愛とは自然なもの | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

さ~てさて、
書くことがなくなったから、
「愛」について書くんじゃなくて、

ブログを読んで下さったある方とのやりとり中で、
まぁそういった話になったから、
「愛」について書くことにしました。


「欲」というものが、
「自分の幸せを想う利己的な心」
だと考えた時、

愛とは、
「他の誰かの幸せを想う利他的の心」
であるが、


それはつまり、
愛とは見返りを求めることのない
「無償の心」であることが明らかになる。


なぜなら、
誰でも、
砂や泥の混ざった、
濁った水を飲み干すことができない様に、
愛を与えようとする心の中に、
もしも己の利益を求める心が、
入り込んだのであるならば、
それは既に愛ではなく、
ただの欲となっているからだ。


たとえば誰かに愛を与えておいて、
相手に感謝されることを求めたり、
人々から評価されることを求めるのならば、
そこに真実の愛があると、
果たして本当に言えるだろうか?


そうした見返りを求めて、
愛を与えようとする人を見て、
俺たちはその人を、
「優しい」と感じるだろうか?


たとえばある人が、

チャリティーゴルフか何かに参加して、
そして人々の前で、
派手に寄付金を差し出しておいても、
実は心の中では、
「私は人々からの評価されたくて、
 相手から感謝して欲しくて与えています」
と思っていることが明らかになったら、
おそらく俺たちは、
その人を「優しい」とは思わないだろう。


イエスも言ってる。


「偽善者達は人々から賞賛されるために
 あえて人目のつくところで与える。
 しかし貴方が誰かに与える時は、
 右手が何をするかを、
 貴方の左手に知らせるな」
と。


つまりイエスという方は、
「あえて人目のつくところで、
 与えるのは偽善であり、
 愛を与えるのならば、
 自分の左手にさえも教えてはならない、
 そうした無償の愛こそ、
 本物の愛である」
と、
とても極端な表現を用いて、
真実の愛とは如何なるものであるのか、
それを教えたわけだ。


水は高い所から、
低い所へと自然に流れてゆくものだ。


無理することなく、
あるがままに・・・

水は上から下へ

重力に引かれて流れていく。


逆に低い所から高い所へは、

水は流れていかない。


無理をしている不自然な水は、
誰も見たことがないはずだ。


これと同様に、
「与えたい」という想いは、
自然に心から湧き出てくるものだ。


誰かを愛すれば、
「幸せにしたい、不幸せにはしたくない」
という想いが、
俺たちの心という名の井戸から、
自然に湧き出てくるものである。


母と成った人が、
我が子に乳を飲ませるのに、
果たして何か無理をしているだろうか?


父と成った人が、
妻や子を守る為に闘うのに、
そこに何の無理があり、
何の汚れた想いが混じるのだろうか?


いや、

そこには何の汚れた想いもないなどない。


愛とは、
水が無理することなく、
自然に高き処から低き処へ流れるが如く、
無理すること無く、
自然に当たり前に向けられるものである。


つまり自然に沸き出して来る水であるからこそ、
美しい水である様に、
愛とは自然に湧き出る無色透明なものである。


マザー・テレサは、
「貧しい人の中でも、最も貧しい人に与えたい」
そう語って、
スラム街で死に行く人々に対して、
ウジ虫を取り払ったり、
身体を洗ってあげたり、
優しく微笑んで言葉をかけたりした。


サリーと草履とバケツしか持たずに、
そうした奉仕の行為をおこなう彼女を目の当たりにして、
ある女性記者は思わずこう言葉をもらしたそうだ。


「私には理解できない。
 私は何千ドル積まれても、
 彼女と同じ生活はできないだろう」


するとその女性記者の言葉を聞いて、
マザーはこう答えた。


「私にもできません」


つまり、
一切の見返りを求めない、
愛の奉仕行為であるならば、
彼女はできるが、
しかし見返りとしてお金を貰う様な、
そんなビジネス行為であるならば、
「できない」
と、

