川野芽生さんの『AはアセクシュアルのA 「恋愛」から遠く離れて』を読んだ。

この世はあまりに「恋愛中心」に回りすぎでは?
人と人との関係性のあり方は、ひとつひとつすべて違うのに。

小説家、歌人、文学研究者として活躍してきた著者が
アロマンティック(無恋愛)/アセクシュアル(無性愛)として
生きてきた経験から考え抜き、怒りと祈りを込めて綴ったエッセイ。

 

私自身も自分のセクシュアリティについて迷い、Aro/Aceに関する他の本を読んだり、交流会に参加したことがある。

 

川野さんという作家の存在は少し前から知っていて、はじめはロリィタファッションの愛好家であるというところから興味を持ち、『かわいいピンクの竜になる』を読んでいた。(「装う」ことをテーマにした、うっとりしたり、ときにスカッとさせてくれるようなエッセイ集です)

 

『かわいいピンクの竜になる』の中でも川野さん自身のアロマンティック・アセクシュアル(以下、Aro/Aceと書きます)自認の話は出てきていて(元は同じWEB連載発の2冊であるとのこと)、

その時点で川野さんの書く文章に安心感と魅力を感じていたので、今回このテーマの本も躊躇いなく手に取ることができた。

 

私自身の中では、セクシュアリティの件はもう「なるようになるか」と吹っ切れてしまい、渦中にいるというわけではないのだが、だからこそ落ち着いて読めたと思う。

読みながらいくつか印象に残った箇所があるので、覚え書きをしておく。

 

  恋愛関係の本質とは何か

 

「付き合う」とは何か?「恋愛関係」の「恋愛」性というのは何か?という問いに、川野さんが面白い答えを出していた。

「その人とだけ性的関係を結ぶ」とか「一人だけに限定する」とかそれ自体は本質ではなくて、「他の関係と異なること、他の関係と比べて特別であること」なのではないかという。

そして私は、特定の関係を他の関係から差別化したいとは思わないのだな、と気が付く。(p.98)

ひとつひとつの関係は、全部違う次元にあって、比べることも交換することもできないはずなのに、この関係が一番大事だとか、この関係だけは他の関係と違うのだとか見なしたとき、すべてが交換可能な項目に貶められてしまう。そのように私には思われる。

私が他者と恋愛関係になりたいと思わない、(たとえ、「性的関係」といった要素がクリアされていても)「恋愛」というラベルを他者との関係に貼りたいとは思わないのは、そのためなのだろう。(p.99-100)

川野さんは、ある人との関係と他の人との関係は比べられるものではないのに、そのうちのどれかに「恋愛関係」というラベルを貼るとそれを比較したことになってしまい、それぞれの唯一無二性が貶められてしまうと書く。

比較・取捨選択の論理を、対人関係に持ち込まないということだと思う。

 

一方で、私が感じるのは

私たちは日々いろいろなところでいろいろなものを横一列に並べて比べ、取捨選択させられているし、時には人にそう迫ってしまってもいる。

そうすることに慣れすぎている。

(例えば「犬派?猫派?」といった問いは雑談のテーマの定番だし、最近はアイドルグループが好きだと聞けば挨拶のように「推しは誰なの?」と聞いてしまう。日常的にそういう会話の流れに身を任せてしまっている自覚がある)

 

そうこうしているうちに、何においても自分にとっての特別を選ぶ「べき」とか、

特に選びたくない場面でも、どれか選んでおいた方がなんとなく物事が「うまくいく」とか、

何かを捨てて何かを選び取れるのが「大人だ」とか、

そういう考えによって自らじわじわと「比べない自由」を手放していっているのかもしれない、と思った。

 

それにしても。

私には、「みんなそれぞれが唯一無二で、どの関係も大切」と言っている人よりも、

「これは特別な関係」と言えるものがある人の人生の方が充実しているように思えてしまうときがある。(「いつも」ではない。)

 

それはきっと正しくはないのだけど、時々そう思ってしまうのはなんでなんだろうね。

 

  Aro/Aceは差別されているか

 

Aro/Aceは差別されているか?という問いを、初めてちゃんと考えた。

 

