令和4年(2022年)8月30日 第542回

床屋の帰途、小料理「K」(今年2回目)と、スナック「M」(今年9回目)に寄ったが、どちらの店も客は自分一人だけだった。 又、増えて来たコロナを敬遠しているのかも知れない。 本当に水商売の方々のイライラ感が判る。 二軒ともぜひ、頑張って欲しいナ。

 

 

原宏一「佳代のキッチン④ ラストツアー」(単行本2021年、図書館から借用)

第一話 漁火とダルバード

「いかようにも調理します」という木札を提げたキッチンカーで全国を走りまくって

いた佳代だったが、コロナ禍の緊急事態宣言で移動調理屋が出来なくなった。

5才下の弟の和馬は経済新聞社の記者で、共働きの日向子さんと西荻窪のマンション

で暮しているが、今回は厚かましくそこにお世話になっている。

・・・やっと政府が旅行キャンペーンを始めたので、そろそろ本業に戻ろうと思った

時に、「昌子のキッチン」の家坂昌子さんから携帯が鳴った。 彼女は松江市の

料理旅館「水名亭」の仲居頭だったが、佳代の調理屋に魅せられ、温泉街で働く女性

の為に佳代のキッチンを継続してくれた人だった(第393回でUP済み)

誰もかれもがコロナ禍で商売が大変だが、函館の「自由海亭」が店を閉めたって言

う。 吃驚である。 昌子さんは松江魚市場の仲買さんから漁師づての話を聞いた

らしい。 佳代が両親の足跡を追跡中に、10年前に立ち寄った函館自由市場の食

堂の魚介メシは、そもそも佳代の両親と思われる若夫婦からレシピを授かったモノ

だった(第394回にUP済み)店主のタエさんが佳代が取り出した若い頃の両親

の写真を見た途端、→この若いご夫婦、我が家の救世主なの、とその経緯を教えて

貰ったのだった。タエさんは夫を亡くして食堂を一人で切り盛りしていたが、此の

儘では潰れる、と覚悟していた時に、この夫婦が売っていた、評判の高かった魚介

メシのレシピを簡単に教えてくれて、→このおかげで私と息子は今日まで生きてこ

られたの、と感謝感激の涙で打ち明けてくれたのだった。 佳代もそのレシピを教

えてもらって、今では更にその土地・土地の地魚を加えて美味しく工夫していた。

 

10月下旬の朝6時に西荻窪を出発、東北道~青森市~野辺地~大間港~函館港と

り、20時過ぎに自由市場に到着した。 翌朝、やはり自由海亭はベニヤ板で封

鎖されていた。 青果店の女将さんに尋ねると、→タエちゃん亡くなったのよ、ク

モ膜下でね。 息子の海星クンと二人で暮していたという家を訪ねた。 ドアを

ノックすると、髪も髭もボサボサの若い男が顔を出した、→昔、タエさんにお世話

になった佳代といいます、と挨拶してちらッと中を覗くと、大量のゴミがぶちまけ

られていた。 腐臭も漂ってきた。 →帰ってくれっかな、と呂律の回らない口調

で呟く、朝から呑んでいるようだ。 それでも必死に食い下がると、→帰って

くれッ!と怒鳴りながらドアを閉めてしまった。 向かいの小さな水産加工場から

マスクと割烹着姿の老婆が顔を出して、→海星に何かされたんかい?と訊かれたの

で、これまでの経緯と、今、門前払いにされた、と話すと、→折角だからお茶でも

飲んでって頂戴、と坂下と自己紹介して家に招き入れられた。 →海星は小学生の

時に父親を亡くしたから、良く、ここの工場に手伝いに来てたの、イカを洗ったり、

干し網に並べたり、そのたんびにイカ丼を食べさせたり半端な生イカやホッケの干

物を持ち帰らせたりしてたの、だから、後になってタエさんがね、涙ながらに、

→坂下さんのおかげで生きてこれたって、礼を言われた時は照れ臭かったねェ、

そして、中学に入ったその日に、海星がウチの亭主にイカ釣り漁船に乗せて欲しい

って頼み込んできたの、不憫な少年の申し出に亭主は迷いに迷ったが、船に乗せて

雑用をさせてやったの、とこれまでの経緯を話してくれた。 そんな時にタエさん

は魚介メシのレシピを教わって自由海亭は再浮上したのだった。 中卒後、イカ漁

師となって稼ぎ始めた海星だったが、イカ不漁、コロナ禍と続き、自由海亭も崖っ

ぷちになって、タエさんがあっと言う間に逝っちゃって、天涯孤独になった海星は

ますます自暴自棄になって、結婚の約束していた彼女も追い返してしまって、イイ

娘さんなのにねェ・・・と、最近の事まで教えてくれた。

 

