4月29日(金)は富山地鉄観光バスでがガイドさんが車中色々話をしてくれました。その話の中で新潟で放鳥したトキが黒部に飛来して新聞をにぎわしていますと言う話がありました。
バスガイドさんは名前までつけて住民証まで発行していて、ときたま黒部から何処かに行ってしまうと大騒ぎになって新聞紙上を賑わしますが「ここの住民でもないのでそんなに大騒ぎをしなくてもいいのにねえ」と感想を述べていました。富山の県鳥はライチョウでトキは新潟の県鳥ですというのも解説されました。
 
この時まではトキの新聞記事というものにそんなに注意がいきませんでしたが、以後東京での新聞の扱いに気をつけていると、それなりの大きさの記事が紹介された時があった時には、ああこれだとガイドさんの話を思い出すようになりました。
何でもない事も人から注意を喚起されると目が向くという、謂わば訓練をされたような効果であったのかなと思え、それだけバスガイドさんの説明には年期が入っていたのだろう思い出して感心するばかりでした。
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18時30分、上田駅前に41人のツアーメンバーが揃うと、添乗員のMさんから注文した弁当とあさまの座席番号票を貰ってから改札口からホームに上がり、暫く待って後、あさまに乗り込みました。私のあさまの座席は行きは通路側だったので、帰りは3列席の真ん中に割り当てられていました。左の窓側はいがぐり頭の職人風の男で、右側は直ぐにしゃがみ込む鳥打帽子の年配の男で、嫌な男の間に座り込み話す事もできませんでした。
職人風の男は私が棚にリュックサックを乗せようとしているのを「何」と言ったので「私のリュックサックを置きたいんです」と言ったら自分の大きな紙袋を移動しました。土産物でも沢山買いこんだのか大きな紙袋でしたが、人の動きが読めないのは職人だからだろうかと思ってしまいました。
 
3人の男がが並んで夕食を食べ始めると、職人風の男は弁当ではなくて上田駅のファーストフード店で買ってきたらしいハンバーガーを食べていました。風体とは似合わない食べ物ですなと思いながら見ていました。
 
右隣の年配の男はツアー会社に注文した私と同じものを食べていましたが、食べ方が汚いので米粒を残した箱もきちんと折りたためないのか雑に丸めて、私の座席の前に置きました。何で自分の席の下に置かないのか不思議でしたが、自分の黒い小さなビニールバッグは通路側の自分の座席の前に置いていました。こういう無神経さは黒部のトロッコ電車で経験したので驚きませんでしたが、こういう無神経さは多分若い時からのものだろうと思いました。
この男は社内販売で売りにきたコーヒーを飲んでいましたが、最後にのみ残しがあるまま私の前にある弁当の箱の上に乗せようとしたした時に中身がこぼれて床にこぼれました。くしゃくしゃにして読んでいた新聞紙を破って床にこすりつけていましたが、これも雑なので全部拭きとれず最後はスニーカーでごしごしと床にのばしていました。その様子はまるで幼稚園の子供がするしぐさと同じに思えて、ひげを生やした年配の男がそういう始末しかできないのを見ていると、何とも言えず悲しくなってくるような気がしました。
 
今度は添乗員のMさんが通路を歩いてきて一列前の白髪の男に「旅行保険証書を持参しませんでしたので自宅に送っておきます」と言ったので「私はクレジットカードの保険があるので、保険には加入してませんよ」と返事をすると「えっ、そうでしたか・・・」と驚いて再び自分の席に帰って行きました。これは私と白髪の男を間違えているのだなと思いましたが、自分で名乗るのもおかしいと思って黙って添乗員のMさんの動きを見ていました。添乗員のMさんも少し疲れたのかなと思ったのでした。
 