そうマザーは言ったのである。


母は我が子を優しく抱いて、
そして大人になるまで養い育てていくが、
しかしそのそれは愛があるからこそ、
できるのであり、
もしもビジネスであったら出来るわけもない。


父は妻や子を守り、
そして幸せにするために、
汗水流して働くが、
しかしそれは当然のことながら、
愛無くして出来るわけもない。


俺たち人間には、
愛があるからこそ、
できる行為が確かにあるわけだ。


そしてマザー・テレサの様な、
愛広く、
愛深い人は、
普通の人にはなかなか理解できない行為が、
ごく自然に、ごく当たり前に行えてしまう。


この様に、
確かに人によって愛の量は違う。


愛を向ける幅の広さも、
その向けた愛の深さも、
確かに人それぞれ異なるわけだ。


それは言い方を変えるのならば、
「ある人の愛の次元と、
 ある人の愛の次元は明らかに異なる」
という表現もできるかもしれない。


そのために、
広く深い愛を持つ人を、
狭く浅い愛しか持たない人は、
実はなかなか理解することができない。


母親、父親に成ったことの無い人が、
父や母がどうして子供に対して、
自分以外の人間に、
あれほどまでに深い愛を注げるのかと、
時には疑問に感じて、

時には理解できないことがある様に、
自分の持たない愛を、
俺たち人間は、

実は理解することはなかなかできない。


すなわちマザー・テレサが、
どうして自分とは何の縁も無い人々に対して、
広く深い愛を注ぎ続けることができたか、
それを理解し尽くすことは、
彼女と同じ次元の愛か、
彼女以上の次元の愛を持たない限りは不可能、

ということだ。


それは小さなコップで、
大海の水を計る作業にも似ている。


あるいは小さな背丈で、

山の高さを測ろうとしているのにも似ている。


だから哀れで、哀れでならないが、
愛を忘れた人から見れば、
マザー・テレサは、
変人か狂人、
もしくは偽善者になってしまうわけだ。


そして何度も、何度も、
述べてきたが、
「国」というものは、
人生の土台である。


だから「日本」とは、
日本人の人生の土台である。


つまり俺たちが、
この国を愛するということは、
この国に生きている自分の家族、
友人、恋人、

そして名も知らぬ人々、
もしくはこれから生まれてくる子どもたち、
あるいはこの国を築き上げてきた方々、
こうした人々を愛しているにも等しい。


だから「政治」という仕事に就かんとする者は、
誰よりも、誰よりも、
そうマザー・テレサのように、
人を愛する者でなくてはならない。


富や名誉が欲しくて、
人を愛せない偽善者は、
政治という仕事には、
絶対に、絶対に就いてはならない。


なぜなら、

それは何ものにも変え難い災難が、

大勢の人々を襲うことになるからだ。


それに誰よりも人を愛し、

国を愛する者ならば、
「人々に役立ちたい、
 国に尽くしたい」
と思うことだろう。


そして、

本気でそう思える者ならば、
自然と政治と経済の知識など、
増えていくのだから、
俺たち国民は、
政治家を選び出す時、
その人間の家柄や容姿や学歴を見るのではなく、
愛と欲望こそを

冷静に見極めるべきではないだろうか?


愛とは自然なものであり、
無償のものであり、
誰かに対して、
ただ自然に与えたいから与えるのであり、
自分が誰かから感謝されたいから、
自分が名誉を得たいから、
自分が何らかの役職に就きたいから、
不自然に与えるのでは、
それはもはや真実の愛ではない。


なぜなら何らかの見返りを求めるならば、
その心は、
誰かの幸せを考えているのではなく、
実は
自分の幸せが目的だからだ。


つまり見返りを求めた時、
愛は死に、
愛は愛でなくなるのだ。


この現代の日本には、

果たして死んだ愛がどれだけあるのだろうか。