川野さんは、「Aro/Aceは差別を受けている」と言う。Aro/Aceが経験してきたことの例を文中でいくつもあげて、それらは差別に他ならないと断言している。

でも正直言って、私が初めて読んだときには「これって差別なの?」と疑問に思える箇所もあった。

 

例えば、差別と偏見の違い。

独身者が「人格に問題がある」と見なされること。(p.152)

私も独身なのでこういう言葉にチクリと刺されることがなくもないが、それは差別というよりは「視野の狭い人だな」くらいに思ってきた。

 

差別というのは例えば、独身だからというだけで正当な理由もなく就きたい仕事に就けないとか、お店に入れてもらえないとか、付き合いを断られるとか、明確な排除や別扱い、またはそれを示唆したり煽動したりする表現のことを言うのだと思っていて、単に偏見を向けられることとはまた別だと思っていた。

 

憲法学者の木村草太さんが以前、「差別は感情の問題で、偏見は事実認識の問題」と発言していたのが印象的で、

この考え方に基づけば、「独身者が『人格に問題がある』と見なされること」までであれば「人格に問題はないですよ」と訂正すれば済むので、それは(少なくとも言葉上は)「差別」というより「偏見」と言えるのではないかなと思っている。

 

また、差別と同調圧力の違い。

Aro/Aceは、存在をあぶり出されるのではなく、否定されるという方向の差別を受けがちだ。(p.150)

「あなたはアセクシュアル/アロマンティック『なんか』ではないよ。ちゃんと人を好きになれるよ。だから大丈夫」(p.150)

現にAro/Aceの人びとが生きているのに、その存在を消し去られること、Aro/Aceとして生きていくことを否定されることは、充分すぎる差別だ。(p.150)

こう書かれているように、Aro/AceにおいてはAro/Aceだから別扱いを受けるというだけでなく、Aro/Aceであること自体を否定され、むしろ自分たちと同じであることを期待される経験が多いという。

この経験を想像する上では、「差別がある」というよりも「同調圧力がある」とか「全体主義的である」と言う方がしっくり来るよなと思ったりもする。

 

でも、「だからAro/Aceは差別されていない」という反論を私は導かない。

 

実際のAro/Aceの具体的な声を読んで、「これは差別と言えるのかな、それとも他にもっと適切な表現があるのかな」などと考えることで(その中で、自分自身の「差別」に関する認識のアップデートも試みつつ)、

「これは全てを一括りに『差別』とまでは言い切れないんじゃないか?」と思う部分こそあれ、

Aro/Aceに対する「偏見」や、Aro/Aceを抑圧する「同調圧力」が今、現にこの世に存在するのだとはっきり言語化・認識できたことになる。

そして、偏見や全体主義が差別の温床になることは歴史上も言うまでもない。

 

これは差別だ/ではない、の議論に終始して、差別とは言えない→対処不要、と完結してしまうのではなく、

偏見や圧力が差別を準備することを強く意識しつつ、それが差別につながらないように考えて行動していくしかない、自分はそういうスタンスでありたいのだなあと思った。

 

※もちろん私は私、川野さんは川野さんで採用した言葉の定義や解釈をもとにこう考えたり書いている(し、川野さんが文中でその定義を明記しているわけではない)のであって、

「Aro/Aceは差別を受けている」という川野さんの記述が誤りかどうかを判断する意図は当然ないし、そうできる条件でもない。

 

  「恋」と「愛」と、装幀の話

 

Aro/Aceについては、彼らが持って「いない」感情や欲求について語られることがどうしても多くなるが、この本には、川野さんが持って「いる(いた)」、「恋」と「愛」の話が出てくる。

 

特に、「恋」についてのパートは読んでいて楽しかった。

その時に「恋」と呼んでいた感情がその当時はあって、現在の自分の用語法ではそれはもう「恋」とは呼んでいないけれど、その当時においては「恋」であったことを否定したいわけでも別にないからで、(p.192)

私が友達に向ける気持ちには、一方向的な部分がある、と私は感じていた。相手が私のことを好きでいてくれる気持ちよりも、私の方が相手のことを好きでいる気持ちの方が上回っているように感じていた。(p.197)

