さだまさしさんの「しあわせについて」である
さだコンサートは本当に面白い
そこいらの若手お笑いは太刀打ちできないと思う
もう長いこと行ってないけれど

今日、京都へ出たら久しぶりに「あなたの一日の健康と幸せをお祈りさせてください」に出会った
昔、親友と組んで、「かめへんよ」と祈らせたまま、ほったらかして逃げたことがある
他にも、祈っている間に、後ろに回って手をかざしたこともある
もちろん断った
はっきり言って興味ないのだ

人の幸せを祈っているように見えるが、結局、自分のために祈るのである
一日のうちに何人か祈ることで、自分に幸せが来るのだ
その時点ですでに、自己中の信仰であることが分かる
私は「幸」も、「不幸」も求めない
どちらも、「自分にとって」であり、見方を変えれば逆転することもあるからだ
結果、「幸」であったり、「不幸」であったりもする
どちらも受け容れることが、自分の人生を生きることだと思う

人は「お幸せそうですね」と言われるよりも、「今、不幸せ(大変)そうですね」と言われることの方が好きなのではないかと思う
「幸せそうですね」と言われても、「そんなことないですよ」と否定する
「大変そうですね」と聞かれれば、「そうなんですよ。今、もう何か大変で・・・云々」と、不幸自慢を始める
心理学や社会学で何というか分からないが、悲劇のヒロインになることを人は望むのだと思う

「あなたは幸せですか?」と聞かれたら、「楽しいですよ」と答えるようにしている
答えになっていないかもしれないが、今は毎日が楽しいのだ

今日の結論
「さだまさしの歌は顔を見ずに聞くに限る」