けて、
今でも進歩を続けているのならば、
では時間を遥か悠久(ゆうきゅう)の昔にまで戻したら、
果たして宇宙はどうなるのか?
「宇宙が時間の流れと共に膨張している」
とはつまり、
時間を遡っていくと、
宇宙は今よりも小さかったことがわかる。
だから時間を遥か悠久の彼方にまで戻してみたら、
次第に星々の間隔は狭まり、
星々の密度は濃くなる。
そして星々の密度がさらに濃くなると、
それにともなって宇宙の温度は上昇する。
それでもさらに時間を遡ると、
さらに宇宙は小さくなって、
やがて星と星、物質と物質はぶつかり合う。
そしてやがて「ビッグバン」という大爆発に到達し、
そして「無」に到達していくわけだ。
すなわち確かにこの広大で調和ある大宇宙は、
かつては空間も無ければ時間さえも無く、
「無」から創造されたのであり、
400億年前は、
僅か数センチの小さな火の玉だったことが、
すでに科学的に明らかにされたわけだ。
「400億年前に無から宇宙が誕生した」
ということが理論的には解っても、
しかし僅かな歴史しか持たない現代の科学では、
実際にはどのようにして宇宙や銀河が創造されたのか、
具体的には何も解っていない。
いやそれどころか、
太陽系の成り立ちさえ未だに解っていないのが、
実は現状なのだ。
水星、金星、地球、火星などの惑星が、
果たしてどの様に誕生したのかさえも、
人類は明確には分かっていないわけである。
そうした惑星誕生の真実を明らかにしようと、
科学者たちは日夜、研究に励んでいるのだが、
惑星誕生の物語はおろか、
あらすじさえ掴めず、
足りないジグゾーパズルのピースを探して模索しながら、
日々、頭を悩ませているのが現状である。
それに宇宙は膨張し続けているために、
たとえば十億光年先にある銀河は、
秒速万2キロの速さで、
こうしている今も地球から遠ざかっていることが分かっている。
百億光年先にある銀河は、
秒速20キロの速さで、
地球から遠ざかっていることが分かっている。
そして137億光年先にある銀河に至っては、
秒速30万キロを超えるスピードで、
地球から遠ざかっているのだ。
この地球から137億光年先の銀河は、
既に光の速度で地球から遠ざかっているために、
今の科学では、
その銀河の存在を確認することさえできない。
つまり時速150キロの速さで遠ざかる列車に、
野球のピッチャーが乗って、
進行方向とは反対に、
時速150キロのボールを投げても、
ボールはその場で止まって転がるように、
137億光年先にある銀河が発した光は、
我々が生きている地球に届くことはない。
そのために現代の科学では、
137億光年先を、
「宇宙の地平線」とか、
「宇宙の果て」と呼んでいる。
しかし現代科学の限界を、
「そのまま宇宙に大きさ」と考えるには、
あまりにも無理があり、
未だ科学は宇宙の大きさが分かっていない、
というのが現実である。
未だ我々人間が行き来できない銀河にも、
やっと辿り着くことができた月にも、
そして宇宙から見ればほんの水たまりにも見えない広大な海や、
魚が遡上(そじょう)する川にも、
花々が咲き乱れる山にも、
落ち葉の下で生活する小さな生き物たちにも・・・・。
それがどんなに頭幼い我々人間の理解を遥かに超えていようとも、
偶然には造ることのできない美しい調和ある光景が見られ、
どこからどこまでも、
果てしなく複雑に原因と結果が連鎖している。
確かにこれほどに広大で、
複雑で、無限な宇宙を創造した存在が、
手足が二本ある巨人で、
機嫌を損ねると疫病や災害をまき散らし、
お供物をすれば喜んで保護と共にご利益をもたらす、
そんな欲得に満ちた気まぐれな怒りの存在であるはずもない。
しかしその一方で、
これほど広大で、調和があり、
そして進歩している神秘の宇宙が、
偶然に造られて、
そして我々人間も偶然の産物として生きているとは、
どうしても思えないのではないだろうか。
こうした宇宙の現実を少しでも知れば、
人類が月に行くことなど、
大木の一枚の葉の上で、
毛虫が前足を一本動かすことよりも、
実は遥かに遥かに小さな出来事にしか過ぎず、
現代科学を万能と考えることは滑稽にもほどがあるのだ。
つまりロケットを開発して、
地球から月に行ったことは、
「科学の発展」ということでは確かに偉大な功績ではあるが、
しかし広大な宇宙から見れば、
実はあまり大したことではない、
というのが真実である以上、
その科学でもって神秘は存在しない、
と決め付けている者は、
己の恥を知り、
そして素直な心で悔い改めるべきである。
なぜならその先に、
真の大和魂があるからだ。