戦後の生温い平和に飼い慣らされてきた僕らは、とても貧弱になってしまったコップの中のノミみたいだった。
コップの中に閉じ込められたノミは次第に跳ぶことをしなくなる。
それから、重っ苦しい現実に対しては思考を停止してしまい、目を背ける人々の姿が多く目についた。
この現象も、やはり現代教育の結果として特徴付けられるものだと僕は思った。
現に、僕もよく親や周囲の大人達に言われ記憶がたくさんあった。
何か人生の中で問題にぶつかると、そんなこと考えているから頭が変になるのだと。
僕は、今でもそれは違っていると思う。
そこに社会的矛盾があるから躓き悩んでいる訳で、そのことに対しての問い掛けを放棄してみても、全く何の解決にもならない。寧ろ、大衆のそうした意識で織りなされている
現実をまっすぐに見つめてこなかったからこそ、社会は狂い、人々は洗脳されてしまっているのだと感じていた。
社会的矛盾に対してノーを言わない文化。
そして、本心を自らにすら偽り、皆一緒に黙って耐える姿を美徳とする世俗の古く偏ってしまっている美意識。
僕は、そのことを思う時、いつも戦中の集団自決を想像してしまう。
それを拒む者を集団でなじり、叩き、軍国色に染まった狂気を感じてしまう。
その価値観もまた、戦後ずっと民族の血の中に脈々と受け継がれてきたことを証明する結果に至ったと僕は感じている。
福島支援の名のもとに、放射能汚染食品を皆で食べようという、僕には異常行動に思えた安全キャンペーン。
多くの人々が、政府やマスコミの情報を鵜呑みにして、情報の信ぴょう性を疑う声は、3.11が起こった当初、非常にまれの様に見えた。
自分を育ててくれた親への信頼感とそれは比例していたのだろうか。
大本営発表に対する多くの国民の反応の様子を見て、僕はそんなことを考えて過ごした。
僕ら人間は、たぶん過去の体験の中に現在も属し続ける生きものなのだろう。
そして、そこで覚えた記憶という原体験は、個人個人の思考や感情の全てを司り、脳というスーパーコンピューターは現実を予測し、指令を出し続けているのだろう。
その時、まず過去の体験にないものから素早く排除し、体験の中で感じた感情の起伏の大きさに準じて、物事全てに真実味を覚えたり、また反射的に現実を善悪に隔て、新しく思考の波を生み出し続けているのだろう。
だから、自分の信念体系を破壊する様な出来事に出会うと、すぐに間違いだと認識してしまい、脳から発せられるその信号に感情は従い、行動は形作られていくのだろう。
僕は、大本営発表を初めから殆ど当てにはしていなかった。
テレビもマスコミも、元々は国民を洗脳する装置だった訳で、それは実質的に今も何ら変わりはない。
季節が変わる事に、街を行き交う人々は流行のファッションを求め、社会的に認められた幸せの形に自らを押し込み生きている。
テレビや雑誌には、絶えず新しいキャッチコピーを目にし、どう生きていくか、何かからの先導の上に暮らしを築いている。
そして、あの安全神話は僕らの暮らしの中で、呆気なく崩れ去っていった。
現代社会という生命体を動かしていたと思い込まされてきた、心臓部である原発が制御不能に陥った。
それは、現代社会の中で人々が信じ、従ってきた全ての秩序やモラルを失ったことを指し示す象徴だろう。
いわゆるパラダイムシフトが起きたということだ。
人類は、より高い宇宙の法則の中に誕生し、個人の意識を現実問題に対峙する中で一つ一つ組み換え、育み、進化させて、地球という一つの国、社会、文明を作り上げる段階に到達しなければならないということだろう。
それが、きっと神の望まれた地球と人類の未来の姿だと思う。
その声に感性のアンテナを立て、生きることから、僕は新しい地球の次元に誕生したいと願い暮らしてきた。



