ファンブログ❤”紫式部に恋をして〈九〉源氏物語和歌 松風の巻”そして少し源融も | みそらの日日是好日 ‪‪ᵕ̈* ニチニチコレコウジツᵕ̈*

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2020年春...
1998年生まれの長男は
東京で社会人に。
2000年生まれの長女は
うどん県で女子大生。
これから わたし時間を楽しむぞ!!(b`>▽<´)-bイエーイ☆゛









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十八帖松風


二条の東の院もすっかりできあがって
秋、源氏はそこへ
花散里の君を迎えた。
ここへは明石の君を迎えたいとも
思っていた。

明石では、
源氏から姫君を連れて京へ移るようにと
しきりに言ってくるが
明石の君はなかなか決心がつかない。
京へ出て 他の高貴な女君たちと
競争するなどとても出来ないと思う。

入道は嵯峨の大堰川おおいがわの畔に
自分の土地や邸があり、
今まで人まかせにしてあったのを
取り戻し、邸も大修理して、
そこへ明石の君母子を行かせることにした。

迷いながらも入道にすすめられて、
明石の母子と、入道の妻の尼君も
付き添って行くことになる。

入道は別れの淋しさをかくし、
自分のことは亡きものと思えと送り出してやる。

源氏は入道の志を有り難く思い、
大堰の家の普請や、庭の造園に手を貸すのだった。

姫君は三歳になっていて
可愛らしい盛りで 源氏にもよくなつく。
源氏はこの美しく生まれついた姫君の将来を思い
生母の身分が低いので、いずれ、
紫の上に育てさせ、
紫の上の娘分として入内させようと考えている。

明石の母子が嵯峨に移り住んだことを
源氏から話され、
紫の上は心中おだやかでない。
身分が低くても 
源氏の子を産んだ女の強みは、
紫の上の立場を脅かすに充分であった。

源氏は紫の上の心をなだめるため
月二回しか大堰を訪ねることはない。
それも嵯峨に御堂を造りその普請の監督とか
仏具の飾り付けのためと名目をたてる。
明石の君に会っても
せいぜい一、二晩しか泊まることは出来ない。
桂の院という別荘を急に造るという名目も
大堰行きに利用されている。

嵯峨の御堂というのは
現在の釈迦堂と呼ばれている
五台山清凉寺に当たるようだ。

ここは光源氏のモデルといわれた源融
別荘の跡だと伝えられている。

また桂の院とは
現在の桂離宮のあたりに当たるだろう。

さらに前には川がせまり、
その風情がなんとなく明石の浦をしのばせるという
大堰の明石の君の邸は
現在の嵐山の大堰川の北岸、
嵐亭のあたりかと考えられる。

紫式部は自分のよく歩いたり、
住んだりした場所しか
できるだけ小説には使っていないようである。
もちろん、それは今も昔も
小説家の心得の一つである。
源氏物語巻三
瀬戸内寂聴訳 引用





〜紫の上の思い〜

源氏の周りには いつも女性の影が
ちらついているはずなのに
紫の上がこれほど嫉妬する相手は
今のところ 明石の君をだけだった。
理由は三つ。
●源氏にとって明石の君は特別な存在だと感じていること。
●自分には子供が生まれないのに、明石の君には子供が生まれたこと
●二人は、明石で、自分の知らない時間を共有していること。


紫の上は 幼くして母親を亡くし、母の愛情を知らずに育った。継母には疎んじられ、父と暮らすこともできなかった。

それなのに、明石の姫君に本当の子供以上に愛情を注いでいくのだ。

源氏物語が面白いほどわかる本
出口汪著 引用




〜明石の君の思い〜


明石の君が
源氏との出会いの時から気にしつづけていた
「身分」というものがここでも
大きくのしかかってきた。

自分のようなみじめな思いを
娘にはさせたくない、という思いが
身を引き裂くような決意をさせたのだった。

いよいよ、源氏が娘を迎えに来た。
幼い姫君は、車に乗れるのが嬉しくて
無邪気にはしゃいでいる。
片言で「乗りたまえ」と言って
母親の袖を引く場面は、しみじみ悲しい。
ここで明石の君と源氏は歌をやりとりした。

