私は4人姉妹兄弟の長女。 母は私を妊娠した時に、悪阻が酷くて食事が採れず、お腹の中に居た私はどうやらコカ・コーラと牛乳で育ったようだ。未熟児で産まれたのだが幸い保育器に入る事はなく無事に退院した。当時、父の仕事の関係で借家で暮らしながら、母は飯場の仕事をし、父や父と共に働く同僚、部下の食事を提供するために慌ただしく働いて居た様で、私が物心ついて人の肌の温かさを知ったのは、皮肉にも母の温もりではなく、父の同業者の「船長さん」とあだ名の付いたおじさんの懐の中。おじさんは丹前と言う着物の様な衣服を着ていた。私を懐に入れて歩くのが嬉しかった様で、おじさんの温もりと匂い、タバコ屋さんでポッキーを買って貰った記憶が今も残っている。生後一週間で肺炎に罹り、それから喘息の発作がひっきりなしだったのか、気付けば誰かの背に負われて居た記憶もある。きっと病院だったのだろう。親戚の家に遊びに行き、お泊まりを経験するが急に母が近くに居ない事が寂しくなり泣き叫んで一晩しない内に連れ帰って貰った記憶もある。父は長屋の借家の共同風呂で他の子ども達まで風呂に入れる位の子煩悩。部屋の中にブランコを作ってくれたり、夏には籠一杯のホタルを採ってきて、蚊帳の中で幻想的な灯りを見せてくれる。私達が眠りから覚めると。枕元にお土産を置いてくれている。そんなロマンのある人だった。その長屋には父の親方が飼っていた「サリー」と言う名前の白い犬が居て、おこりん坊なのか何時も側に行くだけで吠えていた。長屋の近くに養豚場があり、ある日大きな豚が逃走し長屋の庭へ飛び込んできた。「噛まれるから逃げなさい!」と促され家に逃げ帰った。サリーが食べられてしまうんじゃ無いかと思う程のドキドキだった。 きっと周りの大人たちに大切にして貰って居たのだからか、病弱だったからなのか、妹弟以外で同じ世代の子どもと遊んだ記憶が余りない。在るとしたら、「空に太陽があるかぎり」を歌って教えてくれたお姉ちゃん。オルガンを習いに行った後に遊ぼうと教室を運営していた家のお兄ちゃんの部屋の2段ベッドで電車ごっこ。小さな私を後ろからぎゅっと守ってくれる様な温もりと手「大きくなったら結婚しようね」と言ったお兄ちゃんの言葉は今も胸に残っている。そして大人達に大切に扱って貰って居ただろう私にある日事件が起きた。幼稚園入園だ。忘れもしない。母が私を先生に預けて去ろうとした時「お母さん!嫌だ!」と何度も絶叫し泣き叫ぶ。先生は寝転がりながら泣く私を必死になだめようとするが泣き止まない。母は泣く私を振り切る様にその場を立ち去る。私にとっては見放される、捨てられる位の恐怖、地獄でしかなかった。園内で過ごした記憶が全く無いのも頷ける程。時々、銭湯の帰りにお好み焼き店へ連れられて父の同僚の家族と一緒にお好み焼きを食べて楽しく談笑している母の声を何となく覚えている。父が仕事で忙しかったのもあり、母に遊園地や「ヤクルト」の工場見学に連れていって貰った。ある日、お風呂帰りのお好み焼き店で、お店の女の子が私に向かって、自分の指を咥えながら「赤ちゃん❗️」とバカにしたように言った。同じ幼稚園に通って居た子なのか、毎日幼稚園で泣いている私を見ていたのだと思う。生まれて初めてバカにされる経験。しかも同じ幼稚園に通ってる同い年の子ども。 私は物凄い嫌悪感と恥ずかしさ、悲しい思いがした。「赤ちゃん」と呼ばれた事に何とも言えない気持ちだった。幼いながら直ぐにその場から去りたい思いがした。その幼稚園では、今で言うところの学童なのか「お残り教室」なるものがあって、週に1度お弁当を持って午後も園に残って勉強したり遊んだりする時間が設けられて居た。あの「赤ちゃん」と言われた日の事がずっと胸に残って居たからか、ある日私は母に「お残りする。」と告げた。あれ程行くのを全力で嫌がって居た私からの意外な言葉に母は驚いたのと共に成長を見せた私を喜んでくれたようだ。その日に持たせてくれたジェラルミンのお弁当箱には私の好きな焼きたらこが入っていて、とっても美味しかった。幼いなりに変わりたいと勇気を出した自分がお弁当の匂いと一緒にそこに居た。