日記を書くという行為は、自分の習慣にはなかった。この先も長くは続かないだろうなと思っている。
(画像は、1番目の記事で紹介したwebゲーム『ゆめにっき』です。)
文学の上では、日記は様々なものがあり、いくつかのレベルというか種類がある。
パッと思いつくのは、作家のダイレクトな日記だ。アンドレ・ジッドの日記や、カフカの日記。しかし、ダイレクトといっても、それが作家が本当にただ自らのためだけに密やかに書いていたものなのか、公表する(あるいはされる)かもしれないと思ってしたためていたものか、判然としない。フランツ・カフカはつねに"書くこと"に対して真剣だったので、ストイックなまでに研ぎ澄まされた文章が続き、どちらかというと日々の備忘録のような風味になり下がってしまうジッドの日記(それでもやはり華々しい作家の日々だけあってかなり面白い)と比べて、断然読みごたえがある。カフカという人はどこまでも素晴らしい作家だ。
それから、最近読了した三島由紀夫の『豊饒の海』では、松枝清顕という主要な人物がいるんだけど、その松枝清顕が自身が夜な夜なみた"夢"を、起きているときに回想しながらしたためた「夢日記」が、作中において核となるような役割を果たす。こちらはかなり面白そうである。夢の内容も相当面白い。
あとは、作中において日記の内容がそのまま小説の物語になっているような日記だろうか。書簡形式の小説というものは多いが、日記形式の小説というものも、相当多い気がする。思い出すのは、谷崎潤一郎の『鍵』だ。詳しくは書けないが、男と妻の、お互いがこっそり読まれるのを意識しながらという滅茶苦茶な雰囲気の中で書かれた日記たちを、往復して記述している小説である。夫から観察した一日(と妻の様子)、妻からみた同じ日(と夫の様子)が交互に描かれるので、お互いの思惑の重なりや行き違いが、読者に予想がつかないというドラマとダイナミズムを与える。谷崎文学の中で僕が一番好きな作品だ。
日記というのは、文学と深く結びついている。以上述べた中でも、フランツ・カフカの日記は、世界文学史に永遠に残るような"作品"であろう。そのような素晴らしい内容の日記の数々に比べて、僕がwebにっきとしてパソコンでかたかたかたかた打っている文章の儚さは報われがたいものがあるが、これを読んで少しでも面白いなと感じてくれる人がいたら嬉しい(いまのところこのブログのPVは0に等しいみたい)。