ある荒野に、
まるで牛の様な大きな鹿が二匹いた。
二匹の鹿は、
互いに目をつり上げて、
角を絡ませ合って闘っている。
引いたり押したり、
押したり引いたり、
そんな駆け引きが永遠と続いている。
そしていつの間にか、
二匹の角は堅く絡まって、
外れなくなってしまった。
少しどちらかが力を緩めて頭をひねれば、
簡単に鹿の角は外れるのだが、
どちらの鹿も、
「自分が、自分が」という心しか持っていないので、
自分が勝つことばかりに必死になって、
力を緩めない為に、
絡み合った鹿の角は外れない。
残念なことに、
やがて二匹の鹿は力尽きて死んでしまった。
この二匹の鹿の話を聞いて、
誰もが「何と愚かなことだ」と、
そう思うことだろう。
しかし、この二匹の鹿こそ、
我々人間の象徴でもある。
「愛」とか、「優しさ」というものについて、
幾度となく、語らせてもらってきたが、
こうしたことを考えた時、
「欲」とか、「傲慢さ」ということが、
今度は気になってくるものだ。
では、
「欲」とか、
「傲慢さ」とは、
果たして何だろうか?
「利益」という言葉を、
あえて使わせてもらうけど、
「他の存在」に対して、
何らかの「利益」を与えようする、
「利他の心」のことを、
「愛」と呼ぶならば、
「欲とは利己的な心のことである」
と、
そう表現することができるはずだ。
もちろん我々人間には、
必要な「欲」もたくさんある。
食欲や睡眠欲が無ければ、
人は生きてはいけない。
性欲がなければ、
おそらく人類は絶滅しているはずだ。
財産の蓄えが無ければ、
病気の時や子供が入学する時も大変だから、
蓄財欲も決して否定し切ることなどできない。
たとえ貧しい人々に対して、
食料を与えたいからといって、
自分の全財産を売り払って与えてしまったら、
今度は自分が誰かに養ってもらわねばならず、
迷惑をかけることにもなりかねない。
この様に自分のことを考えることも、
人間にとってある程度は大切である以上、
当然ながら「欲」というものも、
ある程度は大切だ。
それに人は誰もが
「もっと幸せになりたい」、
あるいは、
「このまま幸せでいたい」
と、
そう心の中で想っているものだが、
その想いを詳しく眺めてみると、
利他的というよりは、
やはり利己的と言えるだろう。
マザーテレサは、
「貧しい人の中でも、最も貧しい人に与えたい」
と、そう語り、
そして、
時には石を投げつけられ、
時には誹謗中傷され、
時には詐欺に騙されることさえあったが、
実際に貧しい人々に、
愛を与え続けることができたわけだから、
彼女は幸せな人生を歩んだ。
「幸せ」は、
人によって、
個性によって、
それぞれであるが、
彼女には彼女の幸せがあり、
そして彼女はその偉大な幸せを、
やはり望んだのであり、
それは何とも清らかで汚れない欲に他ならない。
だから「欲」というものは、
見方を変えてみると、
「人間の幸福を求める心」
とも表現できるかもしれない。
つまり、
「全く一切の欲を持っていなければ、
人は幸せに生きていくことはできない」
とも、
確かに言えるわけだ。
マザー・テレサは若い頃、
「自分たちは貧しい人々に
愛を与えて生きていくのだから、
最低限度の米と塩さえあればいい」
と考えていた。
しかしそれでは与える側の仲間がバテてしまう。
だから、
やはり体力の付くきちんとした食事が、
人間には誰にでも必要であることを、
彼女も悟ったそうだ。
この様に、
もしも人間が欲を完全に否定し切ったら、
幸せに成るどころか、
僅か一週間もしないで死んでしまうだろうし、
それでは誰かに愛を与え続けることもできない。
やはり人間が、
誰かに愛を持続して与え続けていく為にも、
欲というものも、
ある程度は必要不可欠であると言える。
しかし我々人間という生き物は、
不必要なまでに、
この「欲」というものを、持ってしまうことも、
残念ながらあるものだ。
