Translator’s soliloquy

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翻訳家の独り言

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バイリンガルとは、母国語と外国語を同等に使いこなせること、もしくはそういう人のことをいう。

原義的には2ヶ国語を自在に操れるというほどの意味なのだが(ちなみに3ヶ国語の場合はトライリンガルといいます)、私は英語しか知らないので、ここでは便宜的に日本語と英語に限定して話を進めていきたいと思う。何卒ご了承のほど。

近頃はテレビ番組などでバイリンガルの活躍機会が増え、混血の割合も滅法多いから、日本語と英語のどちらが母国語なのだろう、と考えさせられることもしばしばだ。それくらい両方に堪能という意味でもある。少なくとも、私にはそのように見える、というか聞こえる。

国籍ということを別にすれば、どちらが母国語かは専ら個人の選択に任されるべき問題で、言語学的にどちらに属すかを本人が決めればすむだけの話だ。滝川クリステル氏が、「私の母国語は日本語です」と言えば、それが正しいのであり、余人が口を挟むことではない。むろん英語でも大いに結構。

日本語と英語の能力が高いレベルで一致し、どちらもまったく同等に使いこなせる人を私は心底羨ましいと思うが、ごくまれに「自分には母国語と外国語の区別はありません」という強者が現れて当惑させられる。

これは、私に言わせればアイデンティティがないというのと同じことで、もしそれが本当だとしたら、周囲にとってかなり迷惑な存在であることはもちろん、本人にとっても辛い生き方ではないか、という気がするのだがどうだろう。

言葉は人間の本質で、これを司るのが母国語だ。個人の人格が拠って立つところのもの、と言っていい。時間で言えば世界標準時、貨幣では基軸通貨に相当するもので、これが定まっていないと他の言語を量る術がない。外国語が母国語より上手くなることはない、という説を私は素直に信じる。もしあるとしたら、それは母国語と外国語が入れ替わるときで、すでに人格も変貌を遂げているに違いない。

前述の滝川氏のほかにも、ロバート・キャンベル、ピーター・バラカン、デーブ・スペクター、クリス・ペプラーなどの各氏に尋ねてみたいものだな、と常々考えている。

「あなたの母国語はどちらですか?」

そういえば、日本文学と日本文化研究の第一人者、ドナルド・キーン氏は90歳を前に本邦への帰化を果たし、文字通り日本に骨を埋める覚悟を決めたのであった。その心意気に感動せずにはいられない。