閲覧注意かもですが、、、戦争体験者が語ってる内容が、、、戦争は絶対にやってはいけないと訴えています

戦後は「碑を建てるな」と通達

 太平洋戦争中、アメリカ軍が首都・東京に加えた空襲は130回以上におよんだ。最初の空襲は日米開戦からわずか5カ月後の1942年4月、茨城県沖の空母ホーネットから飛び立った艦載機B25による奇襲攻撃であった。その2カ月後、日本軍は空母ホーネットの基地であるミッドウェー島の攻略作戦で大敗。そして1944年7月以降、米軍はマリアナ諸島のサイパン、グアム、テニアン3島を奪取し、ここを基地にB29による本格的な日本本土空襲を始めた。終戦前の2年間、「東京は毎日のように赤く燃えていた」と語られる。

 そして、1945年の3月9日夜、サイパン・テニアン基地を出撃した352機ものB29は、房総半島から低高度で東京に侵入し、都民が寝静まった10日午前〇時7分から約2時間40分の間に下町地域に油脂焼夷弾を約38万発(1800㌧)投下した。この焼夷弾は水では消えない特殊な油脂を周囲にまき散らして爆発的な火災を起こすもので、木造の日本家屋を効率よく焼き払うために特別に開発されたものだった。

 米軍はこの地域全体を焼き尽くすため、春先の強風が吹く3月を攻撃時期に選び、隅田川を中心にして浅草、本所、日本橋区全域を含む下町地域に照準点を設け、周囲から炎で囲い込んで住民が逃げられないように空爆を開始。まともな反撃もないなかで空爆精度を上げるために平均2000㍍の低高度からレーダーを用いて投下するなど、まさにやりたい放題の民族絶滅作戦を実行した。わずか2時間足らずで10万人超が犠牲になるような空爆は後にも先にもない。下町を中心に東京都の六割の面積が焦土と化し、約29万戸の家屋が焼失し、墨田区では人口が空襲前の4分の1にまで激減した。

 8月まで続いた東京への空襲では、判明しているだけで死傷者・行方不明者は25万670人(東京都調査資料による)、罹災者は304万4197人に及んだ。

 墨田区菊川町に住む80代の男性は、「当時小学6年で集団疎開していたが、卒業式のために2月末に菊川に戻ってきた。あの日はいつもの空襲と違う胸騒ぎがしていたが、警戒警報が鳴る前に家の周りはすでに火の手が上がっていた。父は地元の消防団だったのですぐに避難するわけにもいかず長姉と一緒に残った。私は母と祖母、姉と妹と一緒に逃げたが、途中で忘れ物を取りに戻った祖母は帰ってこなかった。その後、父と姉、祖母の3人を菊川橋付近で見たという人がいたが、菊川橋は身動きもできないほど避難者が押し寄せて3000人が亡くなった場所。おそらくそこで亡くなったのだと思っている。米軍機は低空飛行で、日本に高射砲などで撃ち返す気力も戦力もないことを知りながら、これでもかというほどの爆弾を落とした。逃げるときに雨が降ってきたかと思ったらガソリンだった。操縦者が下を見てあざ笑うように爆撃しているようだった」と怒りを込めた。

 その後、「菊川国民学校へ避難して一夜を過ごしたが、朝になると講堂の外には真っ黒焦げの遺体が無数に転がって言葉にできない光景だった。家の方面に向かうと、貯水槽に顔を突っ込んだまま死んでいる人、黒焦げになった馬もいた。菊川橋がかかる大横川も川の水面が見えないほどに遺体がびっしりと浮かんでいた。
東京大空襲は戦争ではなく大量殺人だ。周りから焼いて中心に人を集めてそこに大量の焼夷弾を落とした。こんな残酷なことが許されていいわけがない」と強調した。





 空襲で兄を失った江東区深川在住の男性(86歳)は、「3月9日の夜に空襲警報が鳴ったが何事もなく解除になって一安心したとき、まもなくB29の飛行音が聞こえ、急いで防空壕に逃げ込んだと同時に辺りがパッーと明るくなった。照明弾だった。火勢に押されて家のあった三ツ目通りは避難者であふれ返ったが、黒煙が立ちこめるなかでB29は低空で狙いを定めて焼夷弾を落としてきた。総武線亀沢町のガード下の防空壕はどこも満員。炎は近くまで迫り、手足を必死に動かして火を防ぐのを少しでも休めると衣服に引火する。息も苦しい状況だった。近くにいた小学生くらいの男児が突然2、3㍍先へ転がり、防空頭巾に火が燃え移り目の前で火だるまになった」と語った。

 そして、「母と妹が入っていたガード下の防空壕は焼け落ち、煙が立ち込めているだけだったが、その後、髪は焼け乱れ、顔は真っ黒、もんぺが焼けてぼろぼろになった母に呼び止められた。母は、妹を含め中にいた11人が全員亡くなったことを声にならない声で泣きながら話していた。菊川周辺では遺体が1㍍もの高さに無造作に積まれていた。白骨化した遺体の群や、若い母親が子どもを背中に背負ったまま材木で火をおこし、夫とみられる遺体を顔中涙に咽(むせ)びながら火葬している姿など、まさにこの世の地獄だった。真っ黒焦げになった遺体が転がり、その熱でアスファルトが溶けて人の形をしたまま沈んだ箇所がいくつも残っていた。壁にも人の形が焼け移された場所が残っていた」と話した。

 台東区花川戸で履物屋を営む八七歳の男性は、「
広島、長崎の原爆と同じ大虐殺だ。あれが戦争犯罪でなくてなんなのか。配給制度に移行する過程で浅草近辺の店は強制的に廃業させられたため神田の中学校に通っていたが、大空襲の数日後、同級生の安否を尋ねて深川方面へ向かった。道に散乱する炭化した死体をまたぎながら歩いているとき、門前仲町の三菱銀行の前で母親が赤ん坊を抱いたまま死んでいた姿が忘れられない。火にあぶられてピンク色をしていた。当時、東京では軍の指導で防空壕をつくったが、家の畳の下に穴を掘ったり、上に人が乗ったら屋根が落ちるような粗末なもので逃げ込んだ人はみんな蒸し焼きになって死んだ。自分の手で火葬場を掘ったようなものだ。一夜にして下町は焼け野原にされたが、その後も米軍の艦載機は生き残った人をめがけて機銃掃射をしかけ、おもしろ半分で笑いながら撃っている米兵の顔がくっきり見えた。戦後、この絨毯(じゅうたん)爆撃を指揮したルメイ将軍に天皇は勲章をやったが、腹が立って仕方がない。私の知り合いにインパール作戦の体験者がいるが、白骨街道になったビルマではみんな餓死と病死だったという。今安倍首相が“後方支援は安全だ”といっているが、それならなぜアメリカは無抵抗の市民が住む東京を取り囲むように焼き尽くし10万人もの人人を殺したのか。むしろ後方こそ標的にされるのだ」と話した。

 隅田川の両岸から人人が炎に追われて逃げ込んだ言問橋や吾妻橋などでは、戦後も橋の欄干に抱きついたまま焼死した人の油が人型のまま黒く残っていたこと、折り重なるように避難した亀戸のガード下でも壁面に山積みになって焼け死んだ人たちの油が跡になり、何度ペンキを塗っても浮き出てくることなど、体験した人人の凄惨な記憶とともに忘れてはならない傷跡として語られている。