個性と大切にして、ちょっと無理をする | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

さ~て、さて、
書くことが思いつかないので、
やはりまた「愛」について、
あるいは「優しさ」について、
語らせてもらう。


昔、ある時、
仏陀が説法するという話を聞いて、
大金持ちの人が何万本ものロウソクを寄付して
暗い夜道に並べた。


しかしある人は貧しい為に、
僅か一本のロウソクを寄付することがやっとだった。


しかし大金持ちの何万本ものロウソクの灯火は、
風に揺られて大きくなったり小さくなったりしながら、
暗い夜道を照らし、
明け方には燃え尽きてしまったが、
不思議なことに貧しい人が
差し出したロウソクだけは、
いつまでも煌々と燃え続け、
次の朝を迎えて人が消そうとしても、
消えずに燃え続けたという。


この話は、
富者の万灯の寄付よりも、
貧者の一灯の寄付の方が尊い
ということを教えてくれている。


大金持ちの時に寄付することは簡単なことだ。


難しいのは貧しい時に寄付をすること。


人生が順境にいっている時こそ、
人に優しく生きることは簡単であり、
逆境の時に人に優しく生きることこそが、
我々にとって難しい。


マザー・テレサは、
ある時、
とある貧しい家の人に、
自分の持っている僅かな食料を差し上げたそうだ。


なぜなら、
その家では幼い子供が何人もいたのだが、
その人達は何も食べていなかったからだ。


しかしマザーから食料を受け取ると、
母親はその食料を持って、
慌てて家を飛び出していった。


マザーがその母親の後を追うと、
なんとその母親は、
裏の家の母親に食料を分け与えていたという。


そしてその母親はこう言ったそうだ。

「裏の家に住んでいる人達も、
ここ数日何も食べていなかったから・・・」


自分が健康な時に
病気の人を見舞うことは簡単なことだ。


難しいのは、
自分が病院のベッドで横たわっている時に、
周りで同じ様に苦しむ人々に、
笑顔で暖かい言葉を投げかけてあげることだ。


自分が成功にいる時に、
誰かの成功を喜んであげることは簡単なのかもしれない。


難しいのは自分が失敗して苦しんでいる時に、
誰かの成功を共に喜んであげることではないだろうか。


たとえどんなに苦しい環境に置かれようとも、
父として、母として、
夫として、妻として、
男として、女として、
そして人間として・・・
こうした誇りを失わずに、
優しく生きることが難しいのかもしれない。


愛とは情熱だ。


だから愛は熱い。


優しい人は熱い。


冷たい愛など存在しない。


「自分が富を得たい」
「自分が名誉を得たい」
「自分が遊んで暮らしたい」
こうした「自分が、自分が」という欲望も、
確かに熱く感じる。


なぜなら欲望の中にも情熱はあるからだ。


だから執着の塊になっている人も熱さを持っている。


しかしその熱さは、
己の身を焦がし、
時には孤独を生み出し、
最終的には人生を滅ぼすことさえあり、
そしてその熱さは、
簡単に冷めることさえある。


マザー・テレサも、ヒトラーも、
共に情熱を持っていたが、
しかしその情熱は全く質が異なる。


なぜなら愛には、
欲望とは全く異なった聖なる情熱がり、
清らかな熱さがあるからだ。


執着の持つ熱さ、
それは氷で人が火傷するのにも似ていて、
人間が持つ、真の熱さではない。


なぜなら、愛こそ、優しさこそ、
人間の本当の熱さだからだ。


そしてその熱さ故に、愛は持続する。


自分が順調の時だけでなく、
たとえ逆境の時であろうとも、
情熱を含んだ熱い愛を持っているのならば、
その愛は続いていくのだ。


ほんの一時だけの優しさなど、
本当の優しさなどと、どうして言えるのだろうか?


そして愛を持続させていく為には、
やはり智慧が必要だ。


たとえば全財産を売り払って、
貧しい人々に寄付したところで、
その後の人生が、
ずっと誰かに頼り続けない人生であったのならば、
やはりその愛には、
智慧が不足していたと言えるだろう。


会社の社長が、
全財産を売り払って寄付するよりも、
黒字経営を行い、社員たちも幸せにして、
そして会社を発展させながら、
寄付を続けることのほうが、
多くの人々を救っていくことができるように、
愛は持続させるためには、
智慧が必要不可欠である。


そして愛には、
やはり「個性」がある。


愛にもカラーがあるわけだ。


激しい激烈な個性をお持ちの方であるならば、
吉田松陰や坂本竜馬のように生きることだろう。


しかしパブロ・ピカソのように、
芸術を通して、絵画を通して、
戦争反対を訴える人もいる。


彼が書いた「ゲルニカ」という作品は、
ナチス・ドイツが、
スペインのゲルニカという町に対して
行った爆撃を抗議している。


この作品からは、
戦争の悲惨さ、
人々の苦しみや、叫びが伝わってくる。


ピカソは、芸術を通して、
愛を行ったわけだ。


自分の個性にそぐわない愛は、
やはり持続していかない。


だからそこにもやはり、
智慧が不足していると言えるだろう。


マザー・テレサは絵を描かず、
吉田松陰はスラム街におらず、
パブロ・ピカソは政治を行わないわけだ。


皆、同じように愛を持っているというのに。


だから

自分の出来ることを、
自分の出来る範囲で、
自分の個性を認めながら、
自分の智慧を磨きつつ、
そして人は自分には甘くなりがちだから、
ちょとだけ無理をして、

優しく生きていくことが大切と言えるだろう。