こんなうっとうしい二人の男に囲まれて東京まで時間を過ごすのは嫌だなと思ったのですが、あさまは20年の
前の特急電車よりは随分早くなって、気持ち的に案外早く東京に到着したので心理的な圧迫感は少なくて済みました。
東京駅では新幹線の団体の改札口から添乗員のMさんに送り出されて、土曜日の夜で混雑する東京駅の構内を通り改札口に向かいました。
 
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18時に上田駅の構内で一旦解散してから18時30分に再集合という説明が添乗員のMさんからあり、その間に注文した弁当の仕分けをしたりしていたようでした。乗車するあさま546号は18時47分発なので、ここでの待ち時間も長く感じられました。手持無沙汰になったツアーメンバーは仕方なく三々五々に18時20分ごろから集合場所に集まって、無言の添乗員Mさんを取り囲んだのでした。
 
上田駅の待合室は狭いのでせいぜい15・6人しか入れないので、添乗員のMさんは最初から待合室とは別の入口にツアーメンバーを案内しました。待合室で30分も坐禅を組んで待っているのももったいないと思って、土産物屋で買えるものはあるかと何度も見たり、それからは駅の前をうろうろして上田駅の様子を見ていました。
 
上田駅前は夕方ということもあり、帰宅する学生が駅前のバス停車場に並んでいましたし、JRの改札口からも学生がぞろぞろと降りて駅前のロータリーのある場所でたむろしていました。しかしながら、都会では見かける会社員風の男の姿が無いのは車通勤だからだろうと推測しました。
駅前や駅構内には地元を宣伝しようとした幕や置物が飾ってあり、地元の人ばかり通り過ぎていく場所では誰も目にとめていませんでした。
 
駅前の広さは学生や買い物の主婦で一時賑わっているように見えましたが、これで日も暮れるとどれだけ寂しい閑散とした場所になるのだろうという想像をしながら時を過ごしました。
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午後15時45分に大町の山岳博物館を出て、添乗員のMさんも立山黒部アルペンルートの悪天候を桜見物で 挽回できたと思ったのか、ツアー客に拍手を求めていました。国道147号線を犀川を左手に見ながら30分程走り、お土産の買い物のために安曇野スイス村という、何でスイス村なのか理解できないようなお土産店に立ち寄りました。長野なので蕎麦でも買って帰ろうかと思って地元でしか買えないような蕎麦を選んで買いましたが、帰宅後に食してみると普段食べているものと違い、美味いとも不味いとも言えないものでした。
 
この土産物屋で15分ほど休憩してから、長野自動車道の豊科ICに入り、更埴JCTで上信越自動車に入り坂城ICで降りて上田駅まで行きました。
坂城ICを降りた場所では工業団地らしい案内が出ていました、ここは「世界の坂城」と言われるほどの精密関係だけではなく特長ある機械関係の企業があると、上田駅で下車したときに白髪の年配の男が言っていました。
坂城ICから上田駅までは国道18号線を走りましたが、丁度の帰宅時だったので上田市方面に向う車で渋滞してのろのろ走りましたが、それでも18時位には到着しました。
 
添乗員のMさんは観光が終わるとひたすらに帰りの新幹線の電車の時間に間に合うかどうかばかりを気にしていましたが、余裕で上田駅に到着したので安心したようでした。
 
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午後14時25分くらいに扇沢をバスが出発して一路上田駅へと向かいました。しかし時間に余裕があったのと、このツアーは天候が悪く行き先々で散々な目にあったのを添乗員のMさんは「自然を感じられたかと思います」と表現していましたが、何とかベテラン添乗員の面目を保とうとして桜の名所という信濃大町にある山岳博物館に立ち寄ることにしました。その日が桜が咲いているのかどうか懐疑的だったのですが、添乗員のMさんは桜が咲いていると自信があったようでした。添乗員として情報を持っていたのかも知れませんでした。
 
