あぶくま新感線記念入場券(昭和63年・1988年) | 記念切符あれこれ

記念切符あれこれ

亡き父が集めていた記念切符、実家からもらい受けたものの、箱に入ったまま納戸にしまい込み10数年、あまりにも雑多に入っているので、少し整理をしようと思い立ち、それならブログに写真を貼ったら一覧代わりにになっていいかも・・・と思い、少しずつ記録することにしました。

今日も東北の鉄道会社を。
駅員さんの帽子と共に写る、陸橋を渡る阿武隈鉄道の車両。
阿武隈急行は地震による被害は受けたものの、浜通りを走っていなかったせいか
震災から2カ月強で全線復旧しているようです。
「新感線」は「新幹線」に掛けているのかなぁ?
こちらが封筒のおもてみがありますが、裏ですね。
裏はこんな感じです。
全線開通するまでいろいろあったようで、さらっとその歴史がよみやすい口語で、時折方言で
書いてあります。
封を開けるとこんな感じで、さらに開けると・・・
スタンプ台帳になっており、中に冊子が入っていました。
冊子を取ると6駅の切符が透明なポケットに収まっていました。
切符部分を拡大します。
この6駅が有人駅だそうです。
保原は一昨年亡くなった伯父が住んでいたところだわ。
切符を出してみると、駅の二つ名のようなものと共に、施設までの距離が書いてありました。
温泉だったり、卸売市場だったり、神社仏閣だったり…
下の白いのは切符の裏です。
桁数が多いですね。
 
ここから入っていた冊子のご紹介。
まずは表紙。
裏表紙。
全体は横長の4つ折りとなっています。
まずひとつ開きます。
左側は8100系の解説が(民鉄初の交流専用電車なのだそう)、右側はその車内です。
ここから左右別々に開いて載せます。
まず左側を。
設計図と共に、各室の紹介があります。
右側はこんな感じ。
主要諸元表とともに、きっとこだわりの部品なのでしょう。
 
ここから震災時の話を綴ります。
 
東日本大震災の時、私は娘の小学校の修了式の付き添いで体育館に居ました。
地震などよくあることですから「揺れてるね」くらいだったのが、収まるどころか
どんどん大きくなっていく揺れに、体育館の鉄の骨組みが不気味な音を張り上げていきました。
体育館では隠れる机もないため(子供たちはパイプ椅子に頭を押し込めていましたが)、
先生の指示で校庭に避難し、揺れが収まらない中、3階にあった屋外プールの水が、
バケツの水をひっくり返したように校庭に降ってきました。
帰宅する道中は停電のために信号が消え、やっと家に帰り着くと、テレビでは大津波の映像が。
当時、義弟親子が相馬に住んでおり、何度か遊びに行っては近くで釣りをしたという夫が
見覚えのある港町が波に押し流されるのを見て呆然としていました。
知らない町が波にのまれるのを見ているだけでも衝撃がすごかったのに、
知っている町が流されるのはどれだけの衝撃だったか。
 
塙の伯父のところに電話をすると、従兄が「家の中は大変だけど、みんな無事」と。
しかし、相馬の義弟にはなかなか電話がつながらず、災害伝言ダイヤルを残したものの、
その使い方を知らなかったそうで、連絡が取れるのに随分と時間がかかりました。
津波は以前住んでいた貸家を飲み込んだものの、当時住んでいた持ち家は無事でした。
しかし、原発事故で「福島」は危ないと、一時我が家に避難していました。
 
福島は広いのに、「福島」というだけで誰もが「放射能で危ない」とあからさまに敬遠し
震災直後に亡くなった伯母の葬儀に行くのも、電車という足がないのに、
(東北新幹線も水郡線も福島県内を走れるようになったのは4月以降)

伯母の息子である従兄が、葬儀に参列するためにレンタカー屋に行ったら
「福島に行くのであれば貸せません」
と断られたと、葬儀に参列した妹から聞きました。(妹は従弟の車で行きました)

従兄は母の葬儀だからと食い下がり、その営業マンは
「お互い福島行きだということは知らないことにしましょう」
と言って、最終的には貸してくれたのだそうです。

 

塙の場所、わかりますか?

津波が襲った浜通りではなく中通りで、原発のあった大熊町より茨城の方がずっと近くて

当然原発の避難区域でもなく、避難区域を横断するワケでもなかったのに、「福島だから」と…

ま、相馬から義弟親子も放射能を気にして避難してきたくらいですから、当時は仕方なかったのかもしれません。

 

今、処理水の問題で、福島はまた取り上げられる機会が多くなっているように思います。

確かに津波の傷跡だけでなく、3年前に通った常磐道のところどころ現れたモニタリングポストの電光掲示。

昼であれば遠くに原発が見えたそうです。

避難区域が少しずつ解除されても、まだまだ復興は道半ばだと思わざるを得ません。

見えるものすら片付いていないところも多くあるのに、目に見えないものに怯えながら

風評被害にさらされながら…

「復興」は物理的なものももちろん大事ですが、正しい知識も大事だと感じます。

 

話がかなり脱線してしまいました…

水郡線は東日本大震災の被害よりも、令和元年の台風被害の方が酷かったんですよね。

台風だったり大地震だったり、あるいは事故だったり…何が起きても止まってしまった電車を

少しでも早く復旧させようと尽力される方々には感謝しかありません。