グッチ家の崩壊 | 国内株式市場の考察

国内株式市場の考察

― 新しい市場理論と数式を生み出したい ―

女性の持つブランドファッション価値というのは、いつの時代も男性には理解しかねることがあります。
なぜ、皆こぞってヴィトンのあの柄のバッグを持っているのか。



先日、エルメスのケリーバッグが60万円もすると知って衝撃を受けました。
物によれば、100~120万もするらしいです。

ケリーバッグはモナコの王妃になった、グレース・ケリーが愛用したそうです。
そんなお金があれば、あの銘柄が1000株も買えてしまいます。

良質の素材を厳選し、一流の皮職人が丹精をこめて製作するのでしょうか。



これは想像なのですが。子牛の良質な皮、金具、職人の人件費、全部足しても製造原価の割合がそれほど多いとは思えません。

税関で偽物押収が毎年大量にされるのも、理解できる気がしますね。



プラダのあの黒いバッグの素材は”ポコノ”と呼ぶらしいですが、あれは工業用ナイロンの一種と聞いています。

これ見よがしに、ブランドを特定できるマークが必ず入ってるのも面白いです。
『私は、ヴィトンやプラダを持ってるのよ!』と、持ち主の声が聞こえてきそうです。

まさにあのロゴマークが、女性の持つ虚栄心をくすぐっているのでしょうね。
本当に品質で勝負するなら、生地一面にブランドロゴなど入れなくてもいいはずです。

同じ値段で買える、1000点を越す精密な電子部品が組み合わされた液晶テレビやPCの新製品に比べるとずいぶん不公平だと感じてしまいますね。


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グッチオ・グッチは1881年にイタリアのフィレンツェで、麦わら帽子を製造する会社の息子として生まれました。
彼はロンドンで一旗上げてやろうと決心し、蒸気船の機関士助手として働きながら、1898年にロンドンに辿り着きました。

最高級ホテルのサヴォイ・ホテルに職を得ることができ、ロンドンでは最下級の労働者であったのですが、そこで皿洗いからウェイターに出世します。ウェイターと言えど、来る日も来る日も大金持ちの荷物を運ぶ毎日です。
凡人なら嫌気がさしてしまうでしょう。

低賃金ではあったのですが、貴族御用達のホテルでもあったのでチップには不自由しませんでした。
また、そこで王侯貴族の立ち振る舞いを間近に見ることができ、持ち物や考え方を学んだのです。


あるとき、彼の脳裏に閃きが走ります。


原価はなんの意味も持たない、むしろ値段が高ければ高いほど所有する価値も高くなる。金持ちがどんな旅行鞄を好むのか?デザイン、素材、縫製、金具…。』




サヴォイ・ホテルで働き始めた3年後の1901年、彼は生まれ故郷のフィレンツェに戻ります。

帰国後はいくつかの商店で働き、第一次世界大戦の始まりとともに徴兵。
大戦の後、1919年にまたフィレンツェに戻ります。


そして皮革の扱いを習得した後の1922年。
フィレンツェに自分の店を開き"GUCCI"と店名を掲げます。このとき彼は42歳。

彼の店で主に扱ったのは、革製の馬のサドルや英国から輸入した鞄、そしてそれらの修理です。
そのときの鞄の修理の経験により、壊れやすい箇所や、そこをどう作れば良いか学ぶことができたのです。


彼はニーズを的確につかみ、トスカーナの職人達に作らせます。
その鞄はフィレンツェを訪れる旅行者の心をつかむのに、そう時間はかかりませんでした。

ほどなくしてグッチのブランドは、乗馬の世界にモチーフを求めた鞄、トランク、手袋、靴、ベルトなどのコレクションが、洗練された顧客の注目を国内外から集めるようになったのです。


もし当時の製品がオリジナルのまま残っているのなら、私も一度観てみたいと思いますね。





GUCCIは同族経営の会社でした。


彼の息子達は家業を引き継ぎますが、飛躍的に成長させたのは三男アルドと五男のルドルフォでしょう。

彼は父親の反対を押し切り、拡大路線を推し進めて米国での展開を成功させます。
米国でGUCCIが売れてなければ、今日のGUCCIはなかったことでしょう。

有名なアルファベットGを2つ反転させたロゴマークは、実はグッチオ・グッチのイニシャルです。
しかしこのマークを考え出し、ブランドとしての付加価値を高めたのはアルドでした。