扇沢から信濃大町までは山道を下って約45分で山岳博物館に到着しました。この間、添乗員のMさんは自身の添乗員としてのベテランとして国内のあらゆる旅のご案内をしますというのでツアー客に何処に行きたいですかと質問しました。北海道の奥尻島に行きたいという注文があったので、ハイキングが出来て花がきれいだとか、海の幸が美味いとかという解説がありました。このツアーの前には五島列島のツアーに行っていたとか、仙台松島はどうのこうのというような自慢話にも似た話がバスの中で延々と続きました。
バスが扇沢を出た直後には遠ざかる山を見て、休日にこの近くの山に登った時の話ですと言って、添乗員のMさんは山登りが趣味であるというのも開陳していました。この時の登山は余程印象に残っているらしく、添乗員という仕事柄平日に登ったのではないかと思えましたが、山小屋では自分一人しかいないので現地説明員・接客係が各々一人ずつ自分専任となったのでお大尽になったような気がしましたと説明していました。かような話を披露して、バスガイドがいないので添乗員自らガイド役をかっているように思えました。
 
バスが大町の狭い道を走り奥手にある博物館に続く坂道では桜が満開でしたので少し驚きました。東京ではすっかり葉桜なのに標高の高いここでは丁度桜が満開の時期に当たっていたようでした。桜は来年にしか見れないと思っていたところに、二度目の桜の満開を見ると少し戸惑いがありました。
午後15時15分位に大町の山岳博物館に到着しました。ここでは30分の休憩をするということでした。この日は土曜日だったので博物館は開館していました。バスを降りると添乗員のMさんが博物館に走りツアー客の見学を告げていましたので、料金は後ほど添乗員のMさんに払うというので中に入りました。
山岳博物館というので何が展示してあるのか全く想定がつきませんでしたが、1階はヒマラヤ等の山岳パノラマ写真が展示してあり、2階は山の鳥や動物の剥製がきれいに並べて置いてありました。3階は展望室になっていたので、ここから桜と遠くの山を撮影してから、外に出て桜の撮影をしました。
しかしながら桜の本数が少ないのと、枝ぶりのよさそうな桜も無いので撮影するのに少々苦労しましたが、それでもあっと言う間に30分が過ぎたのでバスに戻ると一番最後になっていました。
 
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関電トロリーバスがトンネルを出て扇沢の停車場に到着すると、満員の乗客がよたよたと少しばかり疲れた足取りで階段を下りて扇沢の駐車場に歩いて行きました。ここが立山黒部アルペンルートの終点だというので、観光客が土産物を買いそびれないようにと大きな注意書きが通路の上に書いてありました。しかしながら、私は土産物屋をのぞいたものの買いたいというものも無く通る過ぎるだけでした。
 
ここの駐車場は日曜日のせいもあったのか車の洪水でした。その駐車場から周りの山を見ると、未だ春遠い雪山が見えました。今年は雪が多いのと季節変わりが遅れたせいもあるのかなと思いながら周りの山々を見ていました。
ここで見た雪山は山頂付近がが晴れていたので、もう少し時間を遅らせて立山黒部アルペンルートを通れば晴れたいた風景を見られたのではないかと思えて、残念な気持が湧きあがりました。
 
ツアーメンバーは上田駅まではゆっくりとバスで移動出来るという安心感からか、全員が揃ったのは添乗員のMさんが指定した乗車時間よりは少し遅れました。
 
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午後14時21分発のトロリーバスは、案の定ぎゅうぎゅう詰めの満員となりました。もう乗れないだろうと思って見ているとバスの出入り口から1歩ずつ中に人が押し込まれて、まさに富山名物のますのすし如くのすし詰めでした。もうこれ以上は乗れないだろうと思った所にスノーボードを持った男が最後に現れました。駅員が男を中央の出入り口に押し込んでスノーボードは前方の入り口から入れて何とか乗車することができました。このトロリーバスがツアーで乗った乗物の中で一番混雑の激しかった乗り物だったと思います。
 
