令和4年(2022年)12月7日 第575回

家内が買い物に出かけて行ったアト、静岡の娘からイクラ等の送り物の御礼の電話があった。 婿さんの事、東京のYさんの極安の札幌旅行(三泊四日ホテル付・航空代金が3万円弱)の事等々、珍しく25分も話した。 今度の送り序に宮部みゆきの本・5冊を入れる事を約束した。 

 

Oさんから借りた奥田英朗「リバー」648ページの長編をやっと読了したが、桐生市と足利市を流れる渡良瀬川河川敷で発生した若い女の二人の全裸死体の発見から始まって、10年前にも同じ若い女の二人の全裸死体が発見された未解決事件と繫がるので、今は定年で退いた元・刑事の執念を絡めた群馬県警と足利県警と警察庁の追跡物語である。 麻薬常習者や、多重人格者が出て来たり、元・刑事の違法捜査等々、無理を重ねたストーリーは読後感が疲労する。 題名の「リバー」とは渡良瀬川の事である。 このストーリーは入り組み過ぎていて、ここにUPする気迫はない。

 

 

真山仁「そして、星の輝く夜がくる」(単行本は2014年、U内科から借用) 

・・・阪神淡路大震災で家屋が崩壊して妻と娘が圧死した教師の小野寺は、スポーツ少年団のスキー合宿で家を離れており、一人生き残った。 16年後の東日本大震災で、東北で不足している教員の補充に応募し、現地で震災後の様々なトラブルに対応しながら、子供達の元気を蘇らせる連作短編集である。

 

40才を過ぎた小野寺徹平は2011年5月に遠間市立第一小学校に就任し、6年2組を受け持った。 初日、教壇に立った徹平は、→まいど~、これは挨拶やで、まいどって言うたら、まいどッ!って返してや、ええか、まいど! 始めは二割ほどだったが、徹平は数回繰り返して、やっと威勢のいい声が返ってきた。 →よっしゃ、オーケーや、ありがとう、神戸から来た小野寺徹平です、みんなの元気を貰いに来ました、これから一年間宜しく!と、わざと額にマイクをぶつけて笑いを誘い、更に頭を上げるときに後頭部にマイクをぶつけると更に笑いが大きくなって生徒が喜んでいる。 →おれは関西人やからおもろい時は遠慮なく笑って下さい、と言った途端に地面が揺れた。 小野寺は思わず屈んでしまったが生徒たちはケロッとしている。 何回もの余震にすっかり馴れてしまっている。 →揺れたら机に隠れろ、地震を舐めんナ、折角生き残った命やろ、怖がりは最強や!と黒板にも書いた。 昨晩から必死に頭に刻み込んだ机配置と生徒の名前、→遠藤悟朗、お前は地震が怖くはないのか、と最前列の子に質問する。 腕白そうな遠藤が大きな目を見開いて、→先生、何でおれの名前を知ってんの? 地震は嫌いだけど怖くはないよ、と答える。 →みんなにも聞くぞ、地震怖い人? 男子はゼロ、女子が三割の手が上がる。 →大谷幸夫、みんな、ええかっこしいか? いきなり名指しされた小柄な少年は弾かれた様に立ち上り、→カッコつけてません、もう、馴れたんです。 →地震に馴れるナ、この言葉忘れんなよ、もうひとつ聞く、頑張れって言葉が嫌いな人? 今度は数人を残して大半が手を上げた。 →桜井奈緒美、何でイヤなんや? 長身で大人びた子が、→ウザイから、充分頑張っているから放っておいて欲しい。 学級委員長の千葉哲が、→でも、世界中から励ましてもらうのは有難いです、と優等生の意見を述べた。 小野寺は、頑張るナ!と黒板に書いた。 すると子供達は口々に騒ぎ出した。 え、何それ、先生がそんな事言っていいの? それらを無視して小野寺は原稿用紙を配った。 →自己紹介がテーマの作文を書いて貰う、但し、一つだけ絶対に書いて欲しい事がある、もう、やってられへんわ!と腹立つことを必ず書いてくれ、遠慮すんナ、何でもええ、こんなん許せんへんと思うことを書いてくれ。 子供達の様子を見ると、妙な行儀良さが気になった。 何かを我慢しているのかも知れない。 生徒が原稿用紙に向かう、ふと校庭を見ると、体育授業の最中だが、校庭の半分は炊き出しや支援物資のテントが雑然と並んでいる。 体育館は避難所になっていて、子供達は窮屈そうに見える。 校庭のフェンスの向こうは遠間川の土手で、震災による廃棄物で瓦礫の山になっている。 ショベルカーが瓦礫を掬い上げる度に粉塵が舞い上がり、ダンプカーが砂埃をあげて走り回っている。 見渡す限り崩壊した街の中で、小学校だけが日常を取り戻そうとしているが、周囲の環境がそれを拒んでいるようにみえる。 何か、歪やナ、無理しているナ、と小野寺は大きな溜息を吐いた。

