小林よしのり氏の本を読んでいたら、
興味深い内容があった。
彼が
「沖縄やアイヌの男性は毛深い」
と、本の中で書いたら、
「小林は差別的だ!」
という批判が、
市民団体などから起こったそうだ。
すると小林氏は
「はぁ?なぜ『毛深い』というと、
それが差別になるというんだ?」
と疑問を抱き、
そのやりとりは平行線を辿っているようだ。
この問題の根本的な鍵、
それは「進化論」にあると俺は思う。
進化論とは、
「人間は猿から進化した」
と考える理論だ。
この理論から言うと、
ある民族に対して「毛深い」というと、
まるで「劣っている」と、
そう言っているようにも聞こえなくもない。
実は俺、
進化論をま~ったく信じていない。
現実に言えば、
「人間と動物は別の生き物である」
と考えている。
この進化論の「論」ってぇ言葉がくせものだ。
理論であって、可能性であって、
実は完全に証明されたものではない。
進化論に対して、次の様に語った人がいる。
「今ある遺伝子情報の様な複雑で整然としたシステムを、
進化の突然変異によって造り上げる確率は、
竜巻きがゴミを巻き上げたら、
ジェット機が完成した様なものである」
つまりは、もしも仮に、
「アメーバーから猿へと偶然に進化を遂げて、
そしてやがて人間に成り、
これまで勝手に人間は繁栄して来た」
という「ダーウィンの理論」が正しいとしても、
その理論は、
実はまるでレンガを放り投げていたら、
勝手にギリシャ神殿が出来上がった様な奇跡の確率でしかない。
それに考えてみて欲しい。
たとえば地球の環境に良く似た惑星が在ったとする。
そこにアメーバーを繁殖させたからと言って、
何十億年経つと人間に成っているのだろうか?
そして泣いたり、笑ったり、悩んだり、喜んだりするだろうか?
それにダーウィン曰く、
生物は長い時間をかけて、
ゆっくりと進化の道を辿っているはずだが、
それも実は謎のままだ。
たとえば今からおよそ5億4200万年前から、
5億3000万年前に、突如としてこの地球上に、
動物の体制が整った。
この突如の動物の発生を、「カンブリア爆発」と言うが、
三葉虫は三葉虫として、
カイメンはカイメンとして、
二枚貝は二枚貝として、
いきなり完全な形で出現して、
進化途中の動物の化石が欠片さえも発見されていない。
それに「猿は人間の祖先である」という理論が、
ダーウィンによってこれまで信じられてきたが、
実は猿と人間を結び付ける完全な証拠は、
全く発見されていない。
つまり「ミッシング・リンク」
「失われた環」という意味だが、
猿と人間を繋ぐ化石は未だ発見されていないわけだ。
最後の氷河期であった約四万年前から、
「ホモ・サピエンス」と呼ばれる俺たち人間が、
登場したと言われているが、
人類の脳の容積は、
少なくとも百万年前から一定であったことが、
化石の発掘によって既に解っている。
また精子と卵子が結合して、
お腹の中で胎児は成長していき、
その成長過程が、
「アメーバーから人間への進化の過程を経ている」
と言われて来たが、
これも今では否定されている。
つまりダーウィン出現以来、
様々な調査がなされて、
「アメーバーからどの様に人間は進化したのか?」
ということが検討され、
膨大な量の化石が収集されてきたが、
しかし実はそれらの化石はどれも、
進化論を確実に肯定するものではなかったんだ。
それに今、信じられている進化論の中で、
人類の中で一番古いとされているのは、
「アウストラロピテクス」であるとされているが、
しかし実は、
アウストラロピテクスの前脚と後脚の化石から、
この生物が二足歩行せずに、
実はチンパンジーやゴリラの様に、
拳を地面について移動する動物であることが分かっている。
つまり、
アウストラロピテクスは人間とは何ら関わりの無い、
絶滅したゴリラなどの仲間である可能性があるわけだ。
「ジャワ原人」の化石が発掘された時、
「この生物は直立歩行していた動物で、
猿と人間の中間生物である」
と噂され、
「ミッシン・グリングの発見」と騒がれた。
しかしここにも実は大きな疑いが残った。
なぜなら頭蓋骨、歯、大腿骨、この三つの発見から、
「おそらくこの生物は、
ゴリラに近い知能でありながら二足歩行していた」
と信じられていたのだが、
しかしこれらは14メートルと数メールも、
間隔を開けて発見されているからだ。
ちなみにこの同じ地層から、
人間の遺骨が発見されている。
またネアンデルタール人にしても、
前かがみに膝をひきずりながら歩行して、
猿と人間の中間の生物と信じられていたが、