そしてその不必要なまでの「欲」のことを、
「執着」と呼ぶことができるわけだ。
お金も、人生の道具として大切だし、
人から評価されることを望むこと自体も、
決して悪ではない。
なぜなら仕事を行っていくためには、
社会的な評価や地位も大切だからだ。
あるいは食事も人間には大切だし、
人類が繁栄するためには、
男女の性的な営みも重要と言える。
しかし我々人間は、
富や名誉や地位、
そして快楽というものに対して、
過剰なまでに執着してしまうこともあるのだ。
そして執着して、
物質的な喜びに埋没していくことで、
いつしか不健康となり、
散財し、
人間関係を壊して、
不幸せのドン底を生きてしまうことさえ、
やはり現実にあるわけだ。
欲も大切だが、
多すぎる欲は滅びを招いてしまう。
自己保身欲によって、
自分を大切に想い、
プライドを守ることは、
人間が尊厳を持って生きていく以上、
とても大切なことだが、
しかし我々人間は、
自分を可愛く思い過ぎるあまり、
自己保身に走り過ぎてしまい、
つまらないプライドまで、
捨てることができなくなることなど、
いくらでもある。
「自分はかつて社長だった」とか、
「自分は一流大学を出た」とか、
「自分はこうした功績を残した」とか、
そうした過去の栄光にすがり、
自分を偉いと思い過ぎていることなどよくある。
そしてその結果、
自分を小さく、
弱くしてしまうことも、
俺たち人間にはよくあるものだ。
名誉も人間にとって大切だが、
しかし自分自身を不幸せにしてしまう、
不要な高すぎるプライドなど、
実は無いほうが良く、
俺たち人間が、
人生という旅路でつまずき易いのは、
おそらくこの「自己保身欲」や「名誉欲」と言えるだろう。
そして、
こうした「執着」という過ぎた欲望から、
「自分さえ良ければ構わない」という、
他の人々を平然と不幸にできる「傲慢な想い」さえ、
時には生み出されてくる。
謙虚さを欠いた「傲慢さ」というものが、
時に我々人間から、
生まれてしまうことがあるが、
しかしそれは、
「自分は凄い、自分は偉い」
と思うことによって、
人に対する思いやり、
そして礼の精神を忘れているのである。
だから何かに対する執着こそが、
俺たち人間の傲慢さと言えるだろう。
なぜなら我々は、
富に対して、
地位に対して、
名誉に対して、
快楽に対して、
「欲しい、欲しい」と不必要なまでに欲望を持つことで、
自分のことを考え過ぎてしまうあまり、
いつしか他人に対する優しさを忘れていくからだ。
優しさとは愛であるが、
傲慢さとは執着である。
つまり人は、
執着心を燃やすことによって、
愛を忘れていくのだ。
だから執着こそ、
争い元のであり、
そして苦しみの元であるわけだ。
人間にとって欲望もある程度は大切だが、
しかし人間は欲望を持ち過ぎると、
それが執着となり、
そして優しさを忘れて傲慢になってしまい、
いつしか自分で自分の首を絞める様に、
自ら苦しみを作り出して、
他人を苦しめ、争いを生みだすのだ。
この自分を傷つけるばかりか、
他人をも傷つける、鹿の角のような
「自分が、自分が」という執着を、
反省によって絶っていきなさい、
無我の境地へと近づいていきなさい、
そう仏陀は教えているわけである。
仏教とは、無我の教えである。
そして氷を溶かすことで、
水が現れるように、
人は己の傲慢さを悔い改めた時、
「優しさ」という他人の心を潤す水が、
自然と現れ始めるのである。
そのために、愛を説いたイエスの第一声は、
「汝ら悔い改めよ」
であった。
キリスト教も、仏教も本質的には、同じであり、
万教は同根であり、
「別のもの」
としか見えないのは、
地上に生きる我々人間の幼さにしか過ぎない。
そしてその幼さによって、
宗教紛争が何千年も続いているために、
人類には二匹の鹿のように、
滅びの可能性があるのだ。
ならば悔い改めるべきは、果たして誰であろうか?