 

「原発ばっかり言う菅総理大臣にむかつく」 「我慢をしなさいって言うくせにお母さんは我慢しないでヒステリーばかり」 「泣いている時に写真を撮らないでほしい」 体育館の避難所暮らしの松井奈緒美の怒りは、「毎日ケンカばっかりしているみっともない両親にウンザリ、パパはお酒ばっかり飲み、ママはずっと泣いています、こんな家族を捨ててどこかに逃げたい」 遠藤悟朗は、「保育園に通う妹の喘息が酷い、絶対にあの瓦礫のせいなのにみな知らん顔してる、あそこに瓦礫を置くナ」 想像していた以上に声を出せない苦しみや辛さを抱えている、此の儘放って置けない。 赴任前から考えていた「ガス抜き」を実行しようと小野寺はハラを決めた。

 

翌朝、→やってられねェ、という事を東北弁で何て言うんだ、と小野寺が問い掛けると、→わがんね、だと思います、やってられないなあ、もうダメだっていう時に、わがんね、といいます。 成る程、良いネーミングになりそうだ、と小野寺は納得し、→サンキュー、6年2組はこれから毎週「わがんね新聞」を発行します、毎日やってられへんと感じる怒りだけを書きます、子供はナ、我慢し過ぎたらあかんねん、大人に気を使ってお利口さんになっている、せめてこの新聞にだけは本音を出せ、何も書いてもイイぞ、兎に角、腹立つ事や不満を遠慮せんとバンバン書くんや、どうしてもイヤな奴はやらんでええ、やりたいヤツだけやる。 いろいろ不満の意見もあったが、小野寺は一方的に決めたのである。

 

放課後、全員のボイコットを覚悟していたが三人が集まって来た。 委員長の千葉と、遠藤と松井である。 松井は、私の作文を返して下さい、両親の事なんか新聞に載せられません、と好きで参加した訳じゃないと突っ張る。 松井は引き揚げようとするが、小野寺は、→両親はお前の気持ちを知らんのやろ、逃げるなら創刊号の目玉記事にする、もっと話し合おう、と引き止める。 千葉は、僕たちがイヤだというモノは載せないでほしい、という条件付きです、ただし、今回の作文は構いません、という内容は、被災死した前担任の三浦先生について、「職場放棄したんだから自業自得」と非難されていることに対しての怒りをぶつけていた。 「その日、風邪で欠席していた生徒が、自宅で寝ているのを知っていたから、助けに行って亡くなられました、それを勝手なことをしたからバチが当たったなんて言う奴は許せない」

 

