どこかの一個人が、タテマエ上は、
「愛」や「平和」という言葉を口にしながらも、
何億ドルも資産を持っていたりと、
やっぱり矛盾がある。
一体、どうすりゃ、貧しい人にパンが行き渡るのか?
マザー・テレサは、
サリーと草履しか持たずに、
貧しい人々に愛を与え続けたが、
じゃあ、どうして彼女にはそんなことできたんだろうか?
そりゃあ、
「彼女が聖人だった」と言っちゃあ、
もともこもねぇが、
何が違うって心が違うんだけど、
やっぱり「幸福観」、
あるいは「価値観」が違うんじゃあないだろうか?
ここで、どうか考えて頂きたいんだ。
本当にロマネコンティが美味いかどうか。
本当に一流シェフが作る料理が美味いかどうか。
人間の舌なんざぁ、実はそんなに繊細じゃあない。
日本で有名な某一流ソムリエも、
何十万円の高級ワインと、
数千円のワインを見抜けなかったくらいだ。
「舌が肥えている」と自慢のセレブマダムも、
子どもに適当に料理作らせて、
それを見栄え良く盛り付けしたら、、
「素晴らしい味付けです」だって。
人間の味覚は、実はあんま大したことねぇんだ。
満腹の時に食う、
フォアグラのソテーよりも、
空腹の時に食う、
カップラーメンの方が美味かったりするもんだ。
「いや、空腹の時に食う、フォアグラのソテーが美味い」
って考え方もあるだろけど、
でも食事に執着してると、太るぜ。
そして太れば、健康を害す。
健康を害せば、そりゃあ人生は辛いもんだ。
だから食事にこだわって執着せずに、
健康に気を使って大切にした方が、
実は人生は楽しく生きられるんじゃないだろうか?
一人で飲む高級ワインなんかより、
みんなで呑む下町のナポレオンの方が、
本当は楽しくて、
笑いに溢れてるんじゃあないだろうか?
人間の本当の喜びってぇのは、
高級ワインや食事にあるんじゃなくて、
人間関係にあるんじゃないだろうか?
妻や夫、子供や両親、兄弟や友人など、
そうした人々との触れ合い、
優しい心と優しい心が互いに密接に関わるからこそ、
人は真の喜びを享受して、
幸福を味わうんじゃあないだろうか?
つまり、確かに人間関係というものは、
時に大きな苦しみにもなったりするが、
時には大きな喜びにもなり、
人間の本当の幸福は、
人間関係の中にこそあるんじゃあないだろうか?
そして人間関係を、喜びにしていくものこそ、
己の心であり、人間としての成長なのではないだろうか?
確かに誰でも働きづめで、
息つく暇なく努力し続けたら、
そりゃあ疲れちまう。
たとえ志を持って、天下国家のために生きようとも、
たまには花を見て楽しむゆとりがなけりゃあ、
そりゃあ、心が疲れちまう。
だからたまには「休息」が必要であり、
オイラも、たまに心休めに酒を喰らう。
しかしさ、毎日、毎日、酒飲んで遊んでたら、
そりゃあ「休息」じゃなくて、
ただの「快楽」じゃあないだろうか?
「休息」は、
自分がさらに働いて、
努力していくために必要だが、
「快楽」は、
努力することを忘れて、
ただ堕落してんじゃあないだろうか?
一杯の酒が、
休息にもなれば、快楽にもなり、
努力にも繋がれば、堕落していくことにもなるのかもしれないな。
こりゃあ、なんとも難しい。
こうしたことを考えた時、
「快楽と優しさは矛盾している」
って言えるね。
もちろんマザーテレサは酒は飲まないが、
もしもマザーテレサが、
まったく休息をとらずに働き続けていたら、
それじゃあ彼女も死んでしまう。
しかしもしも彼女が快楽に没頭していたら、
彼女から愛を与えられずに苦しむ人々がいる。
この「快楽と優しさは矛盾する」ってことは、
なにもマザーテレサのような
大きな愛だけに当てはまることではなく、
十分に一般家庭にも言えることかもしれない。
父親がギャンブルば~っかりしてたら、
家族はどうなるだろうか?
母親がゴルフ三昧で遊んでば~っかりいたら、
家庭はどうなるだろうか?
父親にも、母親にも、
当然ながらたまには休息は必要だけれども、
休息ではなく快楽に没頭した時、
家族や家庭に対する優しさを
実は忘れているんじゃあないだろうか?
優しい人、
それは休息することはあっても、
快楽に没頭することはなく、
うまずたゆまず努力精進して、
人に愛を与え続けようとする人ではないだろうか?
そしてあんまりにも世界が快楽的だから、
いつまで経っても
飢える人が後を絶えないのかもしれないな。
「花を見るゆとりを持つことと、
蜂蜜に酔いしれて、
足もとふらつかせるのはわけがちがう」
そう言えるんじゃあないだろうかね。