立待岬の無料駐車場で何が出来るか考えていた佳代は、魚介メシを海星に食べて貰

うと決断した。 タエさんと海星クンは魚介メシによって崖っぷちから脱出でき

た筈だ。 自由市場の「柳鮮魚店」で由香さんという女店員から、真イカ、ホッケ、

甘エビ、ホタテを仕入れて坂下婆の加工場で地下水を使って調理した。 最近、ア

ルバイトで嵌って新大久保で身に付けたスパイスをふんだんに使った。 坂下婆や

従業員に試食してもらったが大好評だった。 →タエさんの魚介メシより美味しい

!と言ってくれた。 再びタエさん宅を訪れ、→海星クン、佳代です、魚介メシを

作って来たの、開けて頂戴!とドアを叩いてちょっと開いたドアから無理やり中に

入り込んだ。 魚介メシを差し出して、→食べてみて、折角だから食べてよ、と促

すと、渋々ながら頬張った。 どうかな?と思わず聞いてしまったが、海星は、

→全然違う、帰ってくれ!と不貞腐れたセリフを吐いてゴミ袋を蹴飛ばした。 

 

坂下婆が由香さんが海星の彼女だと言うので、二人で話し合う事にした。 →小さ

頃から母一人子一人の生活が長かったから、人生の同志みたいな太い絆があった、

由香が言う。 だから由香と結婚して母親との距離感が変わる事を懸念してか、

海星は踏み切れないでいたらしい。 そんな時にイカ不漁とコロナ禍、そして母の

急逝、唐突に絆を断ち切られた海星は、おれは母に何もしてやれない儘に死に追い

やってしまった、と自己嫌悪の塊になって、厭世観に駆られて人を寄せ付けなくな

ってしまった。 昼間はゲーム三昧で呑んだくれ、コンビニとカップ麺、ビールや

酎ハイでゴミ屋敷に閉じ籠る日々が続いている。 →食の記憶は大事なの、あたし

は少しづつ踏み込んでいって、少しづつゴミも持ち帰る、それを繰り返していれば

海星クンもきっと馴染んでくれると思うので、そうなったら由香さんにも同行して

もらう。 すると、由香は、→魚介メシの食材と一緒に、海星の昼夜・二食分の食

材を私の負担で揃えて置きます、と快諾した。 海星が好きだというホッケフライ

定食を届けた。 直ぐ貪り付いて旨そうに食べている。 そしてゴミを片付けてふ

た袋を持ち帰った。 ・・・海星の家に通い続けて8日間が過ぎた。 ゴミも持ち

帰り、畳や床の掃除も続けた、そんな佳代の頑張りを目の当たりにして後ろめたく

なったのだろう、ゴミはゴミ箱に捨てるようになったし、昼夜二回の佳代の食事が

功を為してコンビニ弁当やップ麺の食べガラも激減したし、昼酒もしていない。

カレーも大好きと由香から訊出していたので、初雪があった日に、→ネパール人

に習ったカレー(ダルバード)、と言い置いて来たが、入って行った時に台所を

掃除していたのには吃驚した。 帰り際、→旨いッす、と初めて言葉を発したのは

本当に嬉しかった。 夜にはネパール料理を届けたが、お昼の食器が洗ってあった。

ボサボサの髪が刈られていたし、髭の剃りアトも清々しい。 局面が変わった、と

思ったので由香さんのアパートを訪ねた。 ・・・翌日朝7時半、由香さんはふた

箱のトロ箱にいつもの倍の魚介を用意してくれた。 正午ギリギリにオリジナル魚

介メシが完成した。 →海星クン!とノックすると精悍な青年に生まれ変わった

星が塵一つない座敷に通してくれた。 コタツの前に正座して、→頂きます、と

手を合わせる。 目を閉じて味わい、→おふくろのだ、と呟いてぽろぽろ涙を零し

始めた。 佳代はメールを打って由香を呼び寄せた。 →美味しかった?と由香が

顔を出した。 佳代は言った、→これ、由香さんが作ったの。

 