しかし直立歩行するネアンデルタール人の化石が、
実はたくさん発見されている。
つまり確かに、
20世紀の初めに発見されたネアンデルタール人の遺骨の状態から、
そのネアンデルタール人が、
曲がった膝を持っていたことが明らかになっているが、
実はそのネアンデルタール人だけが特殊な例であったわけだ。
また彼等の脳の容積は、
現代の俺たちと何ら変わらないことも明らかになっている。
すなわち、
たった一体の骨から得られた結果から、
「ネアンデルタール人は直立二足歩行できない人間」
と信じられていたが、
実はネアンデルタール人は直立二足歩行できた。
それはつまり、
ダーウィン出現以来、
アウストラロピテクスにしても、
ジャワ原人にしても、
ネアンデールタール人にしても、
先入観によって、
「猿と人間の中間」
と信じ込まれてしまったために、
アウストラロピテクスとジャワ原人は絶滅したゴリラの仲間で、
ネアンデルタール人は人間であった可能性があるわけだ。
もし人間が猿から進化して、
そして今も肉体的に進化を続けているのならば、
エラ呼吸できる魚のような人間がいても良いし、
羽のある鳥のような人間がいても良いし、
そしてたとえ今、そうした魚人間、鳥人間がいなくとも、
これから先、
人間がそうなっていく可能性があるわけだが、
本当にそんなことがあるのだろうか?
それに何よりも、
人間が猿の進化版であるならば、
「人間もただの動物に過ぎない」
ということになる。
では動物世界は弱肉強食であり、
強い者が弱い者を倒すことによって、
淘汰され、成り立っている。
そこに人間が介入したりすると、
自然のバランスが崩れてしまう。
こうしたことを考えた時、
人間がただの猿の仲間であり、
人間が動物と一線を引かない存在であるならば、
では白人が黒人を奴隷にしたり、
ある民族がある民族を支配することに対して、
視点が変わってしまうことさえ考えられる。
かつて白人たちは、
黒人が銃といった科学的な武器を持たず、
弱かったために奴隷支配していたが、
人間がただの猿の仲間で、
人間も動物同様に弱肉強食ならば、
その行為どんな正当な理由で否定できるというのか?
かつて白人たちは、
東洋人の国々を植民地支配して、
自由と利益を全て奪っていたが、
人間がただの動物で、弱肉強食ならば、
その行為をどんな正当な理由で否定できるというのか?
かつて白人たちは、
「我々は最も進化した人種であり、
神より政治のプロとして創られた。
野蛮でもうろくした有色人種を支配するために。
我々はその神より与えられた使命を放棄しない」
な~んて理論を組み立てていたが、
人間がただの動物であるならば、
どうやってその理論を論破するのか?
もしも大宇宙の中で、
この「地球」と名づけられた青い星が、
太陽の周りを偶然に回り、
その星の中で、
まるで風呂場にカビが発生する様に、
アメーバが、これまた偶然に生まれて、
そしてまたまた偶然に偶然が度重なって、
猿から人間へと進化を遂げて、
俺たち人間が勝手に生息していて、
そしてただ死んでいくだけの存在であるならば、
どの価値観が「正しい」とも、
どの価値観が「間違っている」とも、
それは言い切れなくなっちまう。
かつて白人たちは、
オーストラリアに住んでいたアボリジニを、
まるで動物でもハンティングして、
スポーツでも楽しむかのように惨殺し、
タスマニア島のアボリジニに至っては、
全滅させられちまったが、
人間がただのアメーバの進化版であり、
どの価値観が「正しい」とも「間違っている」とも言えないのならば、
この行為をどうやって
「悪である」という理論を組み立てるというのか?
たとえば、
殺人、強盗、詐欺、麻薬の売買など、
こうした行為を生業としている人々からすれば、
こうしたことを行った犯罪者を捕まえる警察や、
その罪を立証する検事や、
それらを裁く裁判官こそが、
悪人に見えて、
法律こそが間違っているかもしれない。
なぜなら動物の世界は、
ライオンがウサギを喰らうように、
「殺されても仕方がなく」
「盗まれても仕方がなく」
「騙されても仕方がなく」
「何を食べようが飲もうが個人の自由」
なのだから。
では人間が、
弱肉強食の動物に過ぎないのだとしたら、
どうして、
彼等が持つその間違った価値観を、
俺たちは「悪である」と、
そう言い切ることができるのだろうか?
「殺人や強盗や詐欺や麻薬の売買は、
法治国家の中で法律を破る行為であるから悪なのである」
そう考える人もいるかもしれねぇ。
じゃあ法律の無い国では、
そうした行為は悪ではないのか?
