えいみーちゃんのこの記事。
まさに今、私がやろうとしていること。
えいみーちゃんの記事より
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本来、わたしたちは、
他の誰の状態も、
機嫌も、
エネルギー状態にも、
責任を持つ必要はなかった。
だけど、
生きてきた中で、
役に立たなくちゃ、とか
笑顔にしなくちゃ、とか
期待に応えなくちゃ、とか(多くはお母さんでしょうが)
「そうしなければわたしは愛されない」という勘違いに飲み込まれて、
『誰かの機嫌や、誰かのエネルギーの責任を持とうとしてきた』のだと思います。
そして、
同等に、
『自分の機嫌や、自分のエネルギー的なものも、
誰かに責任を持ってもらおうとしてきた。』
赤ん坊の頃のまま。
大人になってもなお。
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11月、12月と
超久しぶりに(1年半以上ぶり)実家に帰って、
いろいろと感じるところがあった。
いろいろ苦しいこと、
イライラすることもたくさんあって、
あぁー、
こういう中で生きて来たんやなぁ、
としみじみ感じたりもした。
それが、
えいみーちゃんのいうところの
「そうしなければわたしは愛されない」という勘違いに飲み込まれて、
『誰かの機嫌や、誰かのエネルギーの責任を持とうとしてきた』
という状態なんやなー、と。
ひとりの人が責任を持てるのって、
「自分自身の状態だけ」だと思います。
自分の状態、というか、
自分の機嫌、というか、
自分のエネルギー的なものというか。
わたしたちが責任を持てるのは、
そこだけだと思うんです。
あとは、もう全部、
神様に丸投げするしかないレベルなのかもな、と思うほどに。
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そうか。
お母さんに笑顔でいて欲しかった。
お母さんに喜んで欲しかった。
お母さんに幸せでいて欲しかった。
だけど、
私が出来るのは、
私が責任を持てるのは、
自分の状態だけなのかーーー(´TωT`)
どれだけお母さんに
幸せになって欲しい、
喜んで欲しい、
笑顔でいて欲しい、
と思っていても、
幸せになるのも、
喜ぶのも、
笑顔になるのも、
お母さん自身でしかなれへんのや。
私がどんなに頑張っても、
私がどんなに喜ばせようとしても、
不機嫌な時は不機嫌やし、
文句言う時は文句言う。
お母さん、文句言いやしな。
文句言ってるの、楽しそうやしな。
そういう人なんやな。
たまに
私がしたことで嬉しそうにしてることもあるけど、
それはたまたま
嬉しかったんやな。
私の責任じゃなかったんやな。
私がそうしたからじゃなかったんやな。
私が何かしたから
人を幸せに出来たとか
喜ばせてあげられたとか、
それもまた
傲慢な考え方やったんやな。
あ、
これはいじけて言ってるんじゃなく、
そっかー、
そういうことなんやな、と
人を変えることは出来ない、
人に責任を持つことは出来ないって、
こういうことなんやなと
うっすらうっすら
染み込んでる感じ。
そして、
私が出来るのは私のことだけ、
あとは神様に丸投げレベル
ってのも
今の私には
染みる言葉やなぁ、と。
まだ完全に腑に落ちた訳でもないし、
彼女たちへの怒りはまだ消えないけど、
少しずつ少しずつ
自分の感覚として落とし込んでいけたらいいな。