令和4年(2022年)12月20日 第579回

楡周平「TEN」 前回の続き・・・

麻生寛司は、→お前は部長に試されたんだ、汚れた靴をこれ見よがしに履いて行ってお前がどうするか、とナ。 最初の時は悪い事をした、と思ったんだよ。 ただ、あの人は詫びの言葉は絶対に口にしない。 俺もな、就職に苦労した、ドヤ街で生まれ育ったと言うだけでナ。 世間はそんな色眼鏡で見ている連中だらけさ。 部長は自分の親の生き様を見ているから、人の能力に生まれも育ちもないって事を身に沁みて感じている、 むしろ、逆境をバネにして伸し上がる気概がなけりゃ、真の意味での成功者に成れない、そんな人間を部下にした方が何倍も力を発揮する、そう考えているのサ。 ドヤ街育ちのお前が客の靴を磨いていた、イキナリ、罵倒して殴ったけれど、今度は根性見せて見ろ、と。 また磨いたお前を、自分の信念を貫き通したからこいつは見どころがある、使えるやつだと確信したのだろうサ、磨かなかったら、そのまま捨て置いていただろうナ、と言われて、俊太は鳥肌が立った。 あの時、自分の進む道が一変していたのだ。 寛司は更に、→テン、お前は運を持っているかも知れん、ムーンヒルホテルはこれからどんどん大きくなる。 部長はただ遊んでいるんじゃない、世の中をキチッと見ている、きっと大成功する将来像の若き日の姿を一番身近で見られる、これはお前の大きな財産になる、だから何があっても仕えろ、最高の勉強をさせてもらえ、そう思って耐えろ! 俊太は大きく深く頷いた。

 

瞬く間に二年半が過ぎた。 月岡は中々の勉強家で本をよく読む。 週刊誌、月刊誌、小説、経済、哲学等々、雑多な種類である。 メモ用紙に書かれた書名の本を良く買いに行かされた。 走行中は眠っていて言葉を交える事は殆どないから、何を考えて、何をしようとしているのかがさっぱり判らない。 じゃ、読み捨てた本を読めばその一端が判るかも知れない。 月岡のお供は待ち時間が長い。 その間の読書量は今は月岡に負けない程になっている。 最初はチンプンカンプンだったが、内容に見当がつくようになると、滅法面白い。 いま、猛勉強を取り戻している充実感に満たされていた。 女中部屋からゴミに出される本を、昨年の春、月岡家にやってきた中卒の澤井文枝に頼んでいた。 読書も楽しみだが明るい文枝の顔を見るのも心が弾んだ。 今日も紐で括られた束が二つある。 →まだあるんです、出がけに若旦那さんが置いて行かれて・・・と、どっさり腕に抱えて持ち出して来た。 二人で紐で括りながら、俊太の部屋まで一緒に持ってきてくれたのだ。 部屋のドアを開けると、山になった本が見えた。 すると、文枝が、→小柴さんが読み終わった本、私に下さい、私も本が大好きなんです、若旦那の本を小柴さんが最初、そして次が私、宜しくお願いします、と約束させられた。 文枝は、→新潟出身、お爺ちゃんとお婆ちゃん、お母さんが米を作る農家で、お父さんは製材所勤務、小6と小2の弟で、冬になるとお母さんがスキー場に働きに出て、7人がやっと食べていける暮らしだという。 若旦那がスキーに来て、お母さんの料理をいたく気に入って、親しく話をしている内に、ここのお手伝いに誘われたんです、住み込みに賄い付きだ、行儀見習いもさせてしっかりしたところに嫁に出してやるから、と。 弟二人には高校へ行ってほしいから、私が仕送りするんです、と打ち明けられて、ベストセラーの「人間の条件」全6冊を持ち出して行った。 俊太は23才になった今も、小説はイマイチだったが、これを機会に自分も小説を読めばもっと話が弾むかも知れんと、さっそく小説を手に取った。

 

