何も知らずに泣きながら生まれた我々人間は、
両親や学校の先生などから道徳を学び、
物事の善悪を教わってくるが、
しかしその両親や学校の先生も、
元々は何も知らずに泣きながら生まれてきた人間である。
では両親や学校の先生は、
誰から物事の善悪を教わったのかといえば、
それは両親の両親であり、先生の先生である。
実はこうしてずっとさかのぼっていくと、
必ずや仏陀やイエスといった、
正しい宗教家に突き当たる。
確かに宗教の中には、
間違った宗教もあるが、
しかし実は宗教とは、
「人間教育の原点」である。
だから時と場合によっては、
狼にさえなってしまう私たち人間が、
どこから物事の善悪を学んできたのかというと、
実は必ずやそれは宗教とか、
哲学といったものに突き当たるわけだ。
そしてそれは大和魂においても同様なことが言える。
この龍の落とし子のような形をした国に、
大和魂というものが元から存在していたわけではないし、
また日本人のDNAの中に、
大和魂が備わっていたわけではない。
その証拠に、
この国に今はもう大和魂が残っていない。
大和魂というものも、
結局は「神」と称される、
偉大な方々の生き様を伝えてきた神道を中心に、
儒教や仏教を取り入れながら築かれた精神と言えるだろう。
儒教では、
形式や作法を大切にして、
礼儀礼節を重んじている「朱子学」と、
仁を成すためにも己の身をも殺し、
新たな秩序を創り上げていく、
革命思想とも言える「陽明学」の二つに分けられるが、
大和魂はこの儒教の陽明学から、
強く影響を受けているとも言える。
そして仏教の「転生輪廻」の思想からも、
大和魂は色濃く影響を受けていると言えるだろう。
なぜなら神道は、
教えそのものが無いが、
明治維新の志士たちの多くが、
実は陽明学手的な革命思想と共に、
仏教的な死生観を持っていたからである。
その証拠に、
あえて「ハラキリ事件」を紹介する。
この事件は、
かつて日本にあった「切腹」という文化を、
世界に知らしめて、
「黄色いサル」と思われていた日本男児の死をも恐れぬ真の強さと、
そして真の恐ろしさを、
世界中に最初に教えた事件でもあるかもしれぬ。
幕末から明治にかけて、
日本のいたる所が、一時、無政府状態となった。
そこで当時の政府は、
土佐藩に大阪の堺を警護するように任命した。
しかしフランス軍艦が許可なく堺港に入港し、
フランス水兵が上陸して来た。
日本政府側の資料によると、
フランス兵は神社仏閣に無断で侵入して、
そして婦女子を追い回す醜態ぶりであったそうだ。
そこで土佐藩士が現場に向かい、
船に帰るように身ぶり手ぶりで説得したそうだが、
しかしフランス水兵は、説得に応じるどころか、
彼等を笑い者にして、口笛を吹いたり、
踊ったりしてからかったという。
結局、土佐藩士たちは、
彼らフランス兵を逮捕して連行しようとするのだが、
フランス兵は逃げ出して、
そしてその際に土佐藩の藩旗を奪い取るという暴挙に出たそうだ。
そこで土佐藩士は、
フランス兵に追い付いて刀で切り付け、
藩旗を奪い返した。
名誉が傷つけられれば、
すぐに刀を抜く当時の侍を、
どうやらフランス兵は理解していなかったようだ。
するとフランス兵と土佐藩士の間で銃撃戦が始まり、
フランス側に十一人の死者を出した。
こうしたことを受けて、
フランス政府は日本政府に猛抗議してきた。
しかし実はそのほんの少し前にも、
神戸において日本とフランスの間で、
同じような諍(いさか)いがあったために、
明治維新の動乱期ということもあって、
日本政府はフランス側の要求を全て受け入れることにした。
その要求の中には、
遺族への賠償ということも含まれているが、
加害者二十名の処刑ということも含まれていた。
つまり当時の日本政府は、
「今、日本は外国と争っている時ではなく、
国を造っていかねばならない大切な時である。
だから申し訳ないが日本を護るため死んでくれ」と、
そう土佐藩士たちに言ったわけだ。
その申し入れに、土佐藩士二十名は快く承諾した。
そして当時のフランス公使が立ち会いのもとに、
処刑、すなわち日本男児の世にも稀な切腹が始まった。
おそらくそのフランス公使も、
銃殺くらいに軽く考えて立ち会ったのだろうが、
その期待は一人目の切腹で、
いとも簡単に裏切られた。
一人目の男はフランス公使を睨み付けながら、こう叫んだ。
「いいか!自分は死ぬが、お前らの為ではない!
国の為だ!
自分は七度生まれ変わって、お前らを殺してやる!
