令和4年(2022年)12月18日 第578回

除雪車の音が南側のベランダから聞こえてくる。 ギョッとして北側のベランダから覗くと駐車場には我が愛車だけが雪が積もって残っていた。 朝から快晴だったのでまさかそんなに積もっていたとは・・・。 慌てて行って見ると、25cm程の雪が車に積もっていた。 吃驚である。 両脇には除雪車の為に除けていて車がいない。 恐らくマンション前のホームセンター「N」の駐車場に退避したのだろう。 雪を払って愛車を出し、そのアトのコンクリート面に払った雪を均していく作業は20分ほどで終わった。 やれやれ、こんなにも早く二回目の除雪車とは・・・。 去年は12月は一回だけだった、しかし、大雪だったよナ、と思うと、今季は更に大雪かナ、と不安になる。 

 

 

楡周平「TEN」(U内科より借用、2018年刊の単行本)

・・・4年前のこの本は読了済みだ、と途中で気付いたが、面白くてつい、最後まで読んでしまった。

貂、転、典、展、電、澱、(欠点の意のテン、漢字が見当たらない)、(地位や名誉を傷付ける意のテン、漢字が見当たらない)、天、と、9つのテンの章からなる物語である。

 

横浜ドヤ街、大阪育ちだった小柴俊太・19才は、車への当たり屋だったが警察から目を付けられ、今度はノラ猫の子猫を車の前に放り出して運転手から金を脅し取る方法を編み出した。 俊太が子猫の頭を撫でて、迷わず成仏するんやで、化けて出たりしたらあかんで、と放り投げようとした時、→こら、テン、お前まだそんなことをやってるんか!と背後から肩を掴まれた。 麻生寛司だ、→あ、カンちゃん、と二年振りに会う顔だ。 →当たり屋もたいがいだが、そっちよりももっとタチが悪い、と平手で頭を引っぱたかれた。 テンの名付け親は寛司だった、動物の貂に良く似ている顔だったからだ。 寛司は兄・敬太の同級生で随分気が合っていた、敬太は流感をこじらせ肺炎で呆気なく死んでしまった。 父親が戦死してから女手ひとつで兄弟を養ってくれた母親に、この町で何軒もの簡易宿泊所を営む寛司の父親が、豚の飼育の仕事と住居を提供してくれたのである。 折に触れ食べ物を差し入れてくれたがその運び役が寛司だった。 敬太が死んだアトも、あばら家を訪ねてくれて俊太と日の暮れるまで遊んでくれたのだった。 いつしか俊太はカンちゃん、と呼び慕い兄とも思うようになっていた。 そしてカンちゃんは大学を卒業して、東京のホテルに勤めるドヤ街育ちのエリートだった。 →中卒だからトラックの運転手になろうと、日雇いで金を貯めたが講習中は稼げないから、貯金がソコを付いてきた、こうでもしなきゃ授業料を払えない、と愚痴を晒すと、→テン、立身を遂げる人、全部が大学を出ていないし、中には尋常小学校出の人だっているぞ、と諭してくれたのである。 →此の儘だと刑務所行きになって前科者になる、前科者には職場がないぞ、雑用かも知れんが紹介するから真面目に地道に働け、その代り俺の信用を潰すナ、石の上にも三年我慢しろ、と真から慕っている人に言われて心を決めたのだった。

 

客室が二十もある新橋の料亭「川霧」の下足番で早や一年が過ぎた。 完全予約制で政財界の重鎮が多い。 60才を過ぎた茂さんこと、川俣茂二さんと二人で熟している。 女将が緊張して玄関に正座しているのは、ここを経営している「ムーンヒルホテル」の社長御曹司が来るからだった。 まだお目に掛かった事がないが、29才の営業部長で放蕩三昧、夏は海とゴルフ、冬はスキーに出掛け、滅多に東京にいないという噂の男だった。 傲岸不遜で重役を怒鳴りつけるわ、部下を能なし呼ばわりで罵声を浴びせるわ、虎の威を借りる狐そのもの等々、飛び切りのドラ息子と酷評されていた。 カンちゃんに言われたからこそ我慢しているが、下足番はつまらぬ仕事だった。 夢も希望もない、何度辞めたろか、と思った事か、けど、大恩あるカンちゃんに迷惑は掛けられない、その一心で耐えて来たのだった。 給料は安いが二畳に満たない女中部屋であるが家賃は掛からない、三食付きで食費は掛からず、その食事も俊太にとっては紛れもないご馳走の日々だった。 給料は貯まる一方で自動車免許も手にする事が出来た。 月岡がやって来た、俊太より20cmは高い、つま先が黒で残りは白のコンビの靴を履いていた。 その後ろからカンちゃんがついてくる。 カンちゃん、と声を掛けたが必死に月岡のアトを追っている。 茂さんが、→俊太、この二足の靴、仕舞っとけ、と命じられて三畳程の下足番室に入れた。 そして磨く、自発的に始めた事だった。 カンちゃんに言われた「石の上にも三年、どうしたら仕事の効率が上がるか、人に喜んで貰えるか、見ている人は必ずいる、絶対に道は開けるから」を胆に命じて必死に考えた事だった。 茂さんは、客の人相や服装で靴を記憶する、という特技を持っているが、俊太には何もなかった。 座敷に上がったお客様がお帰りになる迄、2~3時間は暇になる。 上座に座るお客と下座の客は靴からして違い、その生活ぶりが表れている、と気付いた。 丸めた新聞紙で靴の中の湿気を取り、墨を擦り込み、ブラシをかけ、布で磨き上げていく。 暇な時間の間が持たないから続けている理由もあった。 →よく続くもんだな、と茂さんが声をかけて来る。 磨き道具や墨などは全部、俊太の自腹だった。