小雨の浅草に差し掛かったところで、不意に左手から人が飛び出して来てサイドミラーの角度が変わってドスンと倒れた音がした。 →当たり屋だ、と俊太は咄嗟に思った。 浅草の近くには東京最大のドヤがある。 恐らく、そこの住人だろう。 大丈夫ですか?と声を掛けると、貧相な男は低い呻き声を上げながらゆっくりと仰向けになる。 プンと酒の匂いがする。 →痛ぇよ、と情けない声、背後から、→おっさん、大丈夫か、と二人の男が近付いてくる。 風体からヤクザと見て間違いない。 ふたりして、→信号無視だ、アンタが悪い、と俊太を指差して口を揃える。 俊太はかっての自分を思い出し、苦笑いである。 →警察呼びましょうか、当たり屋やろ、アンタら、とキッパリ言うと、図星を差されて三人は狼狽えた。 ヤクザの二人は引っ込みが付かず、サラシの下に忍ばせたドスを抜きにかかる。 この程度の事で素人を刺してお縄になれば仲間内で笑われる。 長い懲役に浸かる羽目になれば帳尻が合わない。 堂々と立ち向かう構えの俊太だったが、月岡が声を出した。 →お互い警察を呼んだら面倒だ、これで勘弁してくれ、と一万円札を貧相な男に差し出すと、元気にピョンと立ち上って札を宙に翳して確かめている。 月岡が、→さァ、行くぞ、と顎をしゃくると、ヤクザの一人が、→俺達も不愉快な思いをしたんじゃ、何もナシか、と嵩に掛かってくる。 月岡は平然として、→調子に乗るナ、ここは大門会のシマだろ、マトモなヤクザは当たり屋なんかしないぞ、ここで小遣い稼ぎをしているヤツがいると磯川さんに教えてやるからお前の名前を言え、と詰め寄ると、ビビった二人はそそくさと踵を返して去って行った。 金を渡した事に不満を言う俊太に、→時は金なりだ、万札一枚で時間を買ったと思えば安いモンよ、と取り合わない。 →それにしてもテンよ、ヤクザ相手にいい度胸をしているナ、と感心している。 俊太は、→ヤクザはカタギ相手に命を獲る事はしません、ヤクザの戦争なら勲章ですが、カタギとなればアホと言われるのがオチです、罪も重くなって割が合いません、あいつらはただのチンピラです。 暫く考えていた月岡は、→お前、借金の取り立てをやれ、と言い出した。 タチの悪い相手、総会屋、右翼、ヤクザが滞納している結構な金額がある。 ホテルの宿泊客も全てアト払いだし、長期間、家代わりにする客もいるしナ、と思い掛けない事だらけだった。 今の部屋にいれば文枝と離れなくても住む、それを条件に俊太は命じられた事に応じた。 (以上、貂の章)

 

(転の章)

経理課に配属されて一ヶ月が経つ。 経理課長・池端、滑川係長に全く無視されていると、久し振りに社員食堂で会った寛司に俊太は愚痴を言う。 全く仕事を教えてくれない、と。 滑川悦男はは30代半ば、朝から電話を掛け捲って直ぐに外出。 そのまま、就業時間間際に帰社して池端課長に首尾を報告し、日報を書くと帰宅の毎日である。 駄目でした、と借金の取り立て報告が毎日聞こえてくる。 俊太は中卒で事務職に採用された初めての人事で、また月岡部長の気まぐれが始まったと、噂されているから、大卒の二人は意地を張っているかも知れん、面白くないのサ、と寛司が打ち明けてくれた。 彼らのやり方じゃ、ラチが開かないからお前を宛がった、だから、自分で考えろ、どうやって滞納金を取り立てるか、タチの悪い連中相手に度胸の据わったサラリーマンがいるかよ、そしてナ、ツケの金額には当然、ムーンヒルホテルの利益が入っている。 料理の原価とあらゆる人件費も入っている。 だから、およそ4割を回収出来れば実質的な損失にはならないのサ。 お前に失うモノがあるか? お前のやり方は何でもまかり通るから、智恵を絞れ、この頭には悪智恵が詰まっているんだろ、と頭を小突かれたのだった。

