カリフォルニア・ゴールドラッシュ | 国内株式市場の考察

国内株式市場の考察

― 新しい市場理論と数式を生み出したい ―

ジョン・サッターはスイスからの移民で、カナダで宣教師をしていました。

彼の乗る船、クレメンタイン号がサンフランシスコのイエナ・ブエナに到着したのは1839年7月1日のことです。



当時そこはメキシコの一部でしたが知事は彼に、開拓のための土地の権利と居留を認可します。
そしてサッターは1840年8月29日、正式にメキシコ市民となります。


翌年には198km²にも及ぶ広大な土地にサッター砦を構築し、60人の私兵も雇われます。
立派な農場でもあるサッター砦は繁栄し、多くのカリフォルニアへの移民の目的地となりました。



1848年のある日、サッターの使用人であるジェームズ・マーシャルは、川沿いの水車を流れる水の中に金色の粒を発見します。

マーシャルは家に持ち帰り、金の粒とアクを鍋に入れて煮るのですが、化学変化せずに輝いている。


『本物の金だ!』


マーシャルは迷った挙句、主人のサッターにこの事を報告します。
サッターに取って、金が出たのは自分が借りている土地。
独り占めして、億万長者になるチャンスです。


二人だけの秘密にしようと企てたのですが、他の使用人達は探ります。
秘密の保持が難しいと感じた二人は使用人達を集め『金が発見されたが、6週間だけ誰にも言うな。』と厳しく命令したのです。


この当時、アメリカはメキシコを戦争としていましたが、アメリカは一方的に勝利します(米墨戦争 1845~1848年)。
奇しく、サッターが秘密の保持を厳命した日の翌日、アメリカは現在のテキサス、カリフォルニア、ニューメキシコ、ユタ、ネバダ、アリゾナをメキシコから譲り受けたのです。

アメリカは幸運でした。
手に入れたカリフォルニアは、まさに黄金卿だったのです。



サッターは現地人など約200人を雇用し、農場を経営していましたが、金の発見によりいてもたってもいられない使用人達。
仕事を放り出し、川へ金を探しに行きます。

農場で働いていたのでは1日にたった2ドル。砂金探しは1日に100ドル。
農場での働き手を確保するのは無理ですね。

サッターの築きあげた楽園は、このとき崩壊します。




新聞業者であり、お喋りなサミュエル・ブラマンにより、金の噂は、瞬く間にカリフォルニア中に広がります。

へんぴな漁村だったサンフランシスコに、黄金熱が猛威を奮う。



教師は授業を投げ出し、漁民は船を捨て、牧師は教会を閉じる。
サンフランシスコ男子住民の実に3/4が川を目指したのです。

そして1848年には1000万ドル、1849年には4000万ドルの金が採掘されます。
次第に全米にこのニュースは広がり、金を求めて西部開拓者がカリフォルニアに殺到。

幌馬車で大陸横断する人、パナマで船を乗り継ぐ人、マゼラン海峡を回ってニューヨークから来る人。

日本からもジョン万次郎(当時23歳)が参加していますね。
彼は14歳のときに、遭難していたところ、アメリカの捕鯨船に救出され、その後アメリカ東部に住んでいました。
ゴールドラッシュのニュースを聞き、カリフォルニアで金を採掘し、日本へ帰る旅費を稼ごうとしたそうです。


1848年にたった1000人だったサンフランシスコの人口は、1949年には25000人になります。なんと25倍です。
人々の金に対する欲望が、西部開拓の原動力となったのです。



もっとも気の毒なのが、本来世界一の長者になるはずであったジョン・サッター。
60人の私兵の心を繋ぎ止められなかったのが、彼の敗因です。

全世界から押し寄せた金の亡者達は、武力を持たない土地所有者に正当な分け前を払おうとしません。
彼は損害賠償をとろうと、州や政府を告訴します。


1880年連邦政府はこれを認め、支払いの準備をしました。
しかし賠償が届くよりも、彼の命数が尽きるほうが早かった。ジョン・サッターは同年6月18日に息を引き取りました。



彼は僅かな年金で晩年を過ごし、最後は無一文で亡くなったようです。
もし発見の成果を享受できたなら、彼は世界で最も裕福な者の一人になったであろうと今でも言われています。



カリフォルニア州にあるサッター群は、彼に由来しています。