一方、五男のルドルフォは若い頃、家業を継ぐことが嫌で映画俳優を目指します。イタリア映画の名作「線路」に出演する等、一時的に注目されますが最終的に挫折し、無一文になります。

父グッチオはルドルフォに救いの手を差し伸べ、家業を手伝うようになったのです。
映画界に人脈のあるルドルフォは、ソフィア・ローレンやオードリー・ヘプバーン、エリザベス・テーラーなどにGUCCIの顧客になってもらい、GUCCIの名声を高めることに成功します。


しかしながら、仕事上の実績は三男アルドにはかないません。GUCCIはアルドが引き継ぐべきだったのです。
それでも五男ルドルフォは、父親に寵愛されていました。

グッチオが引退するとき、GUCCIの株式は半分づつ平等にアルドとルドルフォに渡ります。
そしてそれはグッチ家の不幸の始まりでした。

二人の兄弟は反目しながらも、微妙なバランスで関係を維持します。
やがてルドルフォも亡くなり、一人息子のマウリツィオがGUCCI株50%を引き継ぐこととなります。


アルドには息子が3人いました。ジョルジョ、パオロ、ロベルトです。

アルドは自分に40%の株を残し、残りの10%を3人の息子に分け与えます。3.3%づつ持たせ、役員会に参加させて経営意欲を引き出そうとしたのです。

息子達の中でアルドと一番性格が似ていたのは、パオロでした。

創業者グッチオの次に二代目社長となったのは、このパオロ・グッチだったのですが、絶対権力者アルドの意思に逆らい、独断専行が目立つようになります。

パオロは父アルドにも内密で、中流階級にまで顧客層を広げたブランドの製品を売り出そうと計画します。量産され、売り出しの一歩手前まで来たのですが、アルドに発覚し阻止されます。
この一件がアルドの逆鱗に触れ、パオロはGUCCIから追放されたのです。


パオロは父への復讐を誓います。


創業時二代目第三世代
グッチオ 100%アルド 50%アルド 40%
ジョルジョ 3.3%
パオロ 3.3%
ロベルト 3.3%
ルドルフォ 50%マウリツィオ 50%



ルドルフォの一人息子、マウリツィオは大人しい御曹司気質でした。

しかしパトリツィア夫人は貧乏な育ちで、社交的な性格でもあり、密かにGUCCI社長夫人への野心を抱いていました。
そもそもそのためにマウリツィオを誘惑し続け、色仕掛けで近づいたのです。
(パトリツィアの素性を見抜いていた父ルドルフォは、二人の結婚に最後まで猛反対し続けました。)

パトリツィアは、アルドとパオロの親子確執をチャンスと捉えます。
夫マウリツィオをそそのかし、パオロと共謀してアルドを追い出すクーデターを起こします。

マウリツィオはパオロが持っていた株式を買い取り過半数を取得、アルドを経営陣の座から追放したのです。
そして、あまり経営の才能があるとは言えないマウリツィオが株主総会で社長に就任となります。

今日からGUCCI帝国の独裁者。アルドの息子達も、新社長に従うしかありません。
社交界における、パトリツィアの地位も上がります。
パーティに行けば誰もが一目置くスターになり、女帝のように振る舞います。


しかしアルドは、このまま引退するような人ではありませんでした。
反撃が開始されるのです。

1985年、アルドは甥であるマウリツィオを告発します。
『マウリツィオの株式は、父ルドルフォのサインを偽造させて不正に取得したものだ。』
元飛書が証人として出廷したことにより、マウリツィオは窮地に立たされます。

しかしアルドも返り血を浴びます。
1986年9月、アルドは740万ドルの脱税疑惑で法廷に立たされたのです。

告発したのは、実の息子パオロでした。

アルドに判決が下されます。
「罰金3万ドル、1年の禁固刑」で執行猶予はつきませんでした。
81歳のファッション界のドンは投獄されます。





この頃、スキャンダルによるイメージダウンと管財人の素人経営で、GUCCIの業績は不振を極めます。

そして1988年、マウリツィオは会長職に復帰を果たします。

しかしながらマウリツィオに経営を任せるくらいなら、他人に株式を売却したほうがいいと考えたアルドの息子達ジョルジョ、ロベルト、そしてパオロまでもが株式を売却します。