 

三か月が過ぎても俊太の回収金はゼロだった。 誰よりも早く出社して滑川を始め、歴代の担当者の日報を読み込み、どんな交渉だったのか、相手の状態、交渉内容を頭に入れていった。 読書を続けている内にすらすら読めて、頭にその状況が浮かんでくる。 先ず、狙いを付けたのが大門会である。 組長の磯川照夫は月に一度は会食にやって来る。 フロントに頼んでいたら、→小柴さん、磯川様がいらしています、と連絡が入った。 奥に4人の男がいる、じっと待った。 出てくる時に、→磯川様、経理課の小柴と申します、お目にかかれる機会がないので、少しお時間を頂けないでしょうか? 無礼は百も承知でございますが急を要するお願いでございます、と小便がチビリそうなるのを堪えて、初めての名刺を差し出した。 取り巻きの三人が気色ばむが、磯川は、→よさねえか、話を聞いてやろう、と止めた。 地下二階へのエレベーターは主に荷物運搬用に使われるモノで一般客は利用しない。 四人に不穏な空気が漂い始める。 事務所の中を通りながら応接コーナーへ向かう、気付いた池端課長は、→小柴君、こちらは? い、い・そ・か・わ・さまあ?と、目を剥いて絶句した。 真っ青になって血の気が引き、震えている。 磯川は、→時間の無駄だ、願いとは何だ?と、ドカッとソファーに腰を下した。 池端課長は外せない先約があってこれから出かけるという。 →入社して間もない人間です、ご無礼の段、お詫び申し上げます、と金切り声で狼狽えたまま逃げるように出ていった。 同席をしてくれない上司に呆れるばかりだった。 俊太はハラを決めて、→大門会様には毎年6月、当ホテルをお使い頂いてますが、昨年、一昨年の一部がまだ頂戴出来ていません、二年併せてまだ210万円が未入金のままです、と帳簿を拡げて見せた。 →残金分の請求書は何度かお出ししていますし、担当者が磯川様に直接お会いして催促もさせて頂いていますが、全く入金を頂いておりません、と日報に上がっています。 磯川は、→そんな話は始めて聞いた、俺は会った事もない、とかすれ声で語尾を吊り上げる。 (ここで滑川係長の嘘が発覚した) 請求書は幹事の組の方へ回していますと、お付きの一人が言った。 →それは水無月会だナ、年に一度の大門会の懇親会で費用は会費制、だが見栄を張って会費以上の豪華な料理にした挙句の不始末だろう、子の不始末は大門会の不始末だ、申し訳ない、明日にでもキッチリ払うよ、カタギの衆に迷惑をかけるなんて、この落とし前はキッチリつける、わしの顔に免じて勘弁してくれ、と頭を下げながら怒りを露わにしていた。 そして、→アンタはわしらを相手にイイ度胸をしているナ、けど、もう少し相手の立場を考えた方がイイ、わしらはメンツを潰されるのが最大の恥辱だ、万一、筋違いの事をされたら抉れちまって二進も三進も行かなくなっちゃう、度胸ってのは天性のもんだ、でも智恵が足りなきゃ無鉄砲、ただの馬鹿だ、折角、天から授かったんだ、生かせなかったら勿体ないぞ、と念を押されて背中に嫌な汗が滲み出して来た。 →お言葉、胆に銘じて・・・、立ち上って深く体を折った。 膝から力が抜けていった。 しかし、事の顛末を始終見ていた事務所の中では、その大きな成果に声にならないどよめきが拡がっていった。 翌日、現金で支払いがあった。

 

