日本とアメリカは、
様々な攻防戦を繰り返しながら戦争を行い、
そして1945年の夏、
広島と長崎に二発の原爆が投下されることで、
終戦を迎えた。
そして敗戦後、
日本の戦争犯罪を裁く東京裁判において、
石原寛治は「なぜ戦争を行ったのか?」と問われて、
「理由を知りたければペリーを呼んで来い」
と主張した。
そして彼は無罪判決を受けた。
この言葉をまるで裏付けるかのように、
1945年の9月2日、
軍艦ミズーリ号の上で日本降伏の調印式が行われたが、
その時に使われた星条旗は、
あえてペリー来航時のものを使用するという、
アメリカらしい演出が行われた。
当時のニューヨーク・タイムズ紙も、
「我々はペリー以来の願望を達成した。
もはや太平洋に邪魔者はいない」
と書いたほどだ。
こうしてアメリカは、
日本をついに擬似植民地にして、
自分たちの支配下に置くことに成功したのだ。
戦争は確かに憎むべき、
忌み嫌うものであり、
絶対に美化するべきものではない。
戦争で行った悲惨な体験によって、
それがトラウマとなり、
精神に異常をきたしてしまう人は、
今も昔も数知れない。
たとえばベトナム戦争を戦った五十万人ものアメリカ帰還兵は、
戦争の恐ろしい記憶に悩まされ、
ストレス症に悩まされている。
そのために、
何十万人もの帰還兵が路上暮らしをするようになり、
実はベトナム戦争で死亡したアメリカ兵よりも、
戦争が終わったあとに自殺したアメリカ兵のほうが多いのだ。
あるいはイラク戦争の時も、
アメリカの女性兵が、
イラク人男性を虐待し、
侮辱している写真を撮って、
そしてその写真が明るみになって、
世界中を驚かせたことがあった。
戦争という悲惨な日常生活の中で、
普通の女性であっても、
精神を壊してしまったのかもしれない。
しかし暴漢に襲われたら、
誰でも自分や家族の身を守ろうと闘うように、
あの帝国主義の当時は、
侵略されて植民地支配を受けないために、
日本も戦わねばならなかった。
黒人や東洋人に対する差別意識の強い時代だから、
もしも戦わなければ、
日本はあの時代に、
すでにハワイのようにアメリカの一部となっていたかもしれない。
二十一世紀を迎え、
今再び日本は消滅の危機にあるわけだが、
あの60年前の当時も、
やはり戦わなければ日本が消滅してしまう、
危機の時代であったわけだ。
もちろん当時の日本人の全てが、
当時の国際事情をきちんと把握して、
理解していたわけではないから、
戦争への召集礼状、
つまり通称、赤紙が届いて、
家族や恋人や友人を失った人もいるために、
日本人の中にもかつての戦争を憎み、
日本を恨んでいる人もいることだろう。
「赤紙一枚で私は大切な人を失った」と、
そう涙された方は多いことだろう。
しかし何よりも忘れてはならないのは、
「白人こそ優れていて、
アメリカが領土を拡大することは、
神から与えられた明白な運命である」
などと錯覚していた時代であったことを考えると、
戦争を行わずに日本を守り、
そして今の発展と繁栄を得ることはできなかった、
ということだ。
大和魂は、
第二次世界大戦まで受け継がれ、
そして敗戦色の濃くなった日本において、
世界中を神風特攻隊させたを生み出した。
多くの日本人までもが、
神風特攻隊と
イスラム原理主義者たちのテロを区別できていないようだ。
しかし日本を侵略しようとする帝国主義の時代において、
アメリカ軍人に対する自爆攻撃と、
この情報戦争の時代において、
いくらイスラム教を侮辱しているからといって、
アメリカ一般市民に対する無差別なテロ行為は、
全くもって違う。
神風特攻隊というと、
多くの人が飛行機に爆弾を積んで、
相手の戦艦目掛けて突っ込んでいくと考えがちだが、
しかし神風特攻隊の中には、
戦艦大和のような戦艦による特攻さえ実はあった。
戦時中、アメリカ人たちは、
この日本の特攻隊が全く理解できず、
「特攻隊員は鎖で操縦席に縛り付けられているのではないか?」
とか、
「麻薬中毒者を軍が利用しているのではないか?」
とか、
そんな憶測さえ飛んだ。
そして当時のアメリカ人は、
「海戦や航空戦では勝てても、
もしも本土で地上戦を行えば、
アメリカ側にもな被害が出る」
ということを予測して、
本土での地上戦をあきらめた。
だからもしも神風特攻隊がいなければ、
日本本土はもっと酷い状態になるか、
あるいは日本はハワイのように完全にアメリカの一部になって、
国として消滅していた可能性が実はある。
つまり日本が負けることは、
やる前からすでに分かっていたのだから、
神風特攻というのは、
実は相手を倒し、
戦争に勝つために行われたわけではない。
神風特攻は、
死をも恐れぬ日本男児の不屈の精神、
すなわち大和魂を、
アメリカを始めとする白人たちに見せ付けて、
そして日本男児を恐れさせて、
本土決戦をさせず、
日本を守り抜くところに、
本当の目的があったと言えるだろう。
ちなみに、硫黄島で戦った男たちも、
勝つために戦ったのではなく、
本土決戦させないために、
日本男児の強さを見せ付けることを目的とした。
この背景には、
「国が安らかであれば、
私は命を捨てても構わない」
という一人一人の想いがあり、
そしてその根底には当然のことながら、
日本の精神、大和魂があったことは、
もはや言うまでもない。
また硫黄島で戦ったアメリカ兵のヘルメットには、
人種差別感たっぷりに、
こう書かれていた。
「ネズミ駆除業者」
真珠湾攻撃直前、
第三制空隊隊長として、
ゼロ戦に搭乗する飯田氏28歳は、
部下たちにこう述べた。
「真のサムライである軍人にとって重要なことは、
最後の決意である。
たとえば私が燃料タンクに致命的な損害を受けたのならば、
敵に最大の損害を与えるために、
生還を期することなく、
目標に向かって体当たりするつもりである」
そして飯田氏たちは、
ハワイ真珠湾において、
反撃してきたアメリカ戦闘機を次々に撃墜した。
ところが飯田氏の乗る戦闘機は、
敵の対空砲火で被弾し、
ガソリンが流れ出してしまった。
彼は、他の戦闘機を帰還するように誘導すると、
手を振って仲間に別れを告げ、
反転し、ただ一機、引き返して、
アメリカ軍の飛行機工場の格納庫に突入した。
1941年の12月8日は、
イギリス領であったマレーシアにも、
日本は戦闘を仕掛けていた。
「日本を撃退するために、
空母一隻を派遣するべきではなないか?」
という軍のアドバイスを退けて、
当時のイギリス首相・チャーチルは、
こう言っていたそうだ。
「日本人のような劣った人種は、
戦艦レパルスとプリンス・オブ・ウェールズを派遣しておけば、
簡単に抑止できる」
しかし戦艦レパルスとプリンス・オブ・ウェールズは、
「劣っている」とみなされていた日本人によって、
わずか二時間で沈んだ。
チャーチル首相は、
その知らせを受けて、
のちにこう述べたそうだ。
「私は一人きりであることが幸いだった。
戦争の全期間を通じて、
私はこれ以上の衝撃を受けたことがなかった」
ちなみに1971年のパールハーバー三十周年で、
アメリカ海軍は飯田房太氏の戦いぶりを、
「敵ながられ」とたたえて、
彼の慰霊碑を建てている。