 

二時間後、三和土に並べた二足の靴、自分の靴を見た瞬間、月岡が眉間に深い皺を刻ませて、→おい、何かやったのか、と底冷えのする鋭い視線を向けて来た。 俊太は、→靴をお磨きしておきました、つま先の部分に傷がございましたので・・・、と答えるや否や、ぱか~んと盛大な音と共に頭に衝撃が来て激痛が走った。 →この靴はナ、舶来品でイタリーから取り寄せた油と墨を使っているンだ、そこらの安物の墨で磨くンじゃねェ。 あまりの事に声が出ない、理不尽にも程がある。 それが目に現れたのだろう、→何だ、その目は!と睨んでくる。 後に居た麻生寛司が、→部長、勘弁してやって下さい、コイツはそんな高級品だと知らないんです、私がここを紹介したんです、小さい時からコイツの面倒を見て来たんで・・・、と割って入ってくれた。 ようやく、→お前の知り合いか、しょうがねぇな、と玄関を出ていくと、寛司がアトを追っていく。 俊太は誠意が認められなかった悔しさと屈辱に涙が出て来た。 女将が、→はあ~、あんなのがムーンヒルホテルの御曹司、先が思いやられるわ、塩でも撒いておこうかしら、とため息をついている。 寛司が戻って来た。 これから先はひとりで出かけると先に行ってしまったらしい。 →テン、酷い目にあったナ、お前、俺の言った事忘れちゃいなかったんだナ、偉いぞ、テン。 更に言う。 →あの人も大変なんだよ、社長は小作人の倅で一代でムーンヒルホテルをここ迄大きくした人だ、今や、ホテル8軒、料亭、レストランと事業はどんどん拡大する一方だ、部長がアトを継ぐが親父を超えるのは並大抵の事じゃない、まして、従業員全員とその家族の生活があの人の双肩にかかっているんだ、俺達には想像もつかない重圧がかかっているんだ、傍からみればただの放蕩息子だがあの人は先を見てるよ、ムーンヒルホテルを引き継いだら本領を発揮するよ、部長は大学の先輩でナ、あの人の誘いがあって入社したんだ、これからの日本は急速に発展する、想像もつかない程豊かになる、人の生活も価値観も一変する、贅沢な食い物に、遊びに、当たり前に大金を使う世の中が来る、俺と一緒に天下取りを目指さないか、とな、あの人は周りに放蕩息子に見せながら、じ~っと世の中を見ている、テン、短気を起こすんじゃないぞ、お前のやってることは間違っていない、靴磨きを止めるんじゃないぞ、きっと報われる日がやってくるから・・・、信じろ。

 