このトロリーバスはトンネルの中を走るので何も見えないのですが、バスの中では自動アナウンスによる色々な説明がありました。最初は標識の説明がありました。一つは黄色の富山県と長野県の境界で分水嶺になっているという標識で、もう一つは青い色のは80mの破砕帯の標識でした。破砕帯という言葉は始めて聞きましたが、黒四ダムの建設時に大量の水が出て難工事だった場所だということでした。真っ暗なトンネルの歴史を説明してくれて一つ勉強になりました。
 
次には歴史の説明でした。一つは佐々成政という武将の話で、天正12年に徳川家康に救援を求めるために富山から立山黒部を7日かけて信濃大町に至り諏訪から浜松に行ったという話でした。当時の富山は、周りを豊臣の家臣に囲まれていて身動き出来ないので、徳川家康に豊臣秀吉を討ってもらおうと願い出るために冬の雪深い立山黒部を104名の兵とともに山を登ったという話でした。勿論始めて聞いた話ですが、人の思いも寄らない行動に出た成政に少しは興味をひかれました。当時の家康には秀吉を討つという意思はあっても行動は起こせずにいたので、佐々成政の豊臣秀吉に対する戦をしかける頼は聞き入られず、失意のまま佐々成政は富山に戻ったということでした。
こういう解説は人によっては馬の耳に念仏かもしれませんが、私は歴史ある道に自分の足で少しは歩いたという印象を重ねると少しばかりの感慨にふけることができたような気がしました。
 
最後は黒部のダム開発の歴史でした。アナウンスの説明ではジアスターゼの発見で有名は高峰譲吉がアルミニュウムの精錬で必要な電力開発の為に大正6年に黒部川を調査開始して柳河原発電所を作ったという説明でした。
後ほどに黒部のダムの歴史を調べると、三井鉱山が動力用に大正4年に作った下立発電所が黒部の最初のダムということが分かりました。大正12年には弥太蔵発電所が出来ており、これがアルミニュウムの精錬に使われたのではないかと推測しました。柳河原発電所は昭和3年に完成して資料では本格的な発電所という説明になっていますので、これが黒部の最初の発電所で第一発電所だろうと思います。
バスのアナウンスでは黒部のダムは昭和38年にできた黒四ダムが出来るまでに、昭和11年に黒二(小屋平)ダムができて、昭和15年に黒三(仙人谷)ダムが建築されましたと説明していました。こういう歴史を聞くと黒部ダムは第四だったのだという事実をはっきりと脳裏に記憶することができたような気がしました。
高峰譲吉は一時はダムの仕事にはかかわったかもしれませが、名前を出すと正確な理解にはかえって差し障りになるように思えましたが、歴史的な人物を遠い記憶から呼び醒ましてくれたという意味ではありがたい説明だと感じました。
ここのアナウンス説明にあった柳河原発電所は宇奈月ダムができて水没したのだそうですが、昨日のトロッコ電車の中の説明ではそういうダムの歴史説明はなかったので残念に思いました。
 
 
 
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午後12時50分くらいに、黒部湖駅からトンネルを抜けると黒部ダムの端にでました。添乗員のMさんは黒部ダムのトロリーバスに乗る時間が午後14時21分なので、ここで解散して見学をしてくださいと言いました。黒部ダムのトロリーバスの改札の前には午後13時30分にはいます、その場で切符を渡しますという話でした。関電トロリーバスは、ツアー客も個人客も区別せず乗せるので乗車券を事前に渡すということになっているようでした。
観光する時間が1時間30分もあるので当然ながら時間を持て余すことになるだろうと思われたので、添乗員のMさんは「220段の階段で展望台に行けますので折角の機会なので行かれたら如何でしょうか」とツアー客を指導していました。
 
黒部ダムの堰堤ではダムに吹き付ける風が寒いだけでなく、風で運ばれた小雪がダムの壁に沿って舞い上がって降りかかってきました。展望台に向かうために、黒部湖を展望しながらダムの端から端まで歩く間は冷たい強風と小雪にさらされて、季節が少し逆戻りしたかのように思えました。
 
