秋葉原事件の初公判。
さて、心の専門家である以上、
私も意見を述べさせてもらおう。
最近、親鸞聖人に関する本を、
作家の五木寛之が書かれたそうだが、
世に仏教好きは多くとも、
本当の心の専門家が
果たしてどれだけいるのだろうか?
まず水の入ったグラス、
あるいはバケツを思い出して欲しい。
その水が私たち人間の心とする。
そこにポタポタと、
黒い墨汁が落ちてくる。
そのために、
透き通った清い水でも、
少しずつ、少しずつ、
汚れていってしまう。
そう、少しずつ、少しずつ。
かつて仏陀は、
「人生は苦である」と説いた。
「生老病死」
この地上に無力な赤子として生まれてくる苦しみ。
やがて老いさらばえていく苦しみ。
病や怪我による苦しみ。
そして死の苦しみ。
人間である以上、この四つの苦しみは避けられない。
そして
愛別離苦という愛する者と離れる苦しみ。
怨憎会苦という憎み嫌いな者と出会う苦しみ。
求不得苦という求めても得られない苦しみ。
五官盛苦という五官肉体に振りまわされる苦しみ。
これらの四つの苦しみも、やはり人生にはつきもの。
これら「四苦八苦」という。
そしてどんなに修行が進んだ、
心清い僧侶であろうとも、
美しい女性を見れば
心の針は右に左に揺れ動く。
これは五官盛苦だろう。
自分より悟り、出世し、
評価されている者を見れば心の針は揺れ動く。
これは求不得苦と言えるだろう。
誰かに批判され、誹謗され、中傷されれば心は揺れ動く。
これは怨憎会苦だろう。
そして妻や夫、あるいは親や兄弟や友などに先立たれたら、
やはり心の針は揺れ動く。
これは愛別離苦である。
人生が苦しみであるとするならば、
それはつまり、
私たち人間の心の針を揺れ動かす出来事が、
必ず人生には訪れるということである。
そして心の針が揺れ動いた時、
透き通った水の中に、
墨汁が落ちるのである。
同じ出来事であろうとも、
ある人はそれが一滴かもしれないが、
しかしある人は四滴も、五滴も墨汁をこぼす。
こうして、透明だった心は、
少しずつ黒く汚れていってしまう。
抽象的に言っているが、もっと分かり易く言おう。
人生には五官盛苦が訪れるために、
美しい女性を見て、
妻や恋人がいるにも関わらず、
誰かをデートに誘おうと思うかもしれない。
人生には求不得苦が訪れるために、
自分以外の誰かが出世し、評価されているのを見て、
チクショウと想い、その者を妬み、
その者の評価を下げようと、
悪口を言ったり、
どこかに誹謗中傷を書き込むかもしれない。
人生には怨憎会苦が訪れるために、
誰かに批判され、誹謗されたら、
その相手を憎み、恨み、
仕返ししてやろう、復讐してやろう、
殴ってやろう、殺してやろうと、
そう考え始めるかもしれない。
そして人生には愛別離苦が訪れるために、
愛する者と別れた時、
悲しみに打ち砕かれて、希望を失い、
自分を悲劇の主人公に追い込んでいくかもしれない。
このように心の針を、
右や左に揺れさせれば揺れさせるほど、
心という水の中に、
たくさんの墨汁が垂れていくのだ。
大切なことは一つ。
それは心の針を正すこと。
色情に惑わされたり、
妬んだり、
憎んだり、
悲しみに打ち砕かれて希望を失うことなく、
安らかな心を取り戻そうとすることであり、
そして心の中に優しい水を流し込んで、
キレイにしていくことであり、
あるいは心の中に入り込んだ墨汁を取り除いていくことだ。
それを行うために、
仏陀は八正道という反省を説いた。
正しく見たか、(正見)
正しく思ったか、(正思)
正しく語ったか、(正語)
正しく働いたか、(正業)
正しく命を使ったか、(正命)
正しく精進したか、(正精進)
正しく理想を描いたか、(正念)
正しく心を落ち着かせ、
己の心を見つめたか、(正定)
そしてこうして正しい反省を行う先に、
悟りという名の人間としての成長があり、
この悟りによって、
人は四苦八苦に簡単に心を揺らさなくなっていく。
人生の苦しみを断ち切る刃こそ、
悟りという人間としての成長に他ならない。
こうしたことを考えた時。
秋葉原事件を犯した者も、
明らかに心清らかな赤子として、
そう、まるで天使のような赤子として、
この世に生を受けたことだろう。
しかし彼は長い月日の中で、
心の針を右に左に揺らし、
心の水を真っ黒に汚し、
別人へと変貌を遂げていった。
そうまるで悪魔に心を支配されるかのように。
そしてまるで別人に魂を乗っ取られるかのように、
そう時には記憶さえ失って、
人々の生命を奪ってしまったのだ。
悪いことを想うこともあるだろ。
人間なのだから。
憎しみ、妬み、自己卑下的な思い、
を抱くことも、希望を失いかけることもあるだろう。
人生には苦しみが訪れるのだから。
しかし心は自由である。
悪いことを想い続け、心を悪魔に支配されることも、
あるいは悪しき想いを断ち切ることも、
そして優しき心をさらに磨きあげて、
天使に近づいていくことさえも、
我々の心は自由だ。
罪を犯す者の全てが、
そう全てが、
心の自由性を間違った方向に使っている。
心を汚したのは、
社会ではない、親ではない、世の中ではない、
自分自身である。
人は心に対する己の努力次第で、
心を優しくもできれば、
心を汚すこともできるのである。
私たちにとって大切なこと、
それは悪しき想いを断ち切り、
優しき心へ水を注ぐことである。