命がけで学び、命がけで戦う | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

さて、このブログで、
何度も、何度も、述べさせて頂いてきたが、
今一度、日本とこの国を築き上げてきた精神について、
述べさせて頂くとする。


生まれた時から当たり前のように「日本」があるために、
「国家」ということについて、
真剣に考えたことのない人は、
とくに日本人の中には多いのではないだろうか?


では、なぜある少女は売春をしなければ生きていくことができず、
ある少女はペンとノートと携帯電話を持って、
学校に通うことができるのだろうか?


なぜある少年は死の意味さえ知らずに銃を持って戦わされている一方で、
ある少年は野球やサッカーにゲームと、
穏やかな少年時代を過ごすことができるのだろうか?


なぜある人々は独裁者の圧政の中で言いたいことも言えずに苦しんでいる一方で、
ある人々は自由に両手を振って町中を歩けているのだろうか?


この違いは国の違いである。


日本に生まれた赤ん坊は、
パンとミルクにありつけて、
母親の胸の中で安らかな笑顔を浮かべて過ごすことができるが、

しかしその一方で、
貧しい国の赤ん坊は、
たった一カケラのパンが無いために、
生まれてすぐに死んでしまったり、
ゴミ箱に捨てられてしまったり、
貧困を理由に売られてしまうことさえある。


それは母や父の愛だけではなく、
国の違いでもある。

我々人間は、
両親や友人や恩師などの支えによって生きていくことができるが、
しかし国家というものも、
知らず知らずのうちに、我々の人生を支えている。


もちろん日本が先進国であり、
国際社会の一員であり、
日本国民が赤き血の通った人間である以上は、
日本と我々日本国民には、
果たすべき使命と責任が当然あるが、
しかしやはり、
「国が違えば人生が違い、国が人生の土台となっている」
ということは、
変えることのできない現在の確かな事実だ。



今の日本の姿は、

今から2800年前の九州地方で生まれたと言われている。

そして大和の国として生まれたこの日本は、
東に、北へと豪族たちとの争いを繰り返しながら、
広がりを見せていった。


だからこのかつては日本国内においても、
生まれた土地がほんの少し違うだけで国が違い、
人生が違うという時代があった。


それは何も、数百年、数千年前のことではなく、
僅か百数十年前までそうであった。


明治維新が起こる前は、
県(藩)ごとに国を名乗り、
「県が違えば人生が違う」という時代があったのだ。

しかし今の日本国民は、
県の存在をあまり重要視せずに他の都道府県に移り住んでも、
十分に生きていける。


しかしそれでもまだ、
国そのものの存在を完全に否定して生きるところまで、
人類は進歩を遂げてはいない。


中国の脅威から逃れるために、
ダラ・イラマのように外国に亡命して生きることもできなくはないが、
しかし全ての日本国民が外国に移り住むことなど、
仕事の面や経済的な面だけをとってみても、
はっきり言って不可能だ。


無力なマスコミが報じないために、
国難の事実を何も知らず、
そして世界の悲惨なニュースだけを見て、
世界平和を求めるあまり、
「地球市民」という言葉を使って、
国の存在そのものを否定して、
「全ての武器を廃棄しよう」と訴えている日本人もいる。


しかしそれは明らかに、
20年間で20倍も軍拡を続けている中国の脅威にも、
核開発を進める北朝鮮の脅威にも気づいてなく、
東アジアに対する意識も乏しく、
時代を見誤っていると言えるだろう。


「全ての武器を楽器にしよう」

などと平和を求めて叫ぶのなら、
どうか命をかけて、
中国の天安門広場で、
北朝鮮のピョンヤンでやって頂きたいものだ。


まぁ、犬死は目に見えているが。


これはあくまでも比喩だが、

警察から銃を処分するだろうか?

日本国内から銃を処分するにしても、

まずは暴力団から銃を処分してこそ、

世の中に平和が訪れるのではないか?