それ以来、未払金の回収は俊太の独断場であった。 二人の上司はそれでも俊太を無視し続けている。 俊太は顧客情報を分析し、メンツのある人間には個室で、埒が明かなきゃ従業員がいる所で支払いが滞っている事を自らの口で語らせる。 メンツのある奴ほど部下に聞こえるとまさに生き地獄である。 また、オーナー経営者が亡くなって、社長に勝手に使われた、と支払いを拒否する場合は、ムーンヒルホテルで経理担当者を接待し、豪勢な食事と酒を与え、道義的責任を諭すと、自分の金ではないから支払に応じてくれる事になる。 更にどうしても金が無い様な相手には、せめてこれだけでも、と泣き落としを使って半分だけでも回収する。 これはカンちゃんから授けられた智恵だ、そんな時は必ず池端課長を同席させ、損切りを認めさせるのだ。 こうして二年も過ぎた頃、滑川が新規顧客開発課に栄転するという。 これまでの上々な実績を上げた功績だという。 驚いた、俊太の実績は全て、池端・滑川の二人の実績に置き換わっていたのだ。 そして月岡部長直々の人事だという。 俊太は絶句して血が逆流し、月岡に絶望した。 しかし、こんな事で辞めてたまるか、と一方で闘志を燃やしてもいた。

 

お盆が過ぎて数日後、毎週土曜日に本を受取りに来る文枝からお礼を言われた。 毎年、8月13日から20日まで休みが与えられ、これまでは12日の夜行で新潟に帰って行ったが、今年は東京に来たことがない母親を呼んで皇居を見物させたい、と言うから従業員割引の半額券(夏枯れ対策の一環)を手当てしてやったのである。 ところが母親が若旦那に挨拶を、とここに訪問したら、ホテル三泊が無料になったの、文枝は家族同然だ、料金は取れないってすぐホテルに電話してくれて、夢のような三日間だったわ、と幸福そうに打ち明けてくれた。 若旦那は、レストランも手配してくれて、三食は勿論、部屋のベッドは素敵だし、プールはあるし、お姫様になったみたい、出かけるのが勿体なくて、プールサイドの長椅子に座って冷たいもの飲んで、日光浴しながら本を読んでいたら一日なんてアッと言う間ですよ、母も大喜びで、家事も掃除もなく、三食昼寝付きで人生最大の極楽でした、と後ろ髪を引かれて帰りました。

(ここ迄、全429ページの内、94ページまで。 9月になってムーンヒルホテルの竜太郎社長が急死した。 35才になった月岡が社長に就任すると、会社組織は大きく動いた。 今まで父親に封じ込まれていた新社長の事業拡大が始まったのだ。 先ず、麻生寛司がハワイに転勤になった、これから増加する海外旅行客を見越しての先乗りでアメリカ大手のホテルとの合弁事業の開始だった。 実績もない滑川は使い物にならなかった。 池端も同様で、月岡は俊太の実績を横取りした二人への懲罰人事だったことをアトで明かしてくれた。 俊太がこの不条理に耐えられるかを冷めた目で見ていたと知って、胸を撫で下ろした。 夏枯れ対策で全社員に10泊のノルマが与えられた時、俊太は文枝が大喜びした経験を思い出し、デパートや銀行の若い女性が多い職場に自筆のポスターを作り上げ社員食堂とかに貼って貰った。 たった一人で2,000泊の大きな実績を上げた内容とは? 俊太はプライダル事業の先頭に立って拡大し続け、やがて、分社された会社の社長となる。 プロ野球球団買収に関しても大活躍する。 終章近い、過ちを犯すの意のテン、地位や名誉を傷付ける意のテン、の2章は麻生寛司に関する事件だった、何故か? 読み応え充分、文庫も出ているのでは? お薦めである)

 

東京のYさんの奥さんがコロナ陽性になって、濃厚接触者のYさんも自重して今回の札幌行きはキャンセルすると言って来た。 残念! これで今月で閉店するスナックMに行くのはアト一回になった。 先輩のSさんと出かける予定である。

(ここ迄、6,100字超え)

 

令和4年12月20日(火)