「ブログ、いつも拝見させて頂いております。
志の話、政治の話も勉強になるんですが、
しかしたまには、前のように、
心の話、宗教の話もして頂けないでしょうか?」
簡単に解読すると、
どうやらそういった趣旨のメッセージを頂いた。
ということで、
心と宗教の話も、
逃げることなく、躊躇することなく、遠慮することなく、
させて頂きましょう。
かつてインドにおいて、
ゴーダマ・シッダールタという方が、
釈迦族のとある国の王子として生まれた。
しかしゴーダマは、
「人はなぜ生まれてくるのか?」
「人はなぜ老いていくのか?」
「人はなぜ病にかかるのか?」
「人はなぜ死んでいくのか?」
こうしたことに悩み始める。
この問に、
もしもきちんと答えられる人がいたら、
ゴーダマも父親の跡を次いで、
王となっただろうが、
しかし誰もこの問に答えられなかったので、
ゴーダマはこうした本質的なことの問の答えを求めて、
つまりゴーダマは「真理」を求めて、
ついに王子という身分を捨て去り、
出家して僧侶となる。
インドは、
現代においても、当時においても、
自分の肉体を痛めつけ、苦しめ抜いた先に、
「悟り」が得られると信じられている。
つまりインドには、
当時にも、現代にも、
片手を何日も上げたまま過ごしたり、
何千本もの針の上で寝たり、
食べ物を我慢して過ごしたりしている修行僧がいるわけだ。
そうしたことから、
ゴーダマ・シッダールタも、
水の中で息を止めたり、
食事を我慢したりして、
「肉体苦行」というものに明け暮れていた。
ある時、
ゴーダマが川で体を洗おうとして、
水の中に入ると、
痩せこけて、体力が落ちていたために、
体がフワッと浮いて、
川に流されそうになってしまう。
そして命からがら川岸に辿り着き、
「ハァハァ」と息を切らしていると、
村娘の働きながら歌う、こんな唄が聞こえてきた。
「琵琶(ビワ)の弦は、
きつく締めても、
ゆるく締めても音色が悪く、
中ほどに締めると音色が良い」
そこでゴーダマ・シッダールタは、
「ハッ」と悟ったという。
「肉体を極端に喜ばせ、
快楽の中に身をおく生き方は、
人間を堕落させ、人生を滅ぼさせ、
決して正しい生き方とは言えないだろう。
しかしその一方で、
肉体を極端に苦しめ、
苦行に中に身をおく生き方も、
本当に正しい生き方と言えるのだろうか?」
村娘は、
川岸で死にそうになっている、
ゴーダマ・シッダールタを見つけると、
駆け寄ってきて、
ゴーダマにミルク粥を差し出したそうだ。
ゴーダマは、その村娘を見て、
こう思ったそうだ。
「この少女はおそらく、
一度も苦行の修行などしたことがないだろう。
しかしきちんと食事を取り、
人並みの普通の生活をしているために、
明らかに生命力に溢れ、
美しく輝いてさえ見える。
それにひきかえ私はどうだろう?
修行、修行と苦行に明け暮れて、
食事もろくに食べなかったために、
あばら骨を浮き出し、
目は落ち窪み、
まるで骸骨のようではないか。
もし、天界への門がひらかれ、
私と少女、どちらかがその門をくぐるとしたならば、
皮肉にも少女こそがその門をくぐることだろう。
王宮を出て以来、
私はこれまで肉体苦行に励んできたが、
厳しい生活の中で私が得たもの、
それは骸骨のような醜い姿と、
他人に対する優しさや思いやりを忘れた、
厳しい視線だけである。
極端に肉体を喜ばせる肉体快楽の生き方も、
そして、
極対に肉体を苦しめる肉体苦行の生き方も、
共にどちらも人間としての正しい生き方とは言えず、
苦楽中道の中にこそ、
本当に正しい人間としての生き方があるのではないか?」
ミルク粥は決して高価な食事ではないが、
しかし苦行に明け暮れ、
食事も満足にとらず、
肉体どころか、生命をも否定して生活していた、
そんなゴーダマ・シッダールタにとって、
そのミルク粥は極上の食事に見えた。
そして本当は、
「苦行修行に明け暮れる僧侶は、
生臭い物を口にしてはならない」
と言われていたのだが、
肉体と生命を否定することが、
「実は間違っている」
ということを悟ったゴーダマは、
そのミルク粥を口にし、
そして喉へと流し込んだ。