湯の川温泉で寛いでいる時、由香からメールが入った。 →明日から海星の家で暮

します、そして来週籍を入れます。 海星は、船主に詫びを入れて元のイカ漁師に

復帰すると言う。 嬉しい結末に充足感を漂わせていると、大分・佐賀関で束の間

の恋に落ちたひと回り年下のフランス人・アランを思い出した。 彼は帰国してそ

の後、どうしているのだろうか? コロナ禍が収まって来たら、今までの皆に会い

に行こう、と心に誓った。

(以上、全301ページの内60ページまで) 

 

 

第二話 ご近所の国籍 群馬県大泉町はブラジル人町

第三話 せんべろのマサ 大阪十三の「せんべろ店」のマサは東灘の酒蔵の息子     

第四話 ざんぎり娘 福江島にUターンした父娘だったが娘は寿司職人になると。

 

第五話 トンボロの島

佐賀関の「まさえ屋」は、ヒッチハイク中のフランス人・アランと調理屋を開い

た場所だった(第540回にUP済み)訪ねると店主の正江さんが目を見開いて

吃驚している。この前、アランが来た、小豆島にいく途中に寄った、と言うで

はないか。 小豆島と言えば、東灘の宍倉酒造の吟香さんがオリーブ農園と酒米

農家とコラボして海外向けの日本酒の開発をしている、というのを思い出した。

電話で確認すると、長期滞在のフランス人はマチアスさんと言う人だった。 

しかし、正枝さんは、小豆島に確認に行きなさい、とかっての二人の恋心を知っ

いるから強引だった。 フェリーで豊予海峡を横断して四国に渡り、高松市で

フェリーに乗った。 福江島、佐渡ヶ島、礼文島に続き、四つ目の島だった。 

オリーブ油、手延べ素麺、醤の郷、等々の幟が旗めいている。 吟香さんから紹

頂いたオリーブ園の大沼代表に伺うと、30代後半の3代目だという。 

何と!アランが収穫スタッフとしてここで働いている、今日は岡山に行ってるの

3時半に帰る予定だと言う。 ・・・アランが飛んで来た、→佳代! 会いた

かったよ、満面笑顔で抱擁してくる。 →調理のカー、ある? じゃドライブし

よう。 小豆島のモンサンミッシエルがあるという。 この三か月間、アルバイ

トをしなが佳代を捜していたから、こんなに早く会えるなんて吃驚だよ、奇跡

だよ、と微笑む。 帰国後はリヨンの大学を卒業して就職したが早くに退職、

再来日して佳代が調理屋を営業した土地、東京、金沢、京都、佐賀関を訪ねて

痕跡を探し続けたらしい。 小豆島にはワーキングを求めて来たという。

→これは神のお導きだよ、今、佳代はボーイフレンドは? 首を振って否定す

と実に嬉しそうに、→やっぱり神のお導きだ、と興奮している。 弁天島は

午前と午後に干潮時に砂州が現れて砂の道が繫がるのでエンジェルロードと呼

ばれている(正確にはトンボロ現象と言う) 去年、アランのお母さんが亡く

なった、もう、フランスには拘りは無くなった、ますます、佳代に会いたくな

った、絶対結婚したい、と思いを吐き出す。 →このエンジェルロードを渡る

と願いが叶うのさ、さぁ、行こう!と腕を組んだ。 ・・・和馬に結婚する

事を伝えた。 このまま松江に行って婆ちゃんの墓前にお参り・報告し、東京

に戻って入籍する、そのアトは二人揃ってフワフワ人生を続ける事にしたの

だった。

(「佳代のキッチン」最終回はフランス人との結婚だった。 二人の調理屋

のフワフワ人生も覗いてみたい。 まだまだ日本全国の湧き水と地元料理を

訪ね歩いて欲しかったなァ、残念なり!)

 

 

PGAの次シーズンが始まるのは9月15日であるが、22日開催の「ザ・

ブレジデントカップ」(二年に一度のアメリカ選抜対世界選抜戦)が終わって

から本格的に始まるのだろう。 アメリカ対欧州の「ライダーカップ」も

二年に一度だが昨年行われている。 今年の世界選抜は、松山を始め

7~8ヶ国の選手・12人になりそうだ。 楽しみであるが、それまでの

約3週間、世界のプレーが見られないのが淋しい。 

(ここまで4,900字超え)

 

 

令和4年8月30日