目の前にいないときでも相手のことを考えて、寂しくなったり「あなたがここにいてほしい」という気持ちになったり──”I miss you”の気持ちだ──、あるいは気持ちが浮き立ったり幸福に感じたりした。

その部分を、私は「友情の中にある恋の部分」、と呼んだ。(p.197)

川野さんの中学・高校時代のエピソードには、私も同じように女子校出身だったからか「わかるわかる!」と感じるところが多く、勝手に親しみをおぼえて嬉しくなった。

その生き生きとした感情描写は、単に読み物としても面白いし、Aro/Aceがよく持たれるステレオタイプへの反例にもなっているように思った。

「アセクシュアル」という概念が前より少し知られるようになって、そういったステレオタイプも固定されてきたように感じる。

アセクシュアルというのは、他者に興味がなく、ドライでクールで淡白で、他者の気持ちがわからない、ちょっと植物か鉱物みたいな人、というイメージ。もっと言うと、心が冷たい人、とか、寂しい生き方、というジャッジがされることもある。(p.7)

でも、アセクシュアルに対するそういうステレオタイプ自体、正しくはない。恋愛や性愛に関心がある人々と同じように、関心がない人々にも、色々な性格がある。淡白な人もそうでない人もおり、陽気な人も物静かな人も、社交的な人も内向的な人もいる。(p.7)

そして私自身も自分事として、ずっとそういう画一的なステレオタイプに抵抗したかったのだと気づいた。

 

これは私自身の体験談だが、Aro/Aceの交流会に参加したとき、うっかり「Aro/Aceのプライド・フラッグって無彩色が多くてあんまり馴染めないんですよね、もっとカラフルでよくないですか」みたいなことを言ってしまい、主催者の方に「まあ、あの色にもちゃんと意味があるからね…」と釘を刺されたことがある。(ごもっともだ)

 

そこに込められた思いや考えを軽んじるような発言はまずかったのだが、一応Aro/Ace的な側面を持っていると自認している私としては、文字通り「もっとカラフルな方が嬉しいのになあ」と思っていた。

 

自分はAro/Aceなのかなあ、と考えるようになり、本を読んだり交流会で他の人の話を聞いたりするうちに、(以前よりも実際の声に触れる機会が増えたにもかかわらず)私自身の中でもAro/Aceに対するステレオタイプや、「Aro/Aceらしい人生像」みたいなものができあがっていってしまっていた。

「恋愛をしない人は、する人に比べて他人と密に関わりたいという気持ちが希薄であるし、実際もそのように行動する。それが心地良いと思っているし、それを貫くのがAro/Aceにとってベスト、かつ一般的なライフスタイルでもある」、と。

 

でも、自分がAro/Aceであると認めたら、「それらしい人生」に向かって歩き出さなければならないのだろうか。

私はまだそんなこと決められないし、みんなと同じ「Aro/Aceらしい生活」を望んでいるわけでもない、と感じていた(実際そんなものはないのだけど)。

あくまで今の自分の一側面を表すためにAro/Aceという言葉を借りるだけであって、この先自分がどんな人たちと、どんなふうに関わっていくかを今決めることまではしたくない。まだまだいろいろ模索しながら進んでいきたいのに。

 

そういう、他者に向けることで自分自身にも跳ね返ってくるステレオタイプとの葛藤が、「無彩色」ではなく「カラフルさ」を求める気持ちに表れていた。

 

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『AはアセクシュアルのA 「恋愛」から遠く離れて』の装幀の色は、淡いイエローに重厚感のあるレッド、ピンク色の帯でできている。

 

私はそれがとてもいいなと思っている。あたたかく血が通っていて、芯が強いながらも他者への思いやりを感じられる色合いだと思う。

 

自分は当事者寄りだから、Aro/Aceに向けるステレオタイプも少ないと思っていた。

けれど実際には、そのステレオタイプで自分自身をさえ縛りかけていた。

 

「わたしたちはもっと自由になれる」、という帯の言葉に力をもらい、これからも生きていきたいなと思う。

 

(装幀は𦚰田あすかさん)

 

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