それから、しばらくして私たちは、サユミの実家にあいさつへいきました。あいさつといっても大げさなものではありません。彼女はよく英語や音楽を習いたいと普段から口に出しておりましたので、それなら私が習わせてあげてもよいものだと内心思っていました。だから、折角当人も学問が好きだと云うし、あんなところに長く奉公させておくのも惜しい児のように思うから、十分なことはできまいけれども、女中が一人ほしいと思っていた際でもあるし、まあ台所や拭き掃除の用事ぐらいはしてもらって、その合間に一通りの教育はさせてあげますが、もちろん、わたしの境遇だの独身のことだのすっかり打ち明けて頼んでみると、

「そうしていただければ、誠に当人も仕合わせでして」

と云うような、何だか張り合いがなさすぎるくらいなあいさつでした。随分無責任な親があるものだとつくづく思いましたけれども、一層そのぶん、サユミがいじらしく、哀れに思えてなりませんでした。なんでも、母親は、彼女を持て扱っていたらしく、芸者にでもしようと考えていたようです。それで、成る程、公休日にはいつも、家にいるのが嫌で戸外へ遊びに出て私についてきたんだな、と謎がとけたのでした。

 サユミの家庭がそのようであったことは、私にとってもサユミにとっても非常に幸だったわけで、話が極まると直に彼女はカフエエから暇を貰い、毎日毎日二人で適当な借家を探しに歩きました。麗らかな日曜日のあさ、会社員らしき男と桃割れに結った小娘が晩春の長い壱日をあちこちと幸福そうに歩いている様子を誰かがみていたとしたら、定めし不思議がったにちがいありません。そのころは、借家も払底でしたから、オイソレと見つからず、半月あまりかかったものでした。こうして探しまわった挙句、結局借りることになったのは、大森の駅からしばらく行ったところの、線路に近い、とある一軒の甚だお粗末な洋館でした。何とかという、画家がアトリエように随分昔に建てたものらしく、あたかも御伽話の挿絵のような、一風変わった様式でした。そこに、気に入ったらしく

「まあ、ハイカラだこと!あたしこういう家がいいわ」

と大喜びでした。確かに、呑気な青年と少女が、なるたけ世帯じみないように遊びの心持で住まうにはいい家でありました。尤も、部屋の取り方は随分不便にできており、ただっ広いアトリエのほかには、二階に二畳と四畳半の部屋があるばかりで、それも屋根裏部屋のような物置にしか使えない程度のものでした。しかし、二人で暮らすには十分用が足りたのです。