もう長らく、どこも、かしこも日本国中
「働き方改革」
だから、つまり何のこと?
と言ってしまいたくなる。
これは、正しい日本語でいうと
「働かせ方改革」
なのだろう。
労働者が全く自由に働き方を選べるのであれば
それは、もはや労働者ではない。
みずほは、働き方改革の一環で「裁量労働制」を廃止するらしい。
(2022.6.2更新 日経新聞)
テスラのイーロン・マスクCEOは「テレワーク」労働者を解雇するらしい。
(2022.6.2 テレ朝NEWS)
難しい説明を省くと
裁量労働制もテレワークも上司からの直接的な監視から逃れられる利点がある。
それなのに、なぜか、これらの働き方は、個人の成果の差が明確に表れる。
どこの企業でも大抵は、少数の働く人が、多くの働かない人の仕事を肩代わりしている。
肩代わりした労働に対する賃金は、当然ながら働いていない人に支払われる。
こうしたことで社会が成り立っている。
しかし、この肩代わりの法則は、出勤してこそ成り立つもので、テレワークでは成り立たない。
日本人の多くが、会社にいることが労働であると認識しているためである。
だから、国が進める働き方改革をそのまま鵜呑みにするだけでは
人にやさしい「働かせ方改革」は実行できない。
結局のところ、多様性とは不合理を容認することなのだろうと思う。
人間は不合理の中でしか生きたことがないのかもしれない。