卑怯者になりたくないから in 渋谷 その一 | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

「知らない」ということは、時に罪だ。

たとえば、

子どもたちが、

大切に、大切に、育てた球根を、

花壇に植え変えて、そして毎日水をあげて、

色とりどりの花が咲くことを、

楽しみ待っていたとする。

そこに、

夜、暗い中、

何も知らない大人たちが、

土足で上がりこんで、

宴会でもやってしまえば、

どれだけその子どもたちの心を傷つけることだろうか。

あるいは、仮に、

「刃物が切れる」ということを知らず、

「人が死ぬ」ということも知らず、

そして

「死んだら生き返らない」ということをも知らない者がいたとして、

その人間がナイフを持って街中に行くことは、

やはり罪ではないだろうか?

もう一度、言うが、

「知らない」ということは時に罪となる。

そしてそれを踏まえて言うが、

今、日本は最大の国難を迎えている。

多くのマスコミが無力であるために、

そして日教組が牛耳る教育界が、

政治や国家に対して、国民が無関心になる教育を行ってきたために、

今、日本にある国難の事実を「知らない」ことは、

確かに仕方がないと言えるだろう。

しかしその事実を知っておきながらも、

何もせず、立ち上がることもなく、

ただ指をくわえて黙っていたり、

立ち上がって戦う方々を傍観することは、

卑怯である。

「義を見てせざるは勇無きなり」というが、

知らないことは時に罪であり、

今ある国難の真実を知り、

そして義を見ながらも、

それでも何もしないのは臆病だけではなく、

卑怯者だ。

今、我々日本国民は、平和ボケして何も国難を知らないのか?

それとも我々日本国民は、勇気無く、臆病者の集まりなのか?

それとも結局のところ、我々はただの卑怯者の集まりなのだろうか?

いや、私は絶対にそうは思わない。

同時代に生きる日本人を、そして同胞を信じている。

かつて日本国民は、

卑怯を憎み、義にあつく生きることを美徳とし、

そして何よりも勇気に溢れていた。

だからこそ、

東アジアの中で、

唯一日本は、中国の冊封体制から抜け出し、

そして世界の中で、

唯一日本こそが、白人優越思想を打ち破った。

日本の平和のために、

世界の平和のために、

そして自分と、

自分の家族や友人と、

同時代に生きる人々、

これから生まれてくる子どもたち、

さらにはこれまでこの国を、世界を、築いてきた方々のために、

我々は今こそ立ち上がらるべきである。

「恥ずかしい」なんて言っていられない。

たとえ他人から見ればアホに見えようとも、

私は妻と共に戦い続ける。


なぜなら卑怯者になりたくないから。


そうした想いで、渋谷に演説に行くと、


「日本の子どもの未来を守る会」という、


主婦の集まりの方々が、多くの志ある政治家を招いて、


街頭演説をしていた。


携帯の動画なので、よく聞き取れないが、

「外国人地方参政権」に反対する演説だった。