売却先は、アラブ資本の投資銀行インベストコープ社です。

マウリツィオはその状況下でもGUCCIの再興に努力しますが、経営の才があるとは言い難い彼では、沈みかけた船はもはやどうすることもできません。

1993年9月、ついにマウリツィオは全株式をインベストコープ社に売却します。売却益は1億6000万ドルを超えるとも言われています。

こうして醜い血族争いの果てにグッチは、70年に及ぶ家族経営としての体制に終止符が打たれたのです。



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そして1995年3月27日、ミラノでの朝に最後のスキャンダルは起こります。


多くの目撃者がいる中、4発の銃声が響きます。元GUCCI会長のマウリツィオが射殺されたのです。
現場からは40代の男が逃走しました。

犯人はマフィアだとの憶測を呼び、事件は迷宮入りかと思われました。
しかし2年後、殺し屋の雇い主が捕まります。





1997年1月31日、ついに捜査員はマウリツィオ暗殺の真犯人が住む、ミラノの高級マンションに踏み込みます。待ち伏せしていた報道陣から次々にフラッシュが焚かれます。



元GUCCI会長夫人、パトリツィア逮捕の瞬間でした。



目はうつろで足取りは重く、手にはGUCCIのバッグを持っています。このシーンをTVニュースで観たことある方も多いと思います。


事件があった頃、マウリツィオは妻パトリツィアが自分と結婚したのは財産目当てであったことに漸く気づき始めます。
パトリツィアに嫌気がさして、別居するようになったのです。

夫から渡される生活費は、毎月1億リラ(約750万円)とも言われていますが、贅沢癖が身に付いたパトリツィアにはその程度で満足できません。
離婚されないうちに夫を射殺すれば、GUCCI株の売却で得た利益を相続できると考えたのでしょう。

1998年11月、ミラノ地方裁判所で50歳のパトリツィアに判決が下されます。

禁固27年。彼女の人生の残り大半は、刑務所で暮らすことになるのです。



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1995年、パオロ・グッチが死去します。
アルドの遺言『パオロはグッチ家の墓に入れるな』は守られ、リゾート地に埋葬されているらしいです。


アルドのもう一人の息子ロベルトは、グッチ家を再興しようと新ブランド「ハウス・オブ・フローレンス(フィレンツェの家)」を立ち上げます。

GUCCIでの経験を生かし、高品質の製品を売り出そうとしたのです。一時は東京青山にも進出しました。

しかしながらあのGUCCIマークなしでは日本人にアピール出来るはずもなく、撤退せざるを得ませんでした。GUCCI売却の際に交わされた契約"グッチ家のブランドである宣伝を一切してはならない"が弊害となったのですね。

今は「フィレンツェでしか買えない」路線にすることで、逆にマニアな人気を呼ぶようになりました。
店舗はプラダの斜め向かいにあるらしいです。




一方で1994年、一族の手を離れたGUCCIは天才的なデザイナー、トム・フォードをクリエイティブ・ディレクターに就任させます(トム・フォードがGUCCIでデザインスタッフとして働き始めたのは1990年です)。

彼はマウリツィオから指示されていたエレガンスなクラシック路線ではなく、野性味あるセクシーなファッション路線を打ち出し、奇跡の再生を果たします。

パトリツィアの逮捕された頃の利益は、1億5000万ドルで前年比85%増でした。1999年には12億ドルにまで売り上げは伸びます。


一族から株式を買い取ったアラブの投資銀行イベントスコープ社はグッチ・グループN.V.社を設立し、1995~96年に2回に分けて株式を公開、持ち株を全て売却しました。GUCCIはイタリアファッション業界の中では、初の株式公開した企業となったのです。


2004年、グッチとイブ・サンローランのクリエイティブ・ディレクターを務めていたトム・フォードは辞任。

1999年頃にGUCCI株式はプラダやヴィトン等により株式の奪い合いとなったのですが、現在はフランスを本拠地とする流通会社 ピノー・プランタン・レデューテ社の傘下となり、グッチ・グループの株式の10%程度がLVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)に取得されています。