愛は時に峻厳でもある。 | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

愛というものが、
相手の幸せを想うものである以上、
必ずしも相手が今現在、
欲しいと望んでいるものを与えることが、
正しい愛になるとは限らない。


時には、
相手が全く望んでいないことを与えることが、
正しい愛になる場合もある。


なぜなら私たち人間という生き物は、
何も知らずに生まれてくるために、
必ずしも自分が本当に幸せになれる生き方を
選び取れるとは限らないからだ。


人は「どう生きたら幸せになれるか」が分からず、
時には自分の愚かさの為に、
やがては不幸せになる人生を、
自分から歩み始めることもあるのだ。


アリストテレスは
「人間の行動の全ては、幸せを求めて行われている」
と述べたが、
薬に手を出して体をボロボロにする人も、
泥棒に成って刑務所に何十年も入る人も、
不倫を犯して家庭を崩壊させる人も、
暴力の世界の中で闘争と破壊の日々を過ごす人も、
自分から人間関係を破壊して孤独に突き進む人も、
自分が幸せに成りたくて、
そして自分は幸せになれると信じて、
そうした行為や生き方を選んだのかもしれない。


自分が何かに判断を下して、
その時一瞬は、
たとえ幸せな感覚を味わうことができたとしても、
長い時間が経過してみると、
とんでもない苦しみが待ち受けていることなど、
私たち人間の人生にはよくある。


だからこそ正しい愛とは、
時には相手が望んでいないことを、
口にしたり、行うこともありえるわけだ。


幼いヘレン・ケラーをたとえにするならば、
彼女には努力して勉強することがとても大切だった。


しかし何も知らない彼女にしてみれば、
それが全く理解できない。


その為に彼女は、努力を拒み、
甘い飴玉を欲しがり、堕落ばかり望んだ。


そうした時に、
もしも彼女が望んでいるからといって、
その場だけを取り繕い、堕落だけを与えて、
彼女に何も努力させなければ、
結果的に彼女の魂の輝きを奪い取り、
彼女自身苦しめることになっただろう。


この様に、
相手を本当に幸せにする為には、
時には相手の望みを叶えないこともあるのだ。


だから愛とは、
時にポカポカと暖かい太陽の様な穏やかさもあるが、
時には北風の様な厳しさをも持っている。


愛とは時に寛容であり、時に峻厳でもあるのだ。