フランス人よ、日本男児の割腹を見よ!」
そして彼は脇差しを取り、
自分の腹を上から下に切り裂き、
次に横一文字に切り開き、
さらに今度は下から上へと切り上げた。
そして彼は自分の腹を切り裂くと、
腹の中から臓物をつかみ出し、
公使目がけて投げ付けようとした。
もちろんフランス公使は驚いただろうが、
それを見て、慌てて介錯人が大刀を振り下ろした。
しかし動揺したのか、
介錯人の手もとが狂ってしまった。
すると切腹しているその男は、
そうした状況であるにも関わらず、
こう言ったのだ。
「なんとせられたか!心静かに!心静かに!」
つまり切腹して死に逝く者が、
介錯する者を冷静になる様になだめたわけだ。
こうして彼は日本の為に命果てていった。
一人目の切腹で、
既にフランス公使は顔を青ざめさせたそうだが、
なおも切腹は続く。
次の男は余裕な表情を見せて、
しかもフラスン公使をしっかりと見つめて、
微笑しながら切腹した。
こうして三人、四人と凄まじい切腹が続いていくうちに、
フランス公使は気分が悪くなり、
遂には席を立ってしまった。
立ち会い人がいなくては、切腹が成り立たないために、
日本の役人はフランス公使に席に戻るように説得したのだが、
しかし公使は聞き入れず帰ってしまった。
こうした事態を受けて納得できないのは、
切腹する予定であった残りの土佐藩士数名だ。
なぜなら仲間は同じ事件が原因で、
国のために命果てたというのに、
自分たちだけ生き残るというのは、
彼らからすればなんとも卑怯であって、
我慢ならないからだ。
だから彼らは猛抗議したのだが、
しかしその後、幕府になだめられ、
彼等はその命を大切にしたそうである。
大業の見込みがあるのならば、
いつまでも生きる、
平和へ不朽の見込があるならばいつでも死ねる、
こうした命も惜しまずに仁を貫く精神こそが大和魂であるが、
かつての武士は、
現代とは全く異なる死生観を持っていたために、
確かに死の恐怖を克服していたのである。
そうしたことから、
彼らの中には「いかに死ぬか」ということにこだわりがあった。
そのために、「処刑」という形式で他人に殺されることよりも、
「切腹」という形式で自ら命を閉じるということに美学を持っていた。
だからこそ、当時の武士は、
腹を十文字に切ったり、
あるいは横三文字に切って切腹したのだ。
伊藤博文が韓国ハルピンで暗殺されたと聞いて、
友人でもあり、ライバルであった大隈重信という方は、
悲しむと同時に、
「なんて華々しい死に方なのだろう」と、羨ましがったほどだ。
ただし、ここで注目して頂きたいのは、
「ハラキリ事件」で最初に切腹された方が、
「自分は七度生まれ変わって、お前らを殺してやる!
フランス人よ、日本男児の割腹を見よ!」
と言っていることである。
なぜなら神道にも、儒教にも、
「生まれ変わり」、つまり「転生輪廻」の思想は存在していなからだ。
だがこの方は、明らかに転生輪廻の思想を持っていた。
それは紛れも無く、彼が持っていた大和魂の中には、
仏教的な真理が入り込んでいたことを意味している、
そしてこうした「死んだら全てが終わり」とは考えない、
死をも恐れずに生まれ変わりを信じる大和魂は、
戦前、戦中の日本にまで残っていた。
たとえば真珠湾攻撃直前、
第三制空隊隊長として、
零戦(ゼロセン)に搭乗する飯田房太(ふさた)氏28歳は、
部下たちにこう述べた。
「真のサムライである軍人にとって重要なことは、最後の決意である。
たとえば私が燃料タンクに致命的な損害を受けたのならば、
敵に最大の損害を与えるために、
生還を期することなく、目標に向かって体当たりするつもりである」
そして飯田氏たちは、ハワイ真珠湾において、
反撃してきたアメリカ戦闘機を次々に撃墜した。
ところが飯田氏の乗る戦闘機は、
敵の対空砲火で被弾し、
ガソリンが流れ出してしまった。
彼は、他の戦闘機を帰還するように誘導すると、
手を振って仲間に別れを告げ、
反転し、ただ一機、引き返して、
アメリカ軍の飛行機工場の格納庫に垂直に突入した。
1941年の12月8日は、
イギリス領であったマレーシアにも、
日本は戦闘を仕掛けていた。
「日本を撃退するために、空母一隻を派遣するべきではなないか?」
という軍のアドバイスを退けて、
当時のイギリス首相・チャーチルは、こう言っていたそうだ。
「日本人のような劣った人種は、
戦艦レパルスとプリンス・オブ・ウェールズを派遣しておけば、
簡単に抑止できる」
しかし戦艦レパルスとプリンス・オブ・ウェールズは、
「劣っている」とみなされていた日本人によって、
わずか二時間で沈んだ。
チャーチル首相は、その知らせを受けて、
のちにこう述べたそうだ。
「私は一人きりであることが幸いだった。
戦争の全期間を通じて、
私はこれ以上の衝撃を受けたことがなかった」
ちなみに1971年のパールハーバー三十周年で、
アメリカ海軍は飯田房太氏の戦いぶりを、
「敵ながら天晴れ」と讃えて、彼の慰霊碑を建てている。
かつての大和魂を持った日本人たちは、