午後10時を過ぎると、お客は残り少ない。 今夜も調理場からまな板を洗い出す音が洩れてくる。 花板、向こう板、煮方、焼き方、追い廻し、と料理人の世界も歴然とした階級社会である。 しかし、包丁だけは花板とあっても自分で研ぐ。 最後の四人客がお帰りだ、四組の靴を並べると、大日本物産の寺内社長の靴が中央にある。 →グジ(甘鯛)が美味しかった、と女将を喜ばせている。 →ところで、川霧に行った翌朝はいつも靴が綺麗になっている、朝のひと手間がなくなって助かっていると、女中が家内に言ったそうだよ、と顔を向けると、女将は、→それは私どもが命じた訳でもないのに、この子が靴が綺麗になっていればお客様も気分がイイだろうと申しまして、とふくよかな手を俊太に向けたのだった。 →そうか、そうだったのか、気が付かなくて済まなかったね、これは私の気持ちだ、と優しい笑顔で内ポケットからポチ袋を取り出して俊太に差し出して来た。 固辞したが、女将さんが、→社長さんのお気持ちなんだから有難く頂戴なさいナ、と目を細め心底嬉しそうに言う。 俊太は寺内の前に膝まずいて頭を下げた。 花板や女将に心付けがあるのは知っていたが、下足番への心遣いは寺内が初めてだった。 →君は偉くなるよ、一寸の光陰、軽んべからず、僅かな時間も無駄にしない、出来そうで出来ない人が多いからね、と褒められ、誠意が認められた喜びが胸の中に満ちていった。 ただ、言葉の意味が即分からず、一切、勉強を避けて来たこれまでの人生に、後悔と絶望の念が沸いて絶望感に襲われたのは皮肉だった。 ポチ袋を女将に差し出したが、→磨き道具も墨も自前でしょ、それに当てなさい、と押し戻された。 その時、かなりの長身が向こうから歩いてきた、月岡だ、俊太は凍り付いた、何でアイツがくるんや、聞いてへんぞ、と顔が強張った。 一週間前に逆鱗に触れたばかりだ。 屈辱、怒りは鮮明に覚えている。 →小腹が空いた、何か食わせてくれ、茶漬けと漬物だけでもイイ、と片手を上げて入って来た。 支度が出来る迄ビールをくれ、と勝手に部屋に上がり込む。 今日の靴はえらく汚れている、しかし、茂さんは、→おい、俊太、余計なことをするなよ、このあいだ散々な目に遭ったんだ、触らぬ神に祟りなしってナ、と言いながら先に上がって行った。 ポケットのポチ袋に気が付いて確かめると、何と、500円札が入っている。 かけ蕎麦25円の時代に法外なご祝儀であった。 同じ偉い人でも、感謝とご祝儀、或いは、どつく奴もいる、何ちゅう違いや、と溜息が出る。 下足番室で月岡の靴を見ながら、→今日はなんでこない薄汚れた靴を履いてきたんだろう、わしをいたぶる積りか、磨かなければ怒られる、磨けば磨いたで怒られる、そう考えた俊太はそれに違いない、と確信した。 時間がない、俊太は決心した、カンちゃん堪忍、と心で詫びて道具箱に手を伸ばした。

 

丹念に磨き上げた靴は見違えるほど綺麗になっていた。 三和土の上に靴を揃えて片膝を付き身構えた。 月岡の足がみえた。 特に反応はない。 →女将、ちょっとこいつを借りる、運転手にもメシを食わせてやってくれ、といいながら車に向かう。 運転手の窓をノックして、→お前、メシを食ってこい、キーを寄こせ、と追っ払う。 俊太に向かって、→お前、運転できるんだってナ、そこらを走れ、と後部座席に乗り込んだ。  ドアが重い、ベンツなんて高級車は初めてだ、車体も大きい。 高価な車に傷をつけたら大変な事になる。 全神経を前方に集中し夜の街をひた走った。 →お前、イイ根性しているナ、懲りもしないで何で今夜も靴を磨いたんだ。 →あない汚れた靴見てしもうたら・・・、磨いて怒られた方がええと思うたんです、どつかれてもアト二年の辛抱です、カンちゃんに迷惑掛けられませんので、と正直に答えた。 →じゃ、お前、俺の運転手をやれ、今の運転手は所帯持ちでナ、夜な夜な遊び回る俺に付き合ってんじゃ気の毒になってな。 代わりを探していたんだ、ムーンヒルホテルには何ぼでも仕事がある、日勤に変えてやるだけだ、心配するナ、川霧には明日にでも伝える、明後日からは俺の専属運転手だ。

 

ムーンヒルホテルの本社は東京芝にある。 地上10階、客室480、地下一階は巨大なショッピングアーケード、地下二階には本社機能が集中している。 月岡家の邸宅は元麻布、ものの数分である。 ガレージに隣接した台所付きの6畳間、トイレも風呂もある、そこが俊太の部屋だがこれまでの人生で最も恵まれた住環境だった。 ゴルフ、ヨットの場合は夜も明けないうちから出かけて、帰りはそのまま夜の街に直行となる。 しかし、月岡部長が遊んでいる間は体を休める事が出来るから、一向に平気だった。 月岡は走行中は体を労るかのように殆ど眠っており、まともに言葉を交わしていない。

(ここ迄、全429ページの内、44ページまで。 第一章・貂、の前半である。 また、書き込もうと思う)

 

(ここまで5,200字越え)

 

令和4年12月18日(日)