もしも仮に、
法律を破る行為だけが悪であり、
それ以外は全て悪ではないのならば、
人の心を踏みにじったり、
傷つけたり、苦しめる行為はどうだろうか?
法律に一切触れずに、
人の心を踏みにじり傷つけ苦しめることは、
可能性としてはいくらでも出来るわけだが、
ではその行為は全く「悪」でないのかといえば、
絶対の絶対にそうではない。
インターネットの世界には、
悪口という言葉によって、
互いに傷付け合う世界もあるが、
まぁ、法律に裁かれなくとも、
やはり悪はあるんだ。
あるいは人を無視したり、
仲間外れにしたり、
冷たくあしらったり、
意味もなく睨み付けたり、
自分がされたら嫌なことでも、
人間という生き物は、
自らの持つ愚かさから時に出来てしまうことが、
たっくさんあるが、
そうしたことを行うこは、
確かに「悪」だ。
なぜなら人間は動物ではないからだ。
ライオンがウサギを喰らうことは、
悪ではないが、
しかし人間が他者を蔑ろにすることは悪だ。
なぜなら人間は動物ではないからだ。
1959年に行われた『進化論100周年記念の大会』において、
ある生物学者はこう言ったそうだ。
「多くの生物学者達が、既に進化論を無視し始めている。
いや、それどころか進化論を批判することさえ、無意味だと思っている。
最初から進化論など認めておらず、反論そのものが時間の無駄だと考えている」
この生物学者の意見には、
ど~うもキリスト教的に偏りの匂いを感じるが、
しかし彼の様に、
進化論を否定する生物学者が存在するのも事実だ。
そうした進化論を否定する生物学者たちが言うには、
生物というものは環境の変化に応じて、
同じレベルの生物へと「変化」は遂げても、
高度な生物へと「進化」することは無かったからなのだそうだ。
首の長いキリンや首の短いキリンの骨は見つかっても、
中間の首を持つキリンの骨は見つかっていないように、
「変化」したとしても、
平均的な姿形は変わらなかったというのだ。
つまり小麦がグレープフルーツに成ることはなく、
また豚が羽を生やすこともないという。
すなわち進化論を否定する彼等曰く、
ある特定の種が、
種族の保存の為に「変化」を遂げて、
変種が誕生したとしても、
種の平均的な姿形は変わらず、
「進化」はなく、
「人間はサルの仲間ではない」
とそう主張する生物学者もいるわけだ。
人間も高原に住んだからといって、
腕が羽に成ることはなく、
海岸に住んだからといって、
えら呼吸をして潜れるようにはなっていない。
そうした「進化」はなく、
あったのは肌や髪や目の色が、
土地によって「変化」するのが関の山であり、
コーカソイドも、モンゴロイドも、ネグロイドも、
共に同じ人間であり、
どの種族が先に進化していることもなければ、
どの種族が後に進化していることもなかった。
じゃあ、どうしてこうも、
世界中の多くの人間が、
ダーウィンの「進化論」を信じているのか?
その理由は実に簡単。
それはさ、
ちょいと前まで世界、とくに欧米は、
聖書に書かれている「創造論」を信じていたんだ。
神様が泥をこねるように、
アダムをつくって、
そのアバラ骨からイブを作って、
息を吹きかけて、
エデンの園で暮らしていた、
な~んてさ。
科学が発達して先進国で、
この話を、そのままストレートに、
受け入れてる人は少ないだろうけど、
昔の人はこの話を本気で信じてた。
そして科学の発展にともなって、
「創造論」が壊されていった時、
人類誕生の謎を埋める、
「創造論」に変わるものといったら、
「進化論」しか無かったからね。
「謎」は「謎」のままにしとけばいいのに、
むりやり「進化論」で補ったから、
ややこしくなったと思うな。
それに人間がサルの仲間で、
人間が弱肉強食で生きていく生き物なら、
なんとも平和に向けて、
そりゃあ夢がねぇ。
夢がよ。
「人間は動物とは違うんだ!」
と、動物に対して傲慢になっちまったらいけねぇし、
人間と動物は、
この地球上で互いに支えあい、
共存共栄していくべきだが、
やはり人間は動物じゃあない。
人間社会はまだまだ未熟である為に、
弱肉強食の部分が相当あるが、
しかし互いが互いに凌ぎを削りながらも、
切磋琢磨していくこともできる生き物だ。
そして弱肉強食と切磋琢磨は違う。
さ~てさて、進化論、信じるか信じない、
そしてこの理論をどう受け止めるか、
それを決めるのは一人一人です。