こんにちは。
明日から始まる『むらのわ座談会』
どうしてこういう会をしようと思ったかという
今日はそのお話しをしたいと思います。
森達也さんの「いのちの食べかた」という本の終わりの方に
だまされることの責任、という文章があります。
映画監督の伊丹万作が昭和21年8月の「映画春秋 創刊号」に書いた
「戦争責任者の問題」というエッセイの引用です。
「さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。
みながみな口を揃えてだまされていたという。
私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。
ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。
多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、
はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。
たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、
軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。
上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。
すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、
わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
(中略)
つまりだますものだけでは戦争は起らない。
だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、
戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)
当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、
ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、
あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、
家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた
国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。」
(全文はこちらで読めます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html)
いまの私たちはどうでしょう?
未来は自分の手にあるでしょうか。
わたしはこの文を読んで、あぁ、と思いました。
知っているつもりのこと、
みんなのあたりまえ、
それらは本当に普遍的なことだろうかと
もう一度、机の上に並べて眺めてみなければと思い
太陽庵の大野さんに、キックオフのお話しをお願いしました。
ご参加いただけたら大変うれしいです。
初回はどんな会になりますか、楽しみです
木花(コノハナ)