さ~てさて、
すでに述べたように、
確かに今の日本は腐っております。
弱肉強食の資本主義の競争社会が続き、
その競争の中で勝った者を、
たとえその人間の心の中に、
たった一カケラの愛が無かろうとも、
「勝ち組」と称してチヤホヤ褒め讃え、
その一方で、職が無い者を「負け組み」と罵る。
まったくもって笑止千万の社会であり、
決してこのまま放置しておいて良いはずがありません。
何よりも、
神や仏も今の日本の現状を、
決して「よし」とはしないでしょう。
私も「平等な世の中を創るべきだ」と、
そう信じて疑わぬ者の一人でございます。
しかし実はこれまで、
「自由と平等は同時に存在しない」
と言われてきました。
それでも私は、
「いや、マルクス主義は間違いであったが、
自由な世の中に平等を作り出していくことはできる」
と、そう信じて疑わない者です。
ですから自由主義のこの日本に、
平等で平和な世の中を作ろうと、
日々、努力している者の一人でもあります。
しかし暴力によって平和を創ることはできません。
「理想」というものは、
永遠に求め続けることができるために、
理想を求めて力に走れば、
マルクス主義国家のように、
永遠に暴力の繰り返しとなってしまいます。
です絶対に暴力は否定すべきです。
しかし武力と暴力は違います。
警察とヤクザが持っている拳銃の意味が違うように、
武力と暴力は全くもって違うのです。
暴力とは、「暴れる力」と書くように、
破壊の力であり、何も生み出すことの悪の力であり、
憎むべき力であります。
しかしでは、
この暴力を止めるには、
どうしたら良いのでしょうか。
もしも言葉と話し合いだけで暴力が止まれば、
喧嘩は起こらないでしょうし、
殺人事件も起きないでしょうし、
日本に暴力団は一人もいないでしょうが、
しかし北海道から沖縄にまで暴力団員はいて、
殺人事件も起きております。
このように暴力というものは、
必ずしも話し合いと言葉だけでは止まらないのです。
暴力を止める力、それが武力です。
武力の「武」という文字は、
「戈(ほこ)を止める」と書き、
「戈」というのは、中国の古代の戦争の道具です。
すなわち武力とは、
戦争の抑止力であり、
暴力を止める力であり、
平和を守る力に他なりません。
しかしもしも、
平和を守るのではなく、
平和を作ろうとして、
理想のために力を持ち出せば、
それはマルクスと同じであり、
一瞬にして暴力になってしまうのです。
ですから自由で、繁栄がある世の中に、
平等を築き、平和な世の中を創るためには、
まず何よりも力を否定しなければならず、
あくまでも力は守るためにのみ、
肯定することができるのです。
では、どのようにして、
自由で、平等で、平和な世の中を作るか。
マルクス主義は、
「努力しても怠けても同じ結果である」という
「結果平等」であったために、
「努力」と「繁栄」という何よりも大切なものが、
世の中から失われてしまったわけですが、
「努力」と「繁栄」が失われない形で、
世の中に「平等」が築かれていけば良いわけです。
では、どのようにして、
「努力」と「繁栄」を失うことなく、世の中に「平等」を築いていくか、
それはまず、
恵まれた家に生まれようが、貧しい家に生まれようが、
「チャンスを平等に与える」という
「機会平等」な世の中を築くことが大前提ですが、
その次に必要なものは、
信仰と愛と反省、そして理想です。
神仏を信じる者、信仰者の中でも、
反省の大切さを良く学んで、心の修行に励む者、とくに仏教者は、
不必要な欲を捨て去り、なるべく無我になろうと努力します。
そのために、人間を物のように扱ってまで、
自分が富や名誉、そして快楽を求めることなど、
心の修行に堕落しない限りは、絶対に行いません。
また神仏を信じる者、信仰者の中でも、
愛の大切さえを良く学んで、愛の実践に励む者は、
なるべく人々に愛を与えて優しく生きようと努力し、
飢えも争いもない、そんな理想的な世の中を創ろうと努力します。
ナショナルの創業者である松下幸之助氏は、
次のように考えました。
「他人の家の水道を使っても、あまり怒らないのは、
水というものがタダではないが、極めて低価格であるからだ。
もしも電化製品がそれくらい低価格であったら、
人々の苦しみや悲しみも減っていくだろう」
こうした考えのもとに、松下氏は企業努力をしていかれたそうです。
そんな松下幸之助氏は、
「企業家の使命は貧困を無くすことである」
と考えていました。
このように、人間は欲望のとりことなり、
富や名誉や快楽に対する執着心でも、
資本家・経営者になることができますが、
しかし、
愛を実践して優しく生きようと努力し、
飢えも争いも無い、そんな理想的な世の中を造ろうとしても、
資本家・経営者になることができるのです。
すなわち、
人間はお金のため、自分の生活のためだけに努力するような、
そんな心貧しい生き物ではなく、
愛と理想のために、
たゆまぬ努力を続けることができる、
そんな素晴らしい生き物でもあるわけです。
私には志を同じくする「同志」が、
北海道から沖縄にまで、
そしてすでに世界中におり、
彼らは日々、少しでも世の中を素晴らしくしようと努力しておりますが、
それは決してお金のためでもなければ、自分の生活のためでもなく、
むしろ時には、誰に強制されることもなく、
自分から自分の出来る範囲で、自分を犠牲にしてまで、
素晴らしい世の中を創ろうと戦っております。
私も格闘技の試合に出たり、
衆議院選挙に出たりと、
肉体と生活と人生と生命を掛けて、
日々、努力しておりますが、
それは決してお金や名誉のためではありません。
自由な資本主義社会の中で、
人々が信仰に目覚めて、
不必要な欲を取り払い、
なるべく無我になろうと努力し、
そして愛を実践して優しく生きようと努力し、
資本家・経営者が執着ではなく、愛でもって企業を運営し、
理想的な社会を求めていけば、
そこには自然と平等が築かれていく、
私はそう考えている者です。
究極にまでいけば、
「貨幣経済そのものが壊れる」
とも、私は考えております。
つまり日本一国では無理があるでしょうが、
「お金」というものが無い世の中さえ訪れる、
そう私は考えているわけです。
さぁ、それが1000年後か、10000年後か、
それは定かではありませんが、
世界の人々は自然と日々、努力して働き、
その一方で、
不必要な物を欲しがることもなければ、
コンビニも、ファミレスも全て無料で、
宝石などは、ただの石コロやビーズ程度の値打ちしかない、
そんな世の中だって、いつの日か来るかもしれません。
まぁ、今、こんなことを言えば、
笑われるかもしれませんが・・・