茶の稽古は
「禅修行」である

真摯に向かえば向かう程
それが嫌というほど分かる

それは
掃除に始まり掃除に終わる

焼けつくような猛暑日も
凍えるような雨の日も
それは変わらない

早朝から着物に身を包み
庭履きから水汲み
畳拭きもひと通りやる

その中で学ぶ事の
なんと多いことか…
これは実に得難い修行なのだということを
心が理解する
すると心からの感謝の念が湧く

「心が清らかな涙を流す」

「心が震える程の感動と感謝の念が湧く」


ほんのひと掬いでも
その思いのかけらを
弟子に伝えたいと願う

ここまでの修行をせずとも
何かを掴み取ってもらいたいと願う


けれど
それは所詮私のエゴでしかない


どんなに真剣に稽古を付けても
それを望んでいない者には
全くもって届かない

なんとかして届けようと試みるが
いつも虚しさが残る
これは私に
欲があるからなのだろう

心が現れる所作の意味
何故それがあるのか
何故それをするのか
その思いはどこから来るのか
それらをほんの僅かであっても
学んで欲しいという欲だ


自分が望んでしている稽古
それと
弟子達の稽古のスタンスは違う


完成度も望まない
ありのままを受け入れる
面白おかしく稽古する
それも然りなのかもしれない

何度も同じ事を言わなければならぬのは
それは自分の忍耐力を培うため

美味しいお菓子とお茶を飲む
そんな稽古のスタンスは
決して悪くない
憩いと癒しを求めての稽古
それも悪くない
かつて私もそうだった


でもいつからだろうか
茶の湯の稽古の精神性に取り憑かれた

日々の暮らしの中の掃除の折には
禅語を心の中で反芻するようになり
その度に禅問答を繰り返すようになった

どこかピンと張り詰めた
一服の茶に向かう心

無心に茶を点てる時の
えもいわれぬ
点前の心地良さ

心がふわりと軽くなり
五感に包まれる
一種の恍惚ともいるような感覚

これを知ってしまったら
もう稽古を辞めることは出来ない


宗匠が仰る言葉の意味を
一語一句聞き漏らさず
この身に叩き込みたいと願い
それが叶わぬ己の力不足を知り
砂を噛むような不甲斐なさを味わう

30年以上稽古をしても
どんなに点前がすらすらと出来ようとも
一生かけても終わりが見えぬ世界

けれど
だからこそ楽しい
到底叶わぬ世界だからこそ
かけがえのない
茶の湯の世界
茶の湯の稽古

どんなに背伸びをしても
到底届かぬ高みの境地

それを知りながら
それでも
追いかける事をやめられぬ世界

そこに身を置ける事は
なんと幸せなことか…

これを弟子達には
ほんの僅かであっても
味わって欲しいと願う
そう願いながら
それはやはり
私のエゴでしかない事を知る

まだまだ修行が必要だ

「一口吸尽西江水」