翌々日、「わがんね新聞」は完成し、玄関ホールに貼り出された。 編集長・千葉、記者・遠藤、デザイナー・NAOMIとし、千葉が檄文を書いていた。 →遠間市立遠間第一小学校の諸君、街は全然復興しないし、家にも帰れない、こんな生活はイヤだ、いや、おかしいぞ、みんな、もっと怒れ、泣け、そして大人たちにしっかりせんかい!と言おう。 「わがんね新聞」は世の中の大人たちにダメ出しをする新聞です。 新聞はたちまち大評判になって、1組の奴が俺のも載せてくれ、と言って来たらしいが、1組で考えてオリジナルを作れ、と突っぱねた。 昼休み、校長室に呼ばれた。 教頭と教務主任も苦々しい顔で同席している。 二人からクレームが沢山あったが小野寺は自信を持って退けた。 →ここの子供はいろんなことを我慢し過ぎです、子供の成長を妨げています、新聞で特定の誰かを攻撃していません、個人的呟きです、これからは週一で発行します、と断言すると、苦労人と思われる校長が、→私も面白いと思います、と助け船を出してくれて今回は収まった。 放課後、日に焼けた大男が大声で小野寺を呼んでいる、男は玄関ホールの新聞を丸めてぶつけて来た、→アンタ、俺らを莫迦にしてんのか! 胸倉を掴まれて息が詰まりそうだが、女性が割って入って、→お父さん、先生に何てことするの! 申し訳ありません、松井の母です、と頭を下げた。 松井奈緒美は土壇場で全文の掲載を申し出て来たのだ。 匿名だったが両親は直ぐ自分達の事だと察したのだろう。 →こんな恥晒されて黙ってられっか!と父親の怒りは凄まじいが、母親は、→奈緒美が、私たちがケンカばっかりしているから新聞に書いたって言ったんです。 小野寺は殴られるのを覚悟して尋ねた、→ここに書かれている事は嘘ですか、嘘ならお詫びしますが、本当の事だからそんなに怒っておられるんですね、どうですか、お父さんも「わがんね新聞」作りませんか、酒を飲むより楽しいですよ。 締め上げられてから突き放された、→家がなくなって船もねェ、仕事をしたくても何にもねェ、この悔しさが他所の町から来たもんに分かるのか、と怒声を上げる。 小野寺は反撃した、→政治がアホで義援金も支給されていない、メッチャ、腹立つ事ばかりで避難所でぼんやり過ごすなんてたまらん、国は俺らを見捨てたのか!と声を上げたらどうですか、あなたも海の男でしょ、イジイジして子供や奥さんに八つ当たりするのは男として最低や、と言い切ると、血走った目で体を震わせながら睨み付けていたが、松井の父親は職員室を出て行った。 血相を変えた母親が詫び言と共に追いかけて行った。 校長が、→小野寺先生、私は感謝していますよ、先生のお陰で忘れて居たことに気付きました、子供は伸び伸び育てる、大人の犠牲にしてはならない、久し振りに生き生きした子供顔が見られました、それで充分です。 玄関ホールに目を真っ赤にした松井が近付いてきた、→新聞をこんなにしてお父さん、最低、と言うので、小野寺は、→お父さんも悔しいんだぞ、かっこええ海の男だったのに津波が全部壊しよった、男として父親として悔しいんや、と思いやると松井は大きな目から涙を溢れさせて、→わかってる、かっこイイパパが大好きだった、ママだってオシャレで美人だし、私の自慢だった、なのに全部変わっちゃった、こんなのもうイヤなんです、と声を上げて泣き始めた。 小野寺は松井を抱きしめて、→おまえは頑張っているよ、そして勇気がある、ご両親にちゃんと意見言えたんだからナ、それはほんま凄い事なんやで、大丈夫や、全部元に戻る、と言いながら信じたかった。

 

6年1組が「ゆるせね新聞」、5年1組が「バカヤロー新聞」を同時に出し、玄関ホールの壁はいっぱいになった。 仕事無いなら探せ! 一定のメドが付くまでって何だ総理! 勝手に俺たちのメシ食うナ、ボランティア!等々、児童の筆が走っている。 テレビのインタビューが来たが、千葉と遠藤と松井に任せる。 マスコミは利用するに限る、三人を紹介して立ち去ると、背中から松井の朗らかな声が聞こえ、その笑顔が眩しかった。 遠藤の妹の喘息はサッパリ治らない。 小野寺は、この問題をわがんね新聞で取り上げたらどうだ、と提案すると、彼らはすぐ幼稚園や役所に取材に出かけた。 新聞社やテレビ局にもコピーを送り、小野寺の知人の化学物質過敏症の専門家にもアドバイスを求めた。 知事や総理大臣にもこの記事を送りたい、とインターネット新聞も作り上げた。 第6号を仕上げ最中に松井夫婦と数人の保護者が訪ねて来た。 →実は悪臭や粉塵の問題について、子供達だけに任せているのは恥ずかしい、と避難所の皆で考えました、こちらの写真店の田丸さんが縮小版を50枚印刷しましたので市役所や県庁やマスコミに持参します、子供達を見ていたら、気力がないとか嘆くのが情けなくなりました、私らも本気でやります、これ以上、子供達に辛い思いをさせたくないです、先生に怒られたおかげです、と松井の父親が感謝の言葉を投げかけてくれた。

(ここ迄、第一章・わがんね新聞まで。 全293ページの内、48ページまで。 以下、第二章・「ゲンパツ」が来た、第三章・さくら、第四章・小さな親切、大きな・・・、第五章・忘れないで、最終章・てんでんこ、と続く、小野寺先生が活躍する震災文学である、読み応え充分である)

 

(ここ迄5,100字越え)

 

令和4年12月7日(水)