外国から命を掛けて日本を守るために戦ったわけだが、
しかしそれは決して、
女性たちも例外ではない。
藤井一少佐は、陸軍飛行学校において、
「軍人とは如何なるものか」という精神を教えていた。
その中で吉田松陰が弟子たちに、
「死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし。
生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし」
と教えていたように、
あるいは
「この国が安らかで栄えれば、
私の命は捨てることも本望である」
と教えていたように、
彼も生徒たちに
「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、私も必ず行く」
と教えていたそうだ。
そして敗戦色が濃くなり、
特攻隊の神風が吹き荒れると、
彼も特攻隊に志願したのだが、
しかし彼には妻子がいたこと、
そして彼自身がパイロットではなかったことなどによって、
その志願は二度も却下されてしまった。
しかしそれでは、
彼と生徒たちのあいだでかわされた約束を破ることになってしまうし、
また妻子を残して自分が死ぬことにも、
彼はとても心苦しんでいたそうだ。
そうした彼の心の苦しみをよく理解した妻・福子さんは、
幼い二人の子どもを背負って、
「一足お先に逝って待っています」という内容の手紙を残して、
荒川に入水自殺をした。
こうした経緯よって、
彼の三度目の特攻隊の志願は受け入れられた。
死出の旅に旅立つ藤井一氏を囲んで、
送別会が開かれたそうだが、
参加した人々は、
彼を気遣って誰も福子さんのことを口にする者はなく、
別れの酒が酌みかわされたそうだ。
その酒は、一体如何なる味がしたのか。
こうした勇ましい日本男児・益荒男(ますらお)、
そしてそれを影で支える妻・大和撫子(なでしこ)、
まぁこうした言葉は、大和魂が失われたこの国にとって、
すでに死後となりつつあるが、
こうした方々の偉大なる活躍によって、
日本が消滅させられてしまう危機は回避されて、
また世界に蔓延っていた白人優越思想に、
日本が風穴を開けることにも成功した。
そしてこうした欧米列強から日本を護り抜いた戦没者を、
「英霊」として、
あるいは八百万の神々の一員として、
祀っているのが靖国神社である。
しかし情けないことに一国の首相が、
中国や北朝鮮の顔色を伺い、
外交のカードとして脅されることで、
終戦記念日に感謝の想いを捧げに参拝することもできない。
本来、日本の首相であるならば、
終戦記念日に靖国の英霊に感謝の想いを捧げに参拝するのみならず、
この国を築き上げてきた、
天照大神を始めとする八百万の神々にも感謝の想いを捧げて、
伊勢神宮に参拝することも忘れてはならない筋だが、
しかし日本の長たる者が、
外国のデタラメな主張を信じ込んで、
この国を命をかけて護り抜いた方々を、
まるで悪人のごとく扱って、
感謝の想いさえ捧げられないとは何たることだろうか。
外国から内政干渉されるのであるならば、
あえて終戦記念日に堂々と参拝するくらいの気概を見せずして、
どうしてこの国の主権を外国から護っていくことができると言うのだろうか。
日本がこのような情けない国家になっていくことを、
予測して、そして憤りを感じていたのが、
作家の三島由紀夫氏である。
彼は自衛隊の市谷駐屯地に乗り込み、
決起を促すという暴挙に出たが、
しかし彼自身は、
大和魂を失ったこの日本が、
情けなく、ふがいなく、外国の顔色を伺うばかりか、
いつしか外国の言いなりなっていくことを、
見通していたのである。
ならばこそ、
中国共産党の脅威から、
この日本を守り抜いていくために、
失われた大和魂を蘇らせる以外に、
方法などないではないか。
私たち一人一人の心の中で眠っている強い精神を、
呼び起こすしかないではないか。
もちろん、日本人にも様々な人がいるから、
神風特攻隊として出撃したものの、
途中で怖くなって引き返してくる者がいたのも、
紛れもない歴史的事実であり、
そうした者たちのことを責め苛むことは大きな間違いだが、
しかし当時の軍部が、
強制的に人間に自爆攻撃を行わせたのではなく、
大和魂を持った一人一人の志士たちが、
「国が平安であれば、我が命は捨てる」
という想いでもって、
志願して命を捧げたのが、歴史の真実である。
なぜなら大和魂とは、
もともと神道を中心に、
儒教や仏教を取り入れながら築き上げられてきた、
宗教的精神であり、
「死の恐怖を克服する精神」だからである。
人間とはいつか必ず死ぬものであり、
「死」という宿命だけは変えられない。
しかし国を護る、
平和を護るといった天下国家という大目的のために、
「靖国の桜の木の下で会おう」という言葉を合言葉に、
桜の花びらが風に揺られて舞い散るが如く、
肉体生命を散華させていった方々に対して、
感謝の思いを持てないとは、
なんと失礼極まりないことであり、
そんな無礼な日本人の何と多いことだろうか。