熊手を使うのは、初めてでした。

 

神社仏閣で、神官や禅僧の方々が使っているのを目にした事はございましたが、この年で初めて使うとは、お恥ずかしい限りです。

 

熊手を使ってみて感じたことは、下草を傷つけずに、容易に枯葉などを集められるということでした。

竹箒のように力を入れずとも、いとも簡単に作業ができます。

けれど、使い方にはコツがあり、熊手のかい先の竹の隙間に枯葉や小枝が挟まると、もう何も集められなくなります。

挟まってしまった枯葉や小枝は、熊手の持ち手の方から先に向かって、優しく撫でるようにすると、簡単にするりと取れるのですが、上に引き抜こうとすると、難を究めます。

 

お正月の縁起物にもなっている熊手。

大判小判のモチーフが付いていますし、ざくざくお金が入ってくるイメージの縁起物、というふうにこれまで捉えておりましたが、実は違うのではないか・・・と、思いました。

 

熊手は、何もついていないきれいな状態ですと、沢山の物が集められます。

けれど、かい先に一度物が挟まると、全くと言ってよいほど、何も集められなくなります。

どんなにかいても、空回りするだけです。

それはまるで、「欲をかいても、その人に見合った物しか手に入らない。」とでも、言っているかのようだと思いました。

 

そして、かい先に詰まった物を取り除くにも、逆らった方向に引っ張っても抜けません。

素直にかい先に向かって撫でてあげると、物はするりと抜けていきます。

これは、人の心も同じだ、と感じました。

 

強い言葉で叱られても、心は委縮するだけです。

脳と心は委縮してしまうと、何かを吸収する能力が低下するといわれています。

反対に、能力に応じながら優しく教え、向上するポイントをひとつさりげなく伝え、見守りながら導く方が成果を上げます。

 

また、この人を良い方向へ引き上げようと、あれこれ言っても、その人自身が気付かなければ、自分のエゴを押し付けているに過ぎません。

ただのお節介になってしまいます。

本当に良くしようとするなら、その人の人格や意志を尊重して、無理に引き上げようとせず、素直で優しい気持ちで接し、小さな気づきのサポートだけして、あとは気長に見守りながら待つ事も大切なのではないか。

そもそも、人をどうこうしようと思う方が、エゴそのものなのかもしれません・・・。

ただ、ベースに愛は必要だと思っています。

個人主義すぎないバランスも。

 

昔の日本人が持っていたハングリー精神は、今はなかなか通用しない時代になりました。

 

ここ数年、私は、何が良いとか悪いとか、自分でジャッジすることを止めています。

「あるがまま」

「ありのまま」

人も物事も、良くも悪くも、それを素直に受けとめ、受け入れる。

そんなシンプルな生き方が、今の私には合っている。

諦めて、無気力なのとは違います。

怠惰なのとも違います。

自らを向上させることは、怠りたくありません。

 

ただ、素直に純粋にありたいだけなのです。

 

今回の掃除で、実に様々な事を学ばせていただきました。

感謝。