安全な国よりまず、

危険な国から武器を始末するのが筋道である。


なぜ横田めぐみさんは北朝鮮に拉致され、
キムヒョンヒ元北朝鮮工作員によって、
大韓航空機が爆破されて、
大勢の人々が命を失ったのか、
この国の人々はまだ分からないのか。


なぜダライ・ラマはチベットに亡命して、
ウイグルやチベットの人々が虐殺され続けているのが、
まだこの国の民は分からぬと言うのか。


この国の平和ボケは、何とも恐ろしい。



確かに、平和を求めるその心は素晴らしい。


自分のことしか考えずに、
欲望に振り回されて生きている者に比べれば、
確かに、「平和を求めて何かをしよう」という、

その想いは立派だ。


しかし知識乏しく、智恵足りず、
愚かな者が安易に平和を求め、
平和の求め方が間違っていれば、
かえって欲得に狂っている心貧しき者たち、
人の命を蚊ほどとも思わず、
平然と詐欺や殺戮や破壊を行える心病ませた者たちに、
簡単に利用されてしまい、
結果的に大勢の人々を巻き込んで苦しめることになることが、
どうして分からないのだろうか?


欲得に狂っている心貧しき者たち、
平然と詐欺や殺戮や破壊を行える心病ませた者たちに、
残念ながら理性的な言葉は通じない。


中国・北朝鮮の本質を見抜けないのならば、
そして相手に隙を与えず、
隙があっても付けこまさせず、
毅然とした態度をとり続けることが大切である、

ということに気づけぬのならば、
未だ平和が訪れていないこの東アジアにおいて、
さらには日本国内において、
安易に平和を求めることは罪であり、
国の存在を否定することなど万死に値する。


なぜなら未だ人類が進歩の途中にあり、
東アジアに完全な平和が訪れず、
まだ我々日本国民にとって国の存在が必要不可欠である以上、
確かに我々日本国民は、
日本という国の存在を否定することなどできず、
むしろ重要視する必要が確かにあるからだ。


なぜなら中国・北朝鮮について何もを知らずに、

安易に平和求めて、

いたずらに憲法9条を守ろうと叫ぶ平和主義者たちは、

中国・北朝鮮にとって、

もっとも利用すべき人材であり、エサだからだ。


国に対して無関心な方がいらっしゃるならば、
是非ともどうか一度、考えて頂きたいものだ。


なぜ先進国に生きる我々は、
携帯電話を持って、服を着て、靴を履いて、
クーラーや暖房の効いた部屋で生活することができるのかを。


そしてなぜ後進国の人々は、
携帯電話どころか服さえも無く、
仕事も学校も無く、靴も無く、
雨風にさらされながら生活しているのかを。


未だ人類は進歩の最中にあり、
我々人間にとって、
まだまだ「国」は人生の土台であり、
無くてはならないものなのであり、
「地球」そのものだけを考えて生きていくことなど、
時代が許していないのだ。


本当に平和を求めるのであるならば、
「平和のために何かしよう」
と人々に訴えかける前に、
「平和のために知識と智慧を身につけよう」と心がけ、
真剣に学ぶ必要があるだろう。


しかもその学ぶべきことは、
中東の紛争、
アフリカの内戦、
東南アジアの貧困、
環境汚染などばかりではない。


我々日本人が生きている、
同じ東アジアに存在している隣国、
中国・北朝鮮の実態も、決して欠かしてはならない。


大和魂とは、
大いなる平和を求めて、
捨て身で戦う精神であるが、
しかし、
戦う前に学びを全ての上に置き、
全身全霊で知識や智慧を富ませない限り、
本当の平和など作れるはずもない。


軽い気持ちではなく、

人から「善人」に見られたいという名誉心からでもなく、

全身全霊で本気で世界の平和を望むのならば、

全身全霊で知識と智慧の獲得を求めるべきではないか?


かつて仏教の僧侶が、

悟りを求めるあまり、

「仏陀の教えを学べるのならば、

 己の生皮を剥いででも、

 そこに教えを書き留めたい」

と語られた方がおられるし、


あるいは、

慧可(えか)という仏教僧侶にいたっては、

達磨大師(だるまたいし)に己の腕を切って差し出し、

その代わりに教えを請うたという伝説さえある。


これほどまでに、

情熱的に悟りを求めた僧侶たちがいたわけだが、

平和を本気で求める本当の大和魂があるならば、

彼等にも負けるとも劣らない気概と情熱で、

命がけで学び、そして智慧と知識を集め、

命がけで世のため、人のため、神仏のために戦っていくべきではないか?


本当の大和魂、

それは命がけで学び、命がけで戦う精神である。