幼稚園の途中から阪神に住んでいた私達家族は、両親の故郷である島根県へ移住することとなった。幼い私はその時の状況は全く分からないが、親に手を引かれ駅のホームに立っていた。「味の素」「タケダ」などのネオンの光景だけ何故か残っている。貨物の中で段ボールの側で座っていた。当時、新幹線など無く移動も簡単なものではない。幼い年子3人を連れての移動はさぞかし大変だったろうと大人になった今の私はその頃の両親のエネルギーは想像つかない程強かったと思う。数時間経ったのか、祖母が駅で買ってきた蕎麦のスープを飲ませてくれ竹輪を一口食べた後、急に吐き、呼吸困難になり苦しみを泣く表現しか出来ない私に動揺の声を上げる母の声が聞こえた。蕎麦粉アレルギーだったのだ。後日、竹輪が当たったんじゃ?と母達は話していたが、それ以来蕎麦を見るのも嫌になった。両親の郷里に着いたのは夜だった。空腹を満たすために入ったレストランで食べた「親子丼」蓋付きの容器の上に沢庵が乗っていた。とても美味しかった。こうやって家族揃って落ち着いて外食をしたのは、これが最後だった様な気がする。そして新たな住まいが見つかるまで一先ず父の実家で過ごす事となった。後の母の話では、父が残りの仕事を片付けるのと、新しい仕事を探すため不在の事が多く、私達に肩身の狭い思いをさせないためと週末に戻って来る度に、当時高級と言われる食材を沢山買い込んでくれたそうだ。ただ、その食材は私達の口に入る事は無く殆どが父の実家の家族が消費してしまった様だ。母も当時の事を話す時、悔しそうにしていた。「子ども達を何とか守らないといけんと思った。」と。数日が過ぎ、空き屋だった親戚の家に住むことになり今も私の実家となっている。まだお風呂も何もなく、少しずつ父が仕事の合間に手直ししながら暮らした。 お風呂代わりに湯を張った洗濯機に入れて貰った。私はそれが何故か嬉しくて楽しかった。きっと物心付いて初めて母と触れあえたと実感出来たからなのだと思う。両親はそれどころじゃ無かったかも知れないが…。後に妹にそれを話したら、「楽しかった?私は早く大きくなってお母さんを助けたいと思ったよ。」との言葉。私だけのほほんとしていたのか?と言葉にならない気持ちになった。