ゴーダマの瞳から涙が溢れ、
頬へと伝ったという。
ゴーダマはこうして、
「苦行の中に悟りの縁(よすが)は無く、
肉体苦行によって人間の本当の生き方は無い。
苦楽中道こそ正しい生き方である」
と悟り、肉体苦行をやめたという。
ちなみにそのミルク粥を差し出した村娘の名前を、
「スジャータ」と言い、
今でもコーヒーに入れるミルクの名前として、
多くの人々に知られている。
そのゴーダマがミルク粥を口にする姿を見て、
共に肉体苦行に励んでいたいた幾人かの僧侶たちは、
「ゴーダマは修行をあきらめた。
彼はついに退転してしまった」
と考えて、
ゴーダマのもとを去っていったという。
それからゴーダマたったり一人の修行が続き、
やがて菩提樹の木の下で悟りを開き、
ゴーダマは「仏陀」、あるいは「御仏」となる。
仏陀とは、
「目覚めた人」とか、
「真理を極めた人」という意味であり、
御仏の仏とは、
「人に非ず」という意味である。
ちなみに、
そもそも「仏」という漢字自体が、
「人」と「非」という漢字が合わさって作られた漢字である。
ゴーダマ・シッダールタは、
「釈迦」とも呼ばれるし、
敬意を込めて「釈尊」とも呼ばれるし、
「仏陀」とも、
あるいは「仏」とも、
もしくは「御仏」とも呼ばれている。
まず最初に御仏が教えを説いたのは、
かつて共に肉体苦行に励んで、
そして「ゴーダマは退転した」と考えた、
仲間たちであり、彼らが最初の弟子となった。
こうしたゴーダマ・シッダールタが、
真理を極め、仏陀となったことによって、
仏教がインドに広がり、
東南アジア、中国、朝鮮半島、
そしてやがて日本へも広がってきた。
日本に仏教が伝わった当時、
日本には天皇家の先祖として、
天照大神(あまてらすおおみかみ)という神がおり、
その他にも八百万(やおよろず)の神々がいる、
と考えられていたために、
御仏は「外国の神である」と考えられた。
そのために、
「御仏を悪神」と考える物部守屋と、
「外国の神でも、正しい教えを説く神」と考える蘇我馬子の間で、
宗教戦争が起こり、
そして蘇我氏が勝利することによって、
仏教は日本に根付いていった。
やがて厩戸皇子、つまり聖徳太子によって、
仏教は重宝されて、
たくさんの寺が造られ、
推古天皇を始めとする皇室も仏教に帰依し、
やがて約四百年も続く平安時代を向かえ、
日本はミラクルピースの時代を迎える。
しかしインドで生まれた仏教だったが、
イスラム教徒が、
仏教の寺院を壊し、僧侶を殺害することで、
インドでは、ほぼ仏教が消えてしまう。
かつての仏教は、
冠婚葬祭といった生活には密着してなく、
ただ心の教えを学ぶことに重点を置いていたために、
寺院が無くなり、僧侶が姿を消すと、
仏教は廃れていってしまったのだ。
その一方で、
インドの民族宗教・ヒンズー教は、
冠婚葬祭などによって、
インドの人々の暮らしに密接に結びついていたために、
そのまま残り、
現代でもインドの一部の人々は、
ヒンズー教を信じ、
そして肉体苦行に明け暮れているわけだ。
さらにもう一つ、
仏教的真実を述べるとするならば、
実は御仏は、
たったの一度も、
「葬式の作法など教えなかった」
ということである。
あくまでも真実の仏教とは、
「心の法則」を解き明かすものであり、
「心の教え」を説くものであり、
墓守の仕方も、戒名の付け方も、法事なども、
御仏は一度も弟子に教えてはいない。
もしも仮に、
かつてのインドの地において、
御仏がそうしたことを、
弟子たちに教えていたら、
冠婚葬祭などによって、
ヒンズー教と同様に、
仏教も人々の暮らしに結びついて、
イスラム教に滅ぼされることも無かったことだろう。
ちなみに、
御仏も線香は確かに立てた。
しかしそれは、
インドの地は大変暑く、
蚊や虫が多いために、
蚊除け、虫除けのために、
線香を使用したのが真実である。
つまりインドにおいても、
「宗教はアヘンである」と考えるマルクス主義の中国においても、
葬式にばかり熱心なこの日本においても、
2500年の月日と共に、
本当の仏教の姿は失われてしまったわけだ。
こんなもんで良いでしょうか?