ダムの端に到着すると薄暗いトンネルがあり、そこを上がるとトロリーバスの改札でした。その改札を左側に行くと220段の階段があり展望台に通じていました。ここは標高が1500mくらいなので容易に上がれるかなと軽く考えていましたが、階段の途中で休憩する場所ではぜいぜいと息が切れて立ち止まってしまいました。その場所にはわき水とベンチが置いてありましたが、ベンチは老人が座って満員なので我慢して苦しい思いをしながら階段を上がると展望レストランの入り口があったので、とにかく座りたいという気持ちでしたので入り口に一番近いテーブルにリュックサックを置いて椅子にすわり、ぜいぜいと苦しい息が収まるのを待ちました。息が整ってきたのを見計らって、一段高い展望台へ行くと冷たい風が吹き小雪は相変わらず舞っていました。
展望台はそういう様相でしたので観光客もまばらで、観光写真を撮影する男が2人いて「写真を撮ってあげます」と数少ない観光客に向かって大きな声で叫んでいました。
展望台から黒部湖を見ると放水時は迫力があるのだろうと言うのは容易に想像ができるほどに黒部ダムの大きさを感ずることが出来ました。新緑の晴れ晴れした天候で放水風景を見られた良かったと思いながら、寒々とした冬の名残りのある風景を何枚か撮影したのでした。
 
こういう風に割合にゆっくりと時間を使ってトロリーバスの乗り場に向かって、添乗員のMさんから切符を貰ったのは午後1時40分くらいでした。トロリーバスは3台で出発するのですが、本数が少ないので乗車する人が並ぶとあっという間に人の行列ができてしまいました。
私は高々15分くらいの乗車時間にしろ、トロリーバスの混雑の中で揺られるのは嫌だと思い午後2時前には改札の前に並びました、最初は3列は人が増えたので4列になり、少しでも行列が短くなるようにとしていました。行列には3・4歳の男の子がぎゃあぎゃあと泣いているのをあやしている若い夫婦がいましたが、こういう観光地で子供に駄々をこねられるのも困りものだなあと思いながら、周りに気遣いすることをすっかり諦めて泣き放題にさせている夫婦を見ていると待ち時間も少しは短く感じられました。
 
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午後12時30分頃に黒部平駅に到着して、扇沢から上がってきた反対側に行く中国からの観光客の列をかき分けて、ケーブルカーの改札まで行くと再び長い行列が出来ていました。ここでも15分程待たされてたった5分しか乗車しないケーブルカーへの乗車順番待ちをすることになりました。
この駅は人が多いので何処かに外を見る場所があったのかも知れませんが、人ごみをかき分けて動くほどの気力もうせて、改札待ちの行列の横で自分たちの順番を大人しく待っているだけでした。
 
12時45分には階段のホームに並んでケーブルカーの到着を待っていると、トンネルの中からロープが擦れる音がごうごうと鳴り響いて電車が来るのが分かりました。電車の角度は結構急な角度だというのも分かりました。
扉が開いて待ち兼ねた乗客がどっと車内に流れ込むとあっと言う間に満員電車になりました。一番前に立っていた人が私のビデオカメラを見て場所を代わってくれたので、このトンネル内をケーブルカーが移動する映像を撮影することができました。しかし、ここのトンネルでは特段の特徴もなく普通のトンネルでした。
 
ケーブルカーが終点に近づくと遠くに電車の中央に黒い人形のようなものが見えてきました。一瞬たりとも動かないので置物かと思ったほどですが、電車が停車すると女性の駅員でアナウンス係りというのが分かりました。
アナウンス係の女性が、わざわざ目につく電車の中央の位置にいなくてならないのかという疑問をもちながら黒部湖駅を後にして黒部ダムに向かいました。