末遠き二葉の松に
ひきわかれ
いつか木高きかげをみるべき
明石の君


まだ若き二葉の松のような人別れて
いつかその木を見るや
俵万智訳


生ひそめし根もふかければ
武隈の松に
小松の千代をならべん
光源氏

君と我は武隈の松緑深く
いつか小松の並ぶ日も来る
俵万智訳


二葉の松は姫のことをさす。
その松が生長した姿を
いつの日か見ることができるのでしょうか……
最後まで言えない状態で
明石の君は泣いてしまった。

さすがに源氏も無理もない、
さぞ辛いことだろうと苦しく思う。

武隈の松は歌枕の一つで
根元から二つに別れて生えているという。
つまり、私とあなたはその松の姿のようなもので
いつかその間に小松(娘)を置くこともあるだろう……
と慰めているのだ。
しかも、「生ひそめし根もふかければ」
子供が生まれたほどの深いご縁なのだからと
強調している。
この場面で明石の君を
もっとも力づける言葉であるだろう。

愛する源氏物語
俵万智著引用


〜平安の遠足スポット嵯峨野 嵐山そして源融〜

嵯峨野・嵐山地区は 平安の昔から貴族たちの
遠足スポットである。
京都盆地は人口都市平安京の内側こそ
雅やかで喧騒に満ちているものの、
京域を一歩出れば三方が「野」と呼ばれる
自然の地だ。
東には東山の麓、清水寺一帯に広がる鳥辺野とりべの
西は小塩山おしおやまの麓、藤原氏の氏神・大野原神社が鎮座する大原野。
そして北には北野と紫野むらさきの、さらにその北西に遥々と広がるのが嵯峨野だ。
内裏から直線距離で約四・五キロメートル。
牛車を小一時間走らせれば着く、
郊外のお手軽な名勝地だった。

嵯峨野は はや平安遷都直後から名勝地となった。
嵯峨天皇(七八六~八四二)がこの土地を
こよなく愛したのだ。

光源氏のモデルの一人とされる源融みなもとのとおるは、この嵯峨天皇だ。

融といえば左京の六条に河原院を造営したことで知られるが、彼は嵯峨野にも「棲霞観せいかかん」なる山荘を建てた。
その一角に阿弥陀堂を置いたのが
現在の嵯峨清凉寺阿弥陀堂の最初である。
河原院は海に見立てた広大な池を持ち、その畔に陸奥塩竈の風景を再現するなど、プチ日本テーマパークの観を呈していたという。

それは、帝の子ながら母の身分が低いため親王にもなれなかった彼がバーチャルで帝気分を楽しむためだった。
そのための御堂が 嵯峨野棲霞観の阿弥陀堂だった。

光源氏も 更衣の子のため、親王にはならず、源の姓を与えられ臣下となり 実力で貴族の最高位に昇った。
栄達の後は六条に広大な邸宅を営み、女性たちを集めて帝宛らの生活を楽しんだ。

このあたり、光源氏の人生は 融のそれをしっかりなぞっている。

そしてやはり、彼も嵯峨野に御堂を建てる。
「松風」の巻でのこと、「大覚寺の南」という場所までそっくりだ。

平安人の心で「源氏物語」を読む
山本淳子著引用









涙雨
返す言葉の
切なさよ
肩ふるわせつ
故郷あとに

壱や


壱ちゃん いつもありがとう!!














⬇️壱やブログ 松風 
壱ちゃんの エンディングのポエムも読んで欲しいな。

⬇️今回、源融のことに触れました。
壱やブログ 源融をもう一度復習!!

⬇️前回のファンブログ❤️絵合です。
とても長くなりました。
